『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~

第六章 赤い川



 犬の吠え声は、すぐにいくつも重なった。

 闇の中で戸が開く音が続く。

 誰かの怒鳴り声。足音。乾いた咳。

 中村軍曹は相沢の腕を強く引いた。

「行くぞ」

 相沢はうなずいた。

 だが彼女から目を離せなかった。

 彼女はゆっくりと瞼を閉じ、小さく俯き静かに立っていた。

 責めるでもなく、許すでもなく。

 その沈黙が、何よりも恐ろしかった。

 二人は納屋の裏手から畑へ滑り出た。

 露に濡れた草が足に絡みつく。

 背嚢の中の米がやけに重い。

 夜明けは近かった。

 東の空が白み始め、山の稜線が浮かび上がる。
 
 村のはずれを流れる小川の方へと、自然に足が向いた。
  
 喉が焼けるように渇いていた。
 
 相沢は膝をつき、水面に手を差し入れた。

 水はぬるかった。

 そして、妙な匂いがした。

 鉄のような、生臭い匂い。

 水を掬い上げようとした手が止まる。

 薄明の中で、水の色がはっきりと見えた。

 濁っている。いや――赤い。

「……軍曹」

 相沢の声は掠れていた。

 上流から、何かが流れてくる。

 最初は流木かと思った。

 だが違う。黒く膨れた腹。折れ曲がった脚。

 数頭の馬だった。

 眉間を一発で撃ち抜かれた軍馬の死体が、ゆっくりと水に押されて回転している。

 腹の裂け目から、まだ乾ききらぬ血が川に溶け出していた。

 そのたび、水面がゆらりと赤く染まる。

 悪臭が風に乗って村へ流れていく。

「……終わったはずだろうが」

 中村軍曹が低く呟いた。

 戦争は終わった。

 そう知らされたのは、もう何日前だったか。

 それでも命は、こうして撃ち抜かれ続けている。

 相沢は立ち上がれなかった。

 流れていく馬の体に、見覚えのある焼印が見えた気がした。

 かつて自分たちが荷を運ばせ、鞭を入れ、共に山を越えた馬。

 名前さえ付けなかった命。その血が、いま村の水を染めている。

 背嚢の中で米が擦れ合う音がした……。
< 6 / 13 >

この作品をシェア

pagetop