『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~
第七章 胸に残る戦争の傷

遠くから、人の声が近づいてくる……。
最初に聞こえたのは、泣き声だった。
中年の女の声だった。
それは怒鳴り声でも罵声でもない。
ただ、腹の底から絞り出すような低い嘆きだった。
小川の下流から、村人たちが集まってくる。
裸足の子ども。鍬を握った老人。肩を震わせる女たち。
誰も相沢たちを見ていなかった。
皆、川を見ていたー赤く濁った流れ。
そこに引っかかるように止まった軍馬の死体。
膨れた腹がゆっくりと揺れ、腐臭が朝の空気に広がる。
老父の一人が水面に石を投げた。
ぱしゃり、と鈍い音がした。
「もう飲めぬ……」誰かが呟いた。
別の老婆が両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。
水瓶が転がり、空しく乾いた音を立てた。
この川は村の命だった。
畑を潤し、米を炊き、祈りの前に口をすすぐ。
そのすべてが、いま止められている。
戦争は終わったというのに。
中村軍曹は相沢の腕を掴んだまま、動かなかった。
逃げることも、隠れることもできたはずだった。
だが、足が動かなかった。
相沢も同じだった。
背嚢の重みが、急に現実味を帯びる。
中で擦れ合う米の音がやけに大きく聞こえた。
その時だった。
あの彼女が人垣の向こうに現れた。
昨夜の女だった。
彼女はゆっくりと歩いてくる。
村人たちの間を抜け、まっすぐ相沢の前まで来て止まった。
相沢は目を逸らせなかった。
赤い流れ。腐った命。
彼女は、自分の胸に手を当てた。
そして、相沢の胸を指差した。
言葉はいらなかった。
――あなた達の戦争は、まだ此処にある。
そう言われた気がした。
遠くで銃の安全装置を外す音がした。
はっきりと英語と分かる声が聞こえて来た。
連合国軍の兵士たちが、村へ下りてくるのが見えた。
二人は素早く村人の陰に隠れてその場を離れた……。