あなたがいるから世界は美しい
最終章
その翌日、鈴木蓮は病院へと直行していた。家政婦さんの話によると、詠子さんは風呂場で倒れていたところを発見されたというのだ。前から貧血を患っていたようである。それが原因で倒れたと思われていたのだが……。
よくよく聞いてみると、末期の直腸癌だという事が判明したのだ。
「母さんは、自分が癌だという事を知っていたらしいよ。でも、誰にも内緒で通院していたみたいなんだよ」
リンパ節などにも転移しており余命半年と宣告されているというのだ。
これまでの鈴木蓮は、できるだけ、詠子さんとは顔を会わせない様にしていた。しかし、これからはそうはいかなくなってきた。
何しろ、彼女にとって唯一の『家族』だ。例え、血が繋がっていなくても鈴木蓮が彼女をサポートするしかない。
鈴木蓮が教えてくれた。
「治る見込みはないらしい。あの人は一人で死の恐怖や痛みに耐えるしかない。最近、やたらと会いたがっていたのは、死期が迫っていたからなのかもしれない。そう思うとやるせないよ……。オレは。ずっと無視してきたからな」
寧々に打ち明ける鈴木蓮の胸中は複雑に揺れ動いている。申し訳無さそうに寧々に告げている。
「長い間、尽くしてくれた家政婦さんは高齢を理由に辞めたいと言った。腰痛を我慢してきたらしいよ。母さんの世話をする人を急遽募集したんだが、すぐには見付かりそうにない」
次の家政婦さんが見つかるまでは、鈴木蓮が洗濯物などを届けなければならない。それを聞いた寧々が言った。
「副社長は忙しいから無理ですね。それなら、あたしが、お母様の下着や着替えの管理をしますよ」
「いいのか? 母さんは、あんたに対して、あんな酷いことをしたんだぞ」
「それは、もう一人の別人格がやった所業です。それに、今は、もう、そんな事をする体力もないと思います……」
余命半年……。
彼女の両親は彼女が若い頃に他界している。妹さんが海外にいるが仲が良くないので、わざわざ会いに来ないらしい。
詠子には心を開いて付き合うような親しい友達もいない。夫に先立たれて、ポツンと広い家の中で暮らす孤独な日々を重ねていた。何と孤独な人なのか。胸にツンとしたものが刺さる。
(最後の瞬間は、静かに迎えさせてあげたいな)
詠子が入院した一週間後、寧々は、勇気を振り絞って彼女の病室を訪問したのだ。
「お久しぶりです。今日は副社長の代理で参りました……。御気分はいかがですか?」
緊張感を押し隠しながら、愛想よく話しかけたところ、対する詠子は菩薩のように穏やかに答えた。
「あら、またお会いしたわね。まぁ、なんて可愛らしいチューリップなの。本当にすみませんね」
寧々が持ってきた紙袋の中には、先刻、買ったばかりの一週間分の詠子の下着が入っている。古いものは寧々が病院のランドリーで洗濯している真っ最中である。
(あたしの顔を見るのって、この人の負担になるんじゃないのかな)
無意識のところで、詠子は秘書の寧々を憎んでいる。
出来る事なら、さっさと立ち去りたい。しかし、詠子は穏やかな口調であれこれと聞いてきた。
「羽生さん、もしかして、あなた、まだ独身なの?」
「あっ、はい……」
「あらあら、どうして、まだ独身なの?」
「えっ……。あの、残念ながら相手かいなくて……」
「ごめんなさいね、立ち入った事を聞いちゃって……。許してね。悪気はないのよ。あたしも、奥手でね、親に勧められてお見合い結婚したのよ。あなたもお見合いをしてみたらどうかしら。いい人、紹介するわよ」
「あっ……」
それは結構ですと言おうとしたのだが、その前に詠子が机の上にあるものを示した。策色の古風な風呂敷に包まれている。
「あのね、うちの息子に渡して下さる?」
「あっ、はい。分かりました」
寧々は薄く平たいものを手にした。何だろうと思っていると、詠子が嫣然と微笑みながら言った。
「これは蓮ちゃんのお見合い相手のお写真なのよ。あたし、どうやら、あまり長く生きられそうにないのよ。蓮ちゃんの事が心残りなの。死んでも死に切れないわ。母親として、あの子の幸せを見守りたいのよ」
息子について案じる表情の裏に狂気が潜んでいるなんて誰が想うだろう。
「あの子は、どこに出しても恥ずかしくない立派な息子なのよ。大学の成績もすごく良かったのよ。高校の英語の弁論大会では優勝したわ。あの子は、おじぃさまの会社を継いで、もっと大きくするんだって、子供の頃の作文に書いていたのよ。その為には、ちゃんとした家のお嫁さんが必要になるわ。ねぇ、そうでしょう」
寧々に同意を求めるかのように言う。
「優秀なあの子に相応しい伴侶を見つけてあげたいの。母親として、あたしに出来る最後の仕事なの。お父様の築いた会社をより大きなものにする為には、蓮ちゃんには、パートナーが必要なのよ。秘書のあなたもそう思うでしょう?」
「……そ、そうですね」
今の彼女に悪気は無い。菩薩のように微笑みながら寧々を見つめている。寧々は呆然としたまま、愛想笑いを返していたのだが、内心、真っ青になりながら胸を震わせていたのだった。
☆
お見合い写真を鈴木蓮に手渡すのは辛い。出来れば渡したくない。でも、母親として息子を思う詠子の気持ちもよく分かる。
余命半年。詠子は何を心の支えにして暮らしているのだろう。
夫に裏切られ、愛人の子供の母親となり色々と葛藤した末に、病魔に蝕まれて亡くなろうとしている
寧々は、その夜、鈴木蓮に報告した。
「えっ、お見合い?」
彼は、無造作に写真と書類を眺めてから面倒臭そうに呻いた。
「この女性なら知ってる。いくつもの不動産を扱う桃山グループの令嬢だ。母さんの同級生の女性の娘だ。子供の頃、うちに何回か来たこともある。確か、ピアノが得意な女の子だったな」
「そ、そうですか」
どんな顔なのか知りたいが、怖くて顔を見る事が出来ない。
すると、鈴木蓮が目の前に写真を突き出した。
「オレより二歳年下の二十五歳だ。今、父親の会社で働いているみたいだね」
涼やかな一重瞼の落ち着いた雰囲気の女性だった。佇まいが詠子に似ている。もしも、詠子に娘がいたなら、きっと、こういう雰囲気になっていただろう。
良家の若いお嬢様と結婚させたいという親の気持ちはよく分かる。狂気に陥っていない時の詠子の行動におかしな点はないのだ。
「……この人を断ると、また別の見合い話を持ち込むに決まっている。そうなると、やっかいだ」
冗談めかして鈴木蓮が言った。
「オレ、ゲイのフリをしようかな。吉良のこと好きって言うとリアリティあるし。だけど、母さん、オレがゲイじゃないって知ってるからな」
ウーム、困ったぞと考え込んでいる。
「母さんが亡くなるまでは、契約彼女を作って、やり過ごすしかないだろうな」
そう言ってから、鈴木蓮は頭を抱えて難しい顔をしている。
「いや、でも、少女漫画みたいに偽装恋愛の相手を見つけるのも至難の業だよな。それなりの家柄でないと母さんは納得しないだろうし。参ったな」
寧々の事を恋人として紹介するという選択肢はない。なぜなら、詠子は狂っているからだ。
息子が秘書を愛していると知ったなら病床に伏せている彼女を刺激する事になる。
(あたしの事を伏せるのは、彼女の精神の安寧と、あたしの暮らしを守る為でもあるんだよね)
それは分かっているけれど、やっぱり寂しかった。まるで日陰の身になったようで切ないのだ。
明日は日曜日。洗った洗濯物を届けようと思っていたのだが……。
その夜、なかなか眠れなかった。何度も寝返りを打つ。そして、これまで起きた様々なことを振り返っていく。
(あたしは副社長が好き……。この人も好きだと言ってくれている……)
それでも、二人の年齢差を考えると寧々は不安な気持ちになる。
ちなみに、小鳥ちゃんが会社に来たので送り届けたことや、椿に呼び出された事を電話で話すと友則が謝ってきた。
『すまん。色々と迷惑をかけたらしいな。義理の母親に椿の不貞の事を話すよ。まずはそこから始めるよ。親権争いがどうなるかは分からないけど、オレ、とことん闘うぜ。小鳥の為なら、どんなに不利な闘いでもやり遂げてみせる』
この人はタフだ。自分にとって大切なものが何なのかを分かっている。だからこそ、どんな困難にも心が折れない。
「ところで、あれから、棚部さんとはどうなの?」
『あの子は天使だな。小鳥を取り戻す為に色々と愚痴ってたら、ずーっと聞いてくれるんだよ。まぁ、そんな訳で、今のオレは元妻相手に闘っている。それで、おまえはどうなんだ? 副社長と仲良くしてんのか?』
『あっ、うん……。想像に任せるね』
告白はされたけれど、まだ、そういう関係には至っていない。同じ屋根の下にいるけれどもプラトニック。もう三十四歳なのにキスから先に進めないなんて、こんなのどうかしている。
寧々は、少し唇を尖らせる。
『あたしって、そんなに魅力がないのかな……。副社長にまだ手は出されていないよ』
ベッドに横たわったまま正直に言うと、友則は乾いた声で笑った。
『あいつ、意外に古風なんだろうな。多分、父親みたいになりたくないって思ってんじゃねーの』
『副社長のお父さんって、どんな人だった?』
『さぁなー。オレも詳しくは分からないけど、人当たりはいいみたいだぜ。よく言えば優しい人。悪く言えば優柔不断の優男。自分で何かを決定するのがとにかく苦手な人だったと聞いてる。おまえの好きな副社長とは逆のタイプのようだな』
確かに、鈴木蓮は惨酷な優しさを示すようなことはしない。
『気に食わない奴だけど、副社長は仕事は出来ると思うぜ。女に対しても一本気な奴だわ』
『そうだよね』
『あっ、寧々、オレ、寝るわ』
もっと話したい気分だったのだが、友則も暇ではない。実にアッサリしたものだ。最近の友則は寧々よりも小鳥ちゃんの事で頭が一杯だ。
『あっ、忘れてた。棚部さんの好きな食べ物って何かな? おまえ、知ってる?』
『なんで、そんなこと聞くの』
『棚部さんに仲介してもらって新たな顧客をゲット出来たんだ。だから、手土産を奉げたい』
棚部杏と友則の距離がグングン近くなっている。
棚部さんは友則の好みの可愛らしい女性だ。
(まさか、友則、棚部さんと恋愛関係とかに傾いていたりしないよね?)
友則にしつこく迫られた時は迷惑だったけれど、彼は、これから、もっと幸せになる権利がある。とはいうものの、棚部さんが相手だと若過ぎる。
(だけど、小鳥ちゃんの親権問題は有利になるかもしれない。こればっかりは、どうなるか分からないけどね)
いやいや。他人のことよりも、自分の人生についてしっかりと見つめよう。寝る前に、寧々は鏡台の前に座って、まじまじと自分の姿を観察していく。
三十四歳。子育てをしたいのなら、結婚は早い方がいいだろう。
年々、どんどん、色んな可能性が狭まっていくようで怖い。
出来る事なら我が子が欲しい。いや、もちろん、子供がいなくても幸せなカップルはたくさんいる。
けれど、もしも、鈴木蓮が隠し子を作ってしまったら、きっと心はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。
だって、友則が椿さんとの間に子供を作ったと聞いただけで、寧々の心はボロボロになったんだもの。
詠子が、なぜ、あんなふうに狂ってしまったのか……。
不妊治療をしても報われなかったからなのだ。
就職活動で落ち続ける惨めさの何倍も何倍も辛い。まるで、自分という人間が否定されたような惨めさに打ちひしがれたに違いない。
そんな状態で、愛人の子供の存在を知らされたとしたら……。自分なら耐えられない。
その上、憎い愛人の子を夫が彼女の住まいに連れてきたんだもの。夫の為にも良き母にならねばならない。もちろん、生まれてきた子に罪はないが、それでも、愛するのは難しい。しかも、身勝手な夫は妻を残して自殺してしまっている。
懸命に育てた鈴木連も、高校生になると祖父の元へと逃げ込んでしまった。
彼女の友人達は実子を育てている。
どんなに鈴木蓮について自慢をしたところで、『あなたを傷つけた女の子でしょう?』という哀れみのようなものを感じた事もあったに違いない。
彼女は実子を欲していたに違いない。人並みの幸せが欲しかったに違いない。
鈴木蓮は彼女の痛みを理解している。
そして、現在の彼は、余命いくばくのない詠子に尽くそうとしている。そんな鈴木蓮に寄り添って支えてあげたい。彼をもっと理解したい。もしも、許されるのなら、この先も鈴木蓮の側にいたいのである。
いつの日か彼の妻になりたいという気持ちが膨らんでいた。しかし、今はそんな気持ちを押さえ込むべきだ。
その日、お昼休憩の後、寧々は、詠子の病室に向かう準備をした。
「別に、毎日、母さんの顔を見に行かなくてもいいんだよ」
鈴木蓮の言葉に寧々はニッコリと微笑む。
「ほんの十分ほど顔を見せるだけで、詠子さんは安心するみたいなんです。売店にお茶を買いに行くのも辛いみたいですから……。あたしが代わりに買いに行っているんです」
「ほんと、悪いね……」
「あの、お見合いの話はどうなりましたか?」
「ああ、それは、こっちから先方に断りの電話を入れた。付き合っている人がいますと言ったら、先方は納得してくれた。問題は母さんだ。付き合っている人って誰って、しつこく聞いてくるんだ。会社関係の人だと言って適当に誤魔化している」
「……そうなんですか」
「ごめん。本当は寧々を紹介したいんだ。でも、そんな事をすると、母さんの中にいる悪魔が不意に目覚めてしまいそうで怖いんだ」
「そうですね」
多重人格。今のところ、あれ以降、そういう兆候はもない。詠子さんは体調が悪くてそれどころではないのだろう。
「それでも、母さんが元気になって退院したなら、包み隠さずに、ちゃんと寧々の事を話したいと思っている」
「嬉しいです。でも、やっぱり、今は知らせない方がいいと思いますよ」
三十四歳の年上の女なんて息子に相応しくないと詠子さんは考えるに決まっている。
何より、秘書というワードは禁句だ。寧々は、彼女にとって忌避すべき存在だ。彼女と顔を何度も合わせるうちに彼女が暴発しそうで怖い。
そして、それは残念な事に的中する。
☆
詠子さんが入院してから二週間が経過しようとしていた。
ここは個室だ。彼女はテレビをほとんど見ない。たまに刺繍をしているらしい
隣室には、頻繁に見舞いの人が訪れるだけに、詠子の孤独がより濃く際立っている。
この日、鈴木蓮は私服姿だった。今日は日曜日。同じく私服姿の寧々を連れて病室へと入ったのである。すると、怪訝そうな顔で詠子が言った。
「あら、秘書さんは休日でしょう」
「彼女には日曜も働いてもらっているんだよ。そんな事より、母さん、調子はどう? 何か困った事はない?」
「申し訳ないわね。見てのとおりよ。最近、目が霞むのよ」
この日、鈴木蓮は自ら選んだ花束を手にしていた。寧々は、少し後ろに下がった状態で見守る。
詠子から背を向けて梨を剥いていた寧々が梨の入った皿を鈴木蓮に差し出すと、それを黙って彼が受け取る。ただそれだけの何気ない行為なのに、詠子は、なぜか、眉をピリつかせた。静かに警戒の表情を見せ始めている。この部屋の磁場のようなものが乱れているのを寧々は敏感に感じ取ったのだ。
おかしい、妙だ。
何だか、彼女の目付きが澱み始めている。嫌な予感が心を揺らす。もしかしたら、アンナと夫との不倫関係を思い出しているのかもしれない。そんな詠子の心の奥底を刺激するような事を鈴木蓮が口にした。
「母さん。聞いてくれ。大切な話がある。寧々は秘書だけど、でも、それだけじゃない」
「寧々?」
詠子のこめかみが青白く引き攣っている。ピリリとした空気の変化を察知した上で鈴木蓮は低い声で凛とした態度で告げようとしている。駄目よ。はやまらないで!
寧々の必死の顔を知った上で彼は語り出している。
「オレは、ここにいる寧々を誰よりも愛しているんだ。だから、お見合いはしないよ。オレ、寧々と少し前から暮らしているんだ。この人のことが好きなんだ」
寧々は、ハッとして鈴木蓮の横を見つめる。今、なぜ、急に言い出したのだろう。
ハラハラしていると、詠子が切れ気味に叫んだ。
「あら、嫌だ。あなた、秘書を好きだと言ったの! ねぇ、よく御覧なさい。この人はうんと年上なのよ」
難するように寧々を一瞥している。その胡乱な顔つきに呑まれそうになりながら、寧々は身を縮めていく。どうもすみませんと言いたくなってきた。
「蓮ちゃん、正気なの? やめなさい。だって、この女の人は秘書なのよ」
「そうだね。秘書だね。年上だね。オレにとっては最高のパートナーなんだよ」
詠子の瞳は寧々を責めている。秘書がまるで汚らしいものであるかのような顔つきをしている。
そんな詠子の目を見据えたまま、鈴木蓮が真摯な声で告げている。
「彼女がいるおかげで癒されている。だから、この人と結婚することにした。母さんにも、どうか分かってもらいたい」
彼の言葉の裏には並々ならぬ決意のようなものが滲んでいる。
彼女は、一瞬、洞の様な目付きになった。寧々はハラハラしたまま動向を窺う。
詠子は俯いている。そのまま黙り込んでいる。そして、ベッドの上でギュッと布団を握り締めたまま、低い声で、ふふふっと微笑んだ。不自然なほどに明るい表情だった。そのことに寧々は違和感を抱いた。胸がザワザワとしてきた。
「あーら、そうなの。とっても綺麗な人だものね。蓮ちゃん、あなたが選んだ相手なら、母さんは、どんな人でも賛成よ。おめでとう」
「ありがとう。母さん」
鈴木蓮が微笑み返そうとした時、鈴木蓮のスマホが鳴った。
ちよっと失礼と言ってスマホを手にして背を向けて病室の外へと出ている。どうしたのだろう。彼の背中から緊張が伝わってくる。
廊下に出た彼を見送った後、とりあえず、寧々は、鈴木蓮が持ってきた花を花瓶に生けようとする。
そして、綺麗に花を差し込んでから窓際のサイドテーブルに花瓶を飾ろうとした時だった。
「汚い手で触らないで!」
ベッドから降りると、そのままドンッと乱雑に寧々の腕を振り払ったのである。
えっと目を強張らせながら寧々はたじろぐ。
詠子の荒んだ顔が目の前に迫りドキリと鼓動が揺らいだ。
詠子は両手で寧々の胸に手を添え、壁際に突き飛ばす。その刹那、ゾクッと寧々の身の毛がよだつような恐怖が目の前に迫ってきた。一瞬のうちに詠子の目つきが豹変した。
不穏な表情を滾らせながら凶悪犯のような声で叫んでいる。
「チクショウーーー。この泥棒猫! あたしの蓮ちゃんを返せーーーーー」
彼女の中で精神の境界線を保っていた封印がブチッと切れたらしい。
「きゃっーーーーーーーーー」
寧々は悲鳴をあげて後ずさる。いきなり、首を絞められて凍り付いた。まるでゾンビのように、詠子の細い腕が喉に絡みついてる。
苦しくなり立ちくらみがしてきた。そのまま、ズルリと座り込む。詠子は寧々に馬乗りになっている。いつの間にか、寧々は持っていた花瓶を床に落としていた。その破片に気付いた詠子が、割れた硝子の破片を握り締めて寧々の顔を切りつけようとする。
ヒュンと破片を振りかざしてきた。その弾みで、詠子の指の血が寧々の頬に跳ねる。
「母さん、やめろーーーー」
ダンツ。病室の引き戸が開いた。戻ってきた鈴木蓮が背後から詠子の手を押さえつけて制止する。しかし、詠子は獣のように興奮している。
正気を失った詠子には鈴木蓮の制止の声など伝わらない。彼は、詠子の背後から囁いている。
「母さん、オレだよ……」
凶器を取り除こうと奮闘する鈴木蓮の手からは血が滴っている。硝子の破片が鈴木蓮の指先を切り裂いている。しかし、鈴木蓮は、それでも怯む事なく破片を握りしめている。片方の手で詠子の肩をさすりながら言う。
「母さん。オレは母さんに感謝してる。好きだよ」
ギュッ。荒ぶる詠子の魂を押さえつけるようにして囁いている。
「母さんは、僕にとって大切な人なんだ。だから、理解して欲しい」
鈴木蓮の声音は小刻みに震えている。祈るような囁きが続いている。
「母さん、母さん、お願いだからオレの声を聞いてくれよ」
「……」
詠子は弛緩したように動きを止めて振り返る。鈴木蓮は義理の母である詠子を正面から見つめてから、こう告げた。
「寧々のことを母さんに伝えたのは、母さんに祝福してもらいたいからだよ。よく見てくれよ。寧々はアンナとは違うよ。オレのママは母さんを苦しめた。悪い女だったね」
鈴木蓮は頬を濡らしている。もう。詠子は呻くのを止めていた。
「オレのママのせいで、母さんは哀しい思いをしたね。ごめんね……」
寧々は、この場に漂う狂気と恐怖を感じながらも詠子の表情を確認せずにはいられなかった。
意識がどこか別の所に飛んでしまっている詠子。それを引き戻そうするかのように、鈴木蓮が囁いている。その囁きは祈りのようにも聞こえる。
「アンナは死んだよ……。母さんを苦しめた女は死んだ。不倫は良くないよね、だから、天罰が下って死んだんだよ」
鈴木蓮の告白の内容はあまりにも悲しいものだった。
いいえ、アンナさんは悪くない。寧々は叫びたかった。でも、余計な事は言わない。
余命いくばくかの詠子を慰撫する為にも、鈴木蓮は本当の母親を悪者にするしかないのだ。彼は、詠子のボロボロの魂に寄り添おうとしている。
「今まで寂しい思いをさせてごめんね……。息子なのに、母さんを守ってあげられなくてごめん。こんなに痩せているのはオレのせいだ。病気になったことに気付いてあげられなくてごめん」
小学生の頃、詠子に色々と傷付けられたのに、この人は、それを全部赦している。詠子を包みこもうとしている。
彼は、涙を目に溜めながら語っている。鮮血が伝い落ちる様子を見ていると、胸が痛くなる。それは、鈴木蓮の涙のように見える。
(生みの親と育ての親、どちらも、この人には大切なんだ)
鈴木蓮の葛藤や苦しみが寧々にもヒリヒリと伝わってくる。寧々も告げずにはいられない。
「詠子さん! あ、あたし、副社長を愛しています。彼のことを支え続けます。どうか、認めてください」
正気を失っている詠子に何を言っても無駄なのかもしれない。でも、訴えずにはいられない。
「あたしは、この人を愛し続けます。あなたの息子さんを大切にします」
ポロッ。この時、詠子の瞳から涙が零れ落ちていった。寧々の瞳からも涙がトクトクと溢れている。
「……」
ふと、空気が止まった。
彼女は、あどけない幼子のような瞳で寧々の顔をまじまじと見下ろしている。鈴木蓮の右手の指先から血が滴り落ちている。リノリウムの床に赤い血が点在している。ハッと気付いた詠子は、恐ろしげに悲鳴を上げた。
「きゃーーーーーーっ」
すがりつくようにして鈴木蓮に訴えている。
「やだ、蓮ちゃん。大変よ。早く、お医者様を呼ばなくちゃ。あなた、怪我してるわよ」
鈴木蓮の右手は真っ赤になっている。何が起きたか分からない詠子は混乱しきっている。
「あらあら、どうして花瓶が割れたのかしら」
いつのまにか、詠子の中で人格が戻っている。
ホッとした寧々が密かに呼吸を整えていると、ナースセンターから看護師が現れた。
鈴木蓮は、駆けつけてきた若い看護師に対して申し訳無さそうに言う。
「すみません。僕が花瓶を落としてしまって、慌てたせいで、こんなことに……」
「あら、あなた、手を怪我してるのね。そちらの女性も顔色が悪いわよ」
「お忙しいのに、色々とお騒がせして申し訳ありません。母の指も怪我したようです」
「お母様の指の怪我はたいしたことないけど、あなた、すぐに救急外来で処置した方が良いわよ」
そう言うと、鈴木蓮は処置室へと向かったのである。寧々は不安を感じながらも、その場に残っていた。
寧々は砕けたクリスタルの花瓶の破片を片付け始める。その様子を見ていた詠子が気遣うように手伝おうとしたけれど、寧々は断った。
「いいえ。奥様は、そこでお休みください」
すると、彼女は優しいそよ風の様な微笑を浮かべたのだ。
「羽生さん、申し訳ないわね。床も拭いくださいな」
言われた通りに鈴木蓮の血を綺麗にタオルで拭いながらも、寧々は背後を気にしていた。
また、何かの弾みで、この人は豹変するかもしれない。だけど、ちゃんと目を見て伝えたい。分かってもらいたい。破片を片付け終えると、改めてこう告げた。
「あたし、蓮さんを愛しています。息子さんの結婚を認めてくださいますか?」
「あら、やだ。認めるも何も、あなた達は心から愛し合っているんでしょう。見ていたら分かるわよ。お似合いよ。あたしに、早く孫の顔を見せてちょうだい。あたしも頑張って長生きするわ」
「ありがとうございます」
詠子の言葉がどこまで本気なのかは分からない。おそらく、本人にも分からないだろう。でも、それでもいい。鈴木蓮が、この人を母親として敬おうとしているのなら、寧々も、同じように敬う。彼の苦しみを一緒に背負ってあげたい。
この人の苦難を一緒に受け止めたい。あたしはあなたと出会って生き返った。あなたがいるからこそ、この世界は美しい。あたしにはあなたしかいない。寧々は、そう思わずにはいられなかった。
しばらくすると、鈴木蓮が指に包帯を巻いて戻ってきた。
「五針、縫ったよ」
「大変だったね」
「たいしたことないさ。寧々が無事で良かった。それじゃ、母さん、また来るよ」
「約束よ。近いうちに来てね」
そう呟く詠子の瞳は母親そのものである。
寧々の肩を抱きながら、鈴木蓮は歩き出している。あんな事があった割には淡々としているかのように見えたのだが、どうも様子がおかしい。エレベーターに乗ったかと思うと震える声で囁いた。
「あのさ、先刻、じぃさんが目を覚ましたって連絡があったんだ……。やっと、意識を取り戻したそうなんだ」
「会長が目覚めてくれて良かった……」
寧々は喉が震えるほどの熱い声で呟いた。
「……早く会いたいです」
寧々にとっての恩人だ。話したい事がたくさんある。
「うん。そうだね」
しかし、まだ面会はできない。会長の体調が整い、家族と会話をしてもいいと言われてから会いに行くつもりだと鈴木蓮は考えているらしい。
「寧々と結婚するって言ったら、どんな顔をするかな。オレは寧々と幸せになる。いや、もう、幸せだ。じいさんも、あんたがお嫁さんになると聞いたら喜ぶよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
寧々にとって、鈴木蓮は心に明かりを灯してくれる存在だ。
「じいさんの自慢の秘書だったが、今は、オレの自慢の彼女だ。さぁ、二人でじいさんのところに結婚の報告をしに行くぞ」
寧々は頬を赤らめながら、そっと目尻をぬぐっていく。
「はい」
会長が、どんな顔をするのかは分からない。けれども、二人はもう決めていたのだ。どんな事があっても、この愛を貫いていく。
寧々にはこの人しかいない。そう思えるほどに好きになっていたのである。
会長は、確かに意識を取り戻していたが、ずっと寝ていた事もあり体調は良くないとの事だった。実際に会うまで一週間かかった。
その間に、会長は離乳食を食べられるところまで回復している。この日、寧々は胸に熱いものを感じながら病室を訪れていた。
「会長、お久しぶりです」
長い眠りから目覚めた会長は、まだ意識がぼんやりしている。
会長は、枯れ木のように痩せ細っている。これまで点滴だけで命を繋いでいたのだから仕方ない。そんな会長に鈴木蓮が色々と語っていく、
鈴木蓮が寧々と一緒に暮らし始めた事を知って驚いていた。面会時間は十五分。まずは、秘書になった経緯を鈴木蓮が語ると、ひどくやつれた顔をクシャミシャにしながら頷いたのだ。
「羽生君を犯罪者だと誤解するなんて、どうかしておるのう」
そして、会長は愛しそうに目を細めて寧々を仰ぎ見た。
「わしが死んだら、この子は一人ぼっちになると思ってな……。ずっと心配だったんだ。これから、ずっと仲良くしてやってくれ。わしは、いずれ、すべての記憶を失う……。蓮のことさえも忘れてしまう」
やがて、会長は自分の孫の事も自分自身も認知できなくなる。そんな日が来る事を何よりも怖れている。
鈴木蓮は、会長の手をしっかりと握り締めると耳元で囁いた。
「じぃさんがオレを忘れても、オレがじぃさんを覚えているよ……」
その時、鈴木蓮のスマホが鳴ったのだ。
「あっ、吉良からだ。ちょっと外で話してくるよ」
そう言うと、鈴木連は病室の外に向かった。寧々は、会長の枕元に腰掛けると、少し恥しそうに微笑んだ。
「会長に聞いてもらいたい事があります。あたし、蓮さんのことが好きなんです。男性として好きなんです」
「そのようだね……。あの子も君に惚れている。そうでなきゃ、ここには連れて来ないよ」
どこか眩しいものを見るような表情で頷いている。
寧々にもっと近寄るように手招きした。何しろ、先週、意識を取り戻したばかりという事もあり、喉の筋肉も衰えている。
寧々が顔を寄せると、会長は思いがけない事を語り出したのである。
「わしは、ずっと蓮に謝りたい事があるんだ。アンナさんと息子が結婚したいと言った時、わしと愛子ちゃんは反対した。実は、愛子ちゃんは、アンナさんと息子の結婚に賛成していたんだよ。わしも賛成していた」
「えっ?」
それは初耳である。
「しかし、わしも愛子ちゃんはロマンチストだから、わざと、反対してみせた。駆け落ちでも何でもして結婚するだろうと思っていた。しかし、息子は詠子さんと一緒になると言い出したんだ。アンナさんと愛し合っているはずなのに……。我々は、息子の選択に唖然となったよ」
遠い昔の胸の痛みに耐えかねたような顔で言う。
「息子は、親孝行をしようとして見合い相手と結婚したようだ」
嗚呼、許してくれと、その顔は許しを請うように歪んでいる。
「アンナさんは身ごもっている事を隠して雲隠れしてしまった。わしと愛子ちゃんのせいで蓮とアンナさんの人生を歪めてしまった。詠子さんにも申し訳ない事をしたと思っている」
よほど辛いのか、会長はしばらく嗚咽を繰り返していた。会長の老いた目尻に涙が流れ落ちるのを見ると寧々も泣きたくなる。
寧々が、会長の頬をそっとハンカチで拭うと、会長は苦しそうな顔つきになり、まるで自分を恥じているように目を伏せた。
「わしも妻も息子も、アンナさんが出産したとは、長い間、知らなかったんだよ。知っていたなら、ちゃんと会いに行ったし、養育費も出したのに……」
ある時、アンナさんの事が気になって興信所に依頼したところ、彼女が男の子を育てている事を知ったのだ。
会長は、アンナさんに直接会って謝りたかったが、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。弁護士を連れて会いに出かけた。そして、会長は土下座をして謝罪したというのだ。
しかし、アンナさんは、そんな会長を責めたりしなかった。それどころか、頭を下げてお願いしてきた。
『この子をお願いします』
もちろん、会長は全力でサポートすると誓った。
実の息子として認知して暮らすことは会長が主導で行なわれた。息子は、それに意義など唱えなかった。もちろん、嫁である詠子も、義理の父親の言葉に頷いた。
そこからは、会長は、ありったけの愛を孫の蓮に注ごうと誓った。会長が孫を愛していたことは寧々も知っている。いつも、彼は孫の自慢をしていたのだ。
「君から話してもらえないだろうか……。わしは自分が恥ずかしい。とんでもない事をしてしまった。みんなが不幸になってしまったのだよ」
いいえ、会長のせいじゃありません。そういうべきなのかもしれないけれど、寧々は胸が詰まって何も言えなくなる。
息子の愛を試すつもりで言った。こんな悲劇が生まれるとは夢にも思っていなかった。許して欲しい。これが、会長が抱き続けて来た罪の意識。それを、寧々に託したのだ。
「分かりました。あたしから話します……」
あまりにも切なくて寧々は目に涙を浮かべていた。すると、会長が寧々の手を握り締めた。
「わしには、もう一つ、後悔している事がある。わしは、あんたを不幸にしたんじゃないかと思っている」
「そんなことありませんよ!」
友則と上手くいかなかったのは、絶対に会長のせいなんかじゃない。それだけは自信を持って言い切れる。
「あたし、会長がいたから、色々な世界を見る事が出来たんです。それに、会長がいたから、蓮さんとも出会えました。会長には感謝しても仕切れません……」
「そんなふうに言ってもらえると嬉しいよ。わしの孫は男前だろう?」
「はい。とても素敵な人です」
「それを聞いて、わしも満足だ」
今後、もう少し体力がついたらリハビリをするようである。
鈴木蓮が吉良君との会話を終えた頃、看護師さんが部屋に入ってきた。
これ以上、長居は禁物ですと看護師さんが言うので帰ることにした。
寧々が会釈していると、電話を終えた鈴木蓮が戻って来て言った。
「じぃさん、また、すぐ来るよ」
「ああ、待ってるよ。その時は羽生君も一緒に来なさい」
「はい。もちろんです」
まだ会長には、詠子が癌で入院している事は話していない。そんなに一気に色々な事を告げて混乱させたくない。
どこか哀しみを含んだような笑みを見せてから、鈴木蓮は会長の病室から出たのである。病院の無機質な廊下を進みながら彼がポツリと漏らした。
「じぃさんも、いつか、オレを忘れてしまうのかな……」
「そんな顔をしないで……。あなたが、会長の事を覚えていたらいいんです。そしたら、ずっと、会長はあなたの中で生き続けますよ」
鈴木蓮は、呼吸をするのも苦しいような顔をして歩いている。そして、ようやく、車に乗り込んだ時、ハンドルに顔を突っ伏したのだ。
「どうしました? どこか痛むのですか!」
私立の総合病院の駐車場である。救急外来も開いている。
寧々が、慌てて誰かを呼びに行こうとすると、鈴木蓮が寧々の腕を掴んでポツリと漏らした。
「先刻、あんたとじいさんの会話を聞いたんだ……」
「えっ」
「子供の頃から、ずっと聞きたかった。なんで、オレのママとの結婚にじいさん達は反対したのか知りたかった。でも、怖くて聞けなかったんだ……」
薄蓮の頬にスルリと涙が伝い落ちている。彼は、ハンドルに顔を伏せたまま喉を震わせている。
「じいさん達は、ママを嫌っていた訳じゃなかった。それを聞いて、やっと救われた気がする」
あまりに悲痛な呟きに、寧々の胸は張り裂けそうになる。
この人は、多分、ずっと、こうやって胸の痛みを秘めて生きてきたのだ。
「ママは……。自分の事を恥じていた。自分なんて、ちゃんとした家に迎えられないと思っていたけど、そうじゃなかったんだ」
でも、彼らの何気ない呟きのせいで、アンナさんは好きな相手と結婚できなかった。
会長夫妻にしてみたら、親の反対ごときで別れるなんて予想していなかったのだ。
実際、鈴木蓮の父の事は、あまりよく知らないが、古くからいる人達は口を揃えて言っている。
優柔不断。責任をとるのを避けるタイプ……。
妻が狂気に陥った事と分かると自殺という形で逃げてしまっている。
もしも、あの時、鈴木蓮の父親が夫として詠子さんの孤独や屈辱と向き合っていたら、少しは改善したかもしれない。
「アンナさんとの思い出を聞かせてもらえますか? どんな人でした?」
「ママは焼き菓子を作るのが得意だったよ。家でじっとしているのが好きなタイプだった。ママと暮らしていたアパートは動物を飼う事を禁止していたけど、ママはオカメインコを飼っていた。ママは夜の仕事をしていた。オレは真夜中、一人で眠っていたんだ……。でも、寂しいとか不自由だと思った事はなかったんだ……」
親子二人で暮らした思い出は彼の心を照らし続けてきたようだ。
「そうだ。今度、あんたにママのお墓を見せるよ。カトリックの教会の墓地で眠っているんだよ。毎年、オレは一人で墓参りをしている。ママにも、あんたの顔を見せてやりたい。きっと、ママも祝福してくれる」
「アンナさんの好きな花って何ですか?」
「ママが好きな花は白い花だよ。小さくて白い花なら何でもいいって言ってたな。ママは、背が高くて目立つ顔立ちをしている事にコンプレックスを持っていて、見た目は派手なのに内気な人だったんだ……。いつも自信なさそうにしていたよ。親父、一回、マジでママと駆け落ちしようとした事があったけど、ママがすっぽかしたんだ……。ママは自分から身を引いたんだよ。でも、母さんはそういう事を知らないんだろうな」
彼の表情には痛々しさと温もりが含まれている。この人を守ってあげたい。この人を幸せにしたい。彼の哀しみを消してしまいたい。自分は、この人の為に何が出来るのだろう。
寧々は、複雑に揺らぐ彼の横顔を見つめながら岐路に着いたのだった。
☆
その夜、二人がどんなふうに結ばれたのか。寧々の心にはしっかりと刻まれることになる。
「あたしが洗ってあげますね」
「えっ、自分で出来るよ」
「あたしが、あたなの髪に触れたいんです。だって、天使みたいにクルクルして可愛いんだもの」
普段、鈴木蓮や会長が使っているヒノキ風呂に二人で入っていく。寧々がスポンジを持って微笑むと、彼は照れ臭そうに言った。
「あんた、オレのママかよ?」
「いいえ。秘書です。そして、あなたの恋人です」
その身体や髪の毛を洗ってあげたのだ。そして、二人は……。一緒に向かい合って浴槽に浸かったまま微笑み合う。
「風呂場のオレの髪ってカオスだよな?」
「そんなことないよ。あたし、天使みたいなクルクルが好きだよ。だって、ものすごく可愛いもん」
「可愛いって言うなよ」
鈴木蓮が、寧々に体重をかけないようにして覆いかぶさると、悪戯めいた微笑みを浮かべて囁いた
「可愛いのは寧々ちゃんの方だよ」
「ああ、それ、恥ずかしいな。寧々ちゃんって言われると照れる。でも、かなり嬉しいの」
「じゃ、もっと言ってやる」
そんなふうに囁きながら寧々に何度もキスをしている。この時、寧々は、遊覧船でどこかに旅立つような幸せを感じながら目を閉じて口付けを受け続けていた。
「愛してる」
「あたしもです……」
彼の背中に両手を広げて抱きついていく。身体で示したい。この人と出会えたおかげで再生したのだ。
人生から逃げたいと思っていた。今はこうやって果てしない幸せを感じている。人生は捨てたもんじゃない。諦めなくて良かった。
その後、二人は広い浴槽の中で抱き合った。パシャパシャッと水が跳ねている。寧々の悦びも増した。寧々と彼は色んな角度で抱き合うと、ハァハァと荒く呼吸を繰り返していく。
(ずっと、この人とこうして抱き合っていたい……)
寧々と彼は何度も愛し合い、お互いの存在を慈しむように微笑み合う。寧々は、彼の髪を脱衣所で乾かしてあげた。すると、彼は照れ臭そうに言った。
「あんた、オレのママかよ?」
寧々はフフッと微笑む。こうして、彼の世話をしている時、とても心が満たされる。
「さぁ、ジェリー、今夜は二階で寝るよ」
そして、寧々はジェリーを連れて二階へと向かった。
「これからは、もっと大きなベッドが必要になるな」
鈴木蓮のベッドは狭いシングルベッドである。その上で寄り添ったまま朝を迎えるのだと想うと、寧々は不思議な気持ちになる。あの時の寧々は、このベッドに一人で横たわっていたというのに今は違う。
(あなたが隣にいてくれる。それだけで強くなれる気がするの……)
すべてが上手く行くとは限らない。いや、化粧品会社の建て直しには苦戦するだろう。
もしかしたら、詠子さんは癌を克服して元気になるかもしれない。そして、その事で、寧々達は思い悩むようになるかもしれない。
(それもぜんぶ受け止めよう)
でも、絶対に、この人を独りにはさせない。何が起ころうとも共に乗り越えてみる。こんなにも、真剣に、この人を好きになった自分の事を誇りに思っている。
(あなたは、わたしの光って誰かが歌ってたよね……。あなたといると、この世は美しいと感じられるの……。あなたの側にいると幸せだと感じられる……)
まだ眠っている鈴木蓮の頬に軽くキスをしてから両手を突き出して起き上がろうとする。
時刻は午前十時。早く、ジェリーにおはようを言わなくちゃ。
遮光カーテンを開くと生命に満ちた濃い緑の木々が見える。何もかもがあまりにも綺麗で空の向こうまで心が羽根のように舞い上がっていくような気がする。
「んっ……」
鈴木蓮が眩しそうに目を細めたまま半身を起こしている。全裸の寧々は床に落ちているパジャマを拾い上げようとして、ベッドのマットレスの縁に片手をついたまま少し前屈みになる。
「寧々?」
鈴木蓮が目をこすりながら、レースのカーテンの前に立つ寧々の名前を呼んだ。すると、寧々は全裸で振り向いてから、嬉しそうに呟いた。
「おはよう」
男物のパジャマを羽織っただけの寧々のしどけない後姿は、あの日の朝と同じように白く艶やかに輝いている。目覚めたばかりの鈴木蓮は眩しそうに目を細めている。
綺麗なものに吸い込まれているかのように寧々だけを見つめている。こういう時の鈴木蓮はとても無防備で可愛らしい。
寧々は、彼を抱き締めたい衝動に駆られていた。彼は、詠子さんに理不尽な目に遭わされても、それを怨んだりしない。それどころか、彼女を許して癒そうとする。
朝の光が燦々と降り注いでいる。優しい気持ちと共に彼への愛しさが胸に溢れて煌めく。寧々は、彼のクルクルした前髪をかきあげる。
そして、優しく彼の唇にキスを落とすと、フアッとした笑みを浮かべて囁いた。
「今日もいい天気だね。ホットケーキを作るね」
おわり
よくよく聞いてみると、末期の直腸癌だという事が判明したのだ。
「母さんは、自分が癌だという事を知っていたらしいよ。でも、誰にも内緒で通院していたみたいなんだよ」
リンパ節などにも転移しており余命半年と宣告されているというのだ。
これまでの鈴木蓮は、できるだけ、詠子さんとは顔を会わせない様にしていた。しかし、これからはそうはいかなくなってきた。
何しろ、彼女にとって唯一の『家族』だ。例え、血が繋がっていなくても鈴木蓮が彼女をサポートするしかない。
鈴木蓮が教えてくれた。
「治る見込みはないらしい。あの人は一人で死の恐怖や痛みに耐えるしかない。最近、やたらと会いたがっていたのは、死期が迫っていたからなのかもしれない。そう思うとやるせないよ……。オレは。ずっと無視してきたからな」
寧々に打ち明ける鈴木蓮の胸中は複雑に揺れ動いている。申し訳無さそうに寧々に告げている。
「長い間、尽くしてくれた家政婦さんは高齢を理由に辞めたいと言った。腰痛を我慢してきたらしいよ。母さんの世話をする人を急遽募集したんだが、すぐには見付かりそうにない」
次の家政婦さんが見つかるまでは、鈴木蓮が洗濯物などを届けなければならない。それを聞いた寧々が言った。
「副社長は忙しいから無理ですね。それなら、あたしが、お母様の下着や着替えの管理をしますよ」
「いいのか? 母さんは、あんたに対して、あんな酷いことをしたんだぞ」
「それは、もう一人の別人格がやった所業です。それに、今は、もう、そんな事をする体力もないと思います……」
余命半年……。
彼女の両親は彼女が若い頃に他界している。妹さんが海外にいるが仲が良くないので、わざわざ会いに来ないらしい。
詠子には心を開いて付き合うような親しい友達もいない。夫に先立たれて、ポツンと広い家の中で暮らす孤独な日々を重ねていた。何と孤独な人なのか。胸にツンとしたものが刺さる。
(最後の瞬間は、静かに迎えさせてあげたいな)
詠子が入院した一週間後、寧々は、勇気を振り絞って彼女の病室を訪問したのだ。
「お久しぶりです。今日は副社長の代理で参りました……。御気分はいかがですか?」
緊張感を押し隠しながら、愛想よく話しかけたところ、対する詠子は菩薩のように穏やかに答えた。
「あら、またお会いしたわね。まぁ、なんて可愛らしいチューリップなの。本当にすみませんね」
寧々が持ってきた紙袋の中には、先刻、買ったばかりの一週間分の詠子の下着が入っている。古いものは寧々が病院のランドリーで洗濯している真っ最中である。
(あたしの顔を見るのって、この人の負担になるんじゃないのかな)
無意識のところで、詠子は秘書の寧々を憎んでいる。
出来る事なら、さっさと立ち去りたい。しかし、詠子は穏やかな口調であれこれと聞いてきた。
「羽生さん、もしかして、あなた、まだ独身なの?」
「あっ、はい……」
「あらあら、どうして、まだ独身なの?」
「えっ……。あの、残念ながら相手かいなくて……」
「ごめんなさいね、立ち入った事を聞いちゃって……。許してね。悪気はないのよ。あたしも、奥手でね、親に勧められてお見合い結婚したのよ。あなたもお見合いをしてみたらどうかしら。いい人、紹介するわよ」
「あっ……」
それは結構ですと言おうとしたのだが、その前に詠子が机の上にあるものを示した。策色の古風な風呂敷に包まれている。
「あのね、うちの息子に渡して下さる?」
「あっ、はい。分かりました」
寧々は薄く平たいものを手にした。何だろうと思っていると、詠子が嫣然と微笑みながら言った。
「これは蓮ちゃんのお見合い相手のお写真なのよ。あたし、どうやら、あまり長く生きられそうにないのよ。蓮ちゃんの事が心残りなの。死んでも死に切れないわ。母親として、あの子の幸せを見守りたいのよ」
息子について案じる表情の裏に狂気が潜んでいるなんて誰が想うだろう。
「あの子は、どこに出しても恥ずかしくない立派な息子なのよ。大学の成績もすごく良かったのよ。高校の英語の弁論大会では優勝したわ。あの子は、おじぃさまの会社を継いで、もっと大きくするんだって、子供の頃の作文に書いていたのよ。その為には、ちゃんとした家のお嫁さんが必要になるわ。ねぇ、そうでしょう」
寧々に同意を求めるかのように言う。
「優秀なあの子に相応しい伴侶を見つけてあげたいの。母親として、あたしに出来る最後の仕事なの。お父様の築いた会社をより大きなものにする為には、蓮ちゃんには、パートナーが必要なのよ。秘書のあなたもそう思うでしょう?」
「……そ、そうですね」
今の彼女に悪気は無い。菩薩のように微笑みながら寧々を見つめている。寧々は呆然としたまま、愛想笑いを返していたのだが、内心、真っ青になりながら胸を震わせていたのだった。
☆
お見合い写真を鈴木蓮に手渡すのは辛い。出来れば渡したくない。でも、母親として息子を思う詠子の気持ちもよく分かる。
余命半年。詠子は何を心の支えにして暮らしているのだろう。
夫に裏切られ、愛人の子供の母親となり色々と葛藤した末に、病魔に蝕まれて亡くなろうとしている
寧々は、その夜、鈴木蓮に報告した。
「えっ、お見合い?」
彼は、無造作に写真と書類を眺めてから面倒臭そうに呻いた。
「この女性なら知ってる。いくつもの不動産を扱う桃山グループの令嬢だ。母さんの同級生の女性の娘だ。子供の頃、うちに何回か来たこともある。確か、ピアノが得意な女の子だったな」
「そ、そうですか」
どんな顔なのか知りたいが、怖くて顔を見る事が出来ない。
すると、鈴木蓮が目の前に写真を突き出した。
「オレより二歳年下の二十五歳だ。今、父親の会社で働いているみたいだね」
涼やかな一重瞼の落ち着いた雰囲気の女性だった。佇まいが詠子に似ている。もしも、詠子に娘がいたなら、きっと、こういう雰囲気になっていただろう。
良家の若いお嬢様と結婚させたいという親の気持ちはよく分かる。狂気に陥っていない時の詠子の行動におかしな点はないのだ。
「……この人を断ると、また別の見合い話を持ち込むに決まっている。そうなると、やっかいだ」
冗談めかして鈴木蓮が言った。
「オレ、ゲイのフリをしようかな。吉良のこと好きって言うとリアリティあるし。だけど、母さん、オレがゲイじゃないって知ってるからな」
ウーム、困ったぞと考え込んでいる。
「母さんが亡くなるまでは、契約彼女を作って、やり過ごすしかないだろうな」
そう言ってから、鈴木蓮は頭を抱えて難しい顔をしている。
「いや、でも、少女漫画みたいに偽装恋愛の相手を見つけるのも至難の業だよな。それなりの家柄でないと母さんは納得しないだろうし。参ったな」
寧々の事を恋人として紹介するという選択肢はない。なぜなら、詠子は狂っているからだ。
息子が秘書を愛していると知ったなら病床に伏せている彼女を刺激する事になる。
(あたしの事を伏せるのは、彼女の精神の安寧と、あたしの暮らしを守る為でもあるんだよね)
それは分かっているけれど、やっぱり寂しかった。まるで日陰の身になったようで切ないのだ。
明日は日曜日。洗った洗濯物を届けようと思っていたのだが……。
その夜、なかなか眠れなかった。何度も寝返りを打つ。そして、これまで起きた様々なことを振り返っていく。
(あたしは副社長が好き……。この人も好きだと言ってくれている……)
それでも、二人の年齢差を考えると寧々は不安な気持ちになる。
ちなみに、小鳥ちゃんが会社に来たので送り届けたことや、椿に呼び出された事を電話で話すと友則が謝ってきた。
『すまん。色々と迷惑をかけたらしいな。義理の母親に椿の不貞の事を話すよ。まずはそこから始めるよ。親権争いがどうなるかは分からないけど、オレ、とことん闘うぜ。小鳥の為なら、どんなに不利な闘いでもやり遂げてみせる』
この人はタフだ。自分にとって大切なものが何なのかを分かっている。だからこそ、どんな困難にも心が折れない。
「ところで、あれから、棚部さんとはどうなの?」
『あの子は天使だな。小鳥を取り戻す為に色々と愚痴ってたら、ずーっと聞いてくれるんだよ。まぁ、そんな訳で、今のオレは元妻相手に闘っている。それで、おまえはどうなんだ? 副社長と仲良くしてんのか?』
『あっ、うん……。想像に任せるね』
告白はされたけれど、まだ、そういう関係には至っていない。同じ屋根の下にいるけれどもプラトニック。もう三十四歳なのにキスから先に進めないなんて、こんなのどうかしている。
寧々は、少し唇を尖らせる。
『あたしって、そんなに魅力がないのかな……。副社長にまだ手は出されていないよ』
ベッドに横たわったまま正直に言うと、友則は乾いた声で笑った。
『あいつ、意外に古風なんだろうな。多分、父親みたいになりたくないって思ってんじゃねーの』
『副社長のお父さんって、どんな人だった?』
『さぁなー。オレも詳しくは分からないけど、人当たりはいいみたいだぜ。よく言えば優しい人。悪く言えば優柔不断の優男。自分で何かを決定するのがとにかく苦手な人だったと聞いてる。おまえの好きな副社長とは逆のタイプのようだな』
確かに、鈴木蓮は惨酷な優しさを示すようなことはしない。
『気に食わない奴だけど、副社長は仕事は出来ると思うぜ。女に対しても一本気な奴だわ』
『そうだよね』
『あっ、寧々、オレ、寝るわ』
もっと話したい気分だったのだが、友則も暇ではない。実にアッサリしたものだ。最近の友則は寧々よりも小鳥ちゃんの事で頭が一杯だ。
『あっ、忘れてた。棚部さんの好きな食べ物って何かな? おまえ、知ってる?』
『なんで、そんなこと聞くの』
『棚部さんに仲介してもらって新たな顧客をゲット出来たんだ。だから、手土産を奉げたい』
棚部杏と友則の距離がグングン近くなっている。
棚部さんは友則の好みの可愛らしい女性だ。
(まさか、友則、棚部さんと恋愛関係とかに傾いていたりしないよね?)
友則にしつこく迫られた時は迷惑だったけれど、彼は、これから、もっと幸せになる権利がある。とはいうものの、棚部さんが相手だと若過ぎる。
(だけど、小鳥ちゃんの親権問題は有利になるかもしれない。こればっかりは、どうなるか分からないけどね)
いやいや。他人のことよりも、自分の人生についてしっかりと見つめよう。寝る前に、寧々は鏡台の前に座って、まじまじと自分の姿を観察していく。
三十四歳。子育てをしたいのなら、結婚は早い方がいいだろう。
年々、どんどん、色んな可能性が狭まっていくようで怖い。
出来る事なら我が子が欲しい。いや、もちろん、子供がいなくても幸せなカップルはたくさんいる。
けれど、もしも、鈴木蓮が隠し子を作ってしまったら、きっと心はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。
だって、友則が椿さんとの間に子供を作ったと聞いただけで、寧々の心はボロボロになったんだもの。
詠子が、なぜ、あんなふうに狂ってしまったのか……。
不妊治療をしても報われなかったからなのだ。
就職活動で落ち続ける惨めさの何倍も何倍も辛い。まるで、自分という人間が否定されたような惨めさに打ちひしがれたに違いない。
そんな状態で、愛人の子供の存在を知らされたとしたら……。自分なら耐えられない。
その上、憎い愛人の子を夫が彼女の住まいに連れてきたんだもの。夫の為にも良き母にならねばならない。もちろん、生まれてきた子に罪はないが、それでも、愛するのは難しい。しかも、身勝手な夫は妻を残して自殺してしまっている。
懸命に育てた鈴木連も、高校生になると祖父の元へと逃げ込んでしまった。
彼女の友人達は実子を育てている。
どんなに鈴木蓮について自慢をしたところで、『あなたを傷つけた女の子でしょう?』という哀れみのようなものを感じた事もあったに違いない。
彼女は実子を欲していたに違いない。人並みの幸せが欲しかったに違いない。
鈴木蓮は彼女の痛みを理解している。
そして、現在の彼は、余命いくばくのない詠子に尽くそうとしている。そんな鈴木蓮に寄り添って支えてあげたい。彼をもっと理解したい。もしも、許されるのなら、この先も鈴木蓮の側にいたいのである。
いつの日か彼の妻になりたいという気持ちが膨らんでいた。しかし、今はそんな気持ちを押さえ込むべきだ。
その日、お昼休憩の後、寧々は、詠子の病室に向かう準備をした。
「別に、毎日、母さんの顔を見に行かなくてもいいんだよ」
鈴木蓮の言葉に寧々はニッコリと微笑む。
「ほんの十分ほど顔を見せるだけで、詠子さんは安心するみたいなんです。売店にお茶を買いに行くのも辛いみたいですから……。あたしが代わりに買いに行っているんです」
「ほんと、悪いね……」
「あの、お見合いの話はどうなりましたか?」
「ああ、それは、こっちから先方に断りの電話を入れた。付き合っている人がいますと言ったら、先方は納得してくれた。問題は母さんだ。付き合っている人って誰って、しつこく聞いてくるんだ。会社関係の人だと言って適当に誤魔化している」
「……そうなんですか」
「ごめん。本当は寧々を紹介したいんだ。でも、そんな事をすると、母さんの中にいる悪魔が不意に目覚めてしまいそうで怖いんだ」
「そうですね」
多重人格。今のところ、あれ以降、そういう兆候はもない。詠子さんは体調が悪くてそれどころではないのだろう。
「それでも、母さんが元気になって退院したなら、包み隠さずに、ちゃんと寧々の事を話したいと思っている」
「嬉しいです。でも、やっぱり、今は知らせない方がいいと思いますよ」
三十四歳の年上の女なんて息子に相応しくないと詠子さんは考えるに決まっている。
何より、秘書というワードは禁句だ。寧々は、彼女にとって忌避すべき存在だ。彼女と顔を何度も合わせるうちに彼女が暴発しそうで怖い。
そして、それは残念な事に的中する。
☆
詠子さんが入院してから二週間が経過しようとしていた。
ここは個室だ。彼女はテレビをほとんど見ない。たまに刺繍をしているらしい
隣室には、頻繁に見舞いの人が訪れるだけに、詠子の孤独がより濃く際立っている。
この日、鈴木蓮は私服姿だった。今日は日曜日。同じく私服姿の寧々を連れて病室へと入ったのである。すると、怪訝そうな顔で詠子が言った。
「あら、秘書さんは休日でしょう」
「彼女には日曜も働いてもらっているんだよ。そんな事より、母さん、調子はどう? 何か困った事はない?」
「申し訳ないわね。見てのとおりよ。最近、目が霞むのよ」
この日、鈴木蓮は自ら選んだ花束を手にしていた。寧々は、少し後ろに下がった状態で見守る。
詠子から背を向けて梨を剥いていた寧々が梨の入った皿を鈴木蓮に差し出すと、それを黙って彼が受け取る。ただそれだけの何気ない行為なのに、詠子は、なぜか、眉をピリつかせた。静かに警戒の表情を見せ始めている。この部屋の磁場のようなものが乱れているのを寧々は敏感に感じ取ったのだ。
おかしい、妙だ。
何だか、彼女の目付きが澱み始めている。嫌な予感が心を揺らす。もしかしたら、アンナと夫との不倫関係を思い出しているのかもしれない。そんな詠子の心の奥底を刺激するような事を鈴木蓮が口にした。
「母さん。聞いてくれ。大切な話がある。寧々は秘書だけど、でも、それだけじゃない」
「寧々?」
詠子のこめかみが青白く引き攣っている。ピリリとした空気の変化を察知した上で鈴木蓮は低い声で凛とした態度で告げようとしている。駄目よ。はやまらないで!
寧々の必死の顔を知った上で彼は語り出している。
「オレは、ここにいる寧々を誰よりも愛しているんだ。だから、お見合いはしないよ。オレ、寧々と少し前から暮らしているんだ。この人のことが好きなんだ」
寧々は、ハッとして鈴木蓮の横を見つめる。今、なぜ、急に言い出したのだろう。
ハラハラしていると、詠子が切れ気味に叫んだ。
「あら、嫌だ。あなた、秘書を好きだと言ったの! ねぇ、よく御覧なさい。この人はうんと年上なのよ」
難するように寧々を一瞥している。その胡乱な顔つきに呑まれそうになりながら、寧々は身を縮めていく。どうもすみませんと言いたくなってきた。
「蓮ちゃん、正気なの? やめなさい。だって、この女の人は秘書なのよ」
「そうだね。秘書だね。年上だね。オレにとっては最高のパートナーなんだよ」
詠子の瞳は寧々を責めている。秘書がまるで汚らしいものであるかのような顔つきをしている。
そんな詠子の目を見据えたまま、鈴木蓮が真摯な声で告げている。
「彼女がいるおかげで癒されている。だから、この人と結婚することにした。母さんにも、どうか分かってもらいたい」
彼の言葉の裏には並々ならぬ決意のようなものが滲んでいる。
彼女は、一瞬、洞の様な目付きになった。寧々はハラハラしたまま動向を窺う。
詠子は俯いている。そのまま黙り込んでいる。そして、ベッドの上でギュッと布団を握り締めたまま、低い声で、ふふふっと微笑んだ。不自然なほどに明るい表情だった。そのことに寧々は違和感を抱いた。胸がザワザワとしてきた。
「あーら、そうなの。とっても綺麗な人だものね。蓮ちゃん、あなたが選んだ相手なら、母さんは、どんな人でも賛成よ。おめでとう」
「ありがとう。母さん」
鈴木蓮が微笑み返そうとした時、鈴木蓮のスマホが鳴った。
ちよっと失礼と言ってスマホを手にして背を向けて病室の外へと出ている。どうしたのだろう。彼の背中から緊張が伝わってくる。
廊下に出た彼を見送った後、とりあえず、寧々は、鈴木蓮が持ってきた花を花瓶に生けようとする。
そして、綺麗に花を差し込んでから窓際のサイドテーブルに花瓶を飾ろうとした時だった。
「汚い手で触らないで!」
ベッドから降りると、そのままドンッと乱雑に寧々の腕を振り払ったのである。
えっと目を強張らせながら寧々はたじろぐ。
詠子の荒んだ顔が目の前に迫りドキリと鼓動が揺らいだ。
詠子は両手で寧々の胸に手を添え、壁際に突き飛ばす。その刹那、ゾクッと寧々の身の毛がよだつような恐怖が目の前に迫ってきた。一瞬のうちに詠子の目つきが豹変した。
不穏な表情を滾らせながら凶悪犯のような声で叫んでいる。
「チクショウーーー。この泥棒猫! あたしの蓮ちゃんを返せーーーーー」
彼女の中で精神の境界線を保っていた封印がブチッと切れたらしい。
「きゃっーーーーーーーーー」
寧々は悲鳴をあげて後ずさる。いきなり、首を絞められて凍り付いた。まるでゾンビのように、詠子の細い腕が喉に絡みついてる。
苦しくなり立ちくらみがしてきた。そのまま、ズルリと座り込む。詠子は寧々に馬乗りになっている。いつの間にか、寧々は持っていた花瓶を床に落としていた。その破片に気付いた詠子が、割れた硝子の破片を握り締めて寧々の顔を切りつけようとする。
ヒュンと破片を振りかざしてきた。その弾みで、詠子の指の血が寧々の頬に跳ねる。
「母さん、やめろーーーー」
ダンツ。病室の引き戸が開いた。戻ってきた鈴木蓮が背後から詠子の手を押さえつけて制止する。しかし、詠子は獣のように興奮している。
正気を失った詠子には鈴木蓮の制止の声など伝わらない。彼は、詠子の背後から囁いている。
「母さん、オレだよ……」
凶器を取り除こうと奮闘する鈴木蓮の手からは血が滴っている。硝子の破片が鈴木蓮の指先を切り裂いている。しかし、鈴木蓮は、それでも怯む事なく破片を握りしめている。片方の手で詠子の肩をさすりながら言う。
「母さん。オレは母さんに感謝してる。好きだよ」
ギュッ。荒ぶる詠子の魂を押さえつけるようにして囁いている。
「母さんは、僕にとって大切な人なんだ。だから、理解して欲しい」
鈴木蓮の声音は小刻みに震えている。祈るような囁きが続いている。
「母さん、母さん、お願いだからオレの声を聞いてくれよ」
「……」
詠子は弛緩したように動きを止めて振り返る。鈴木蓮は義理の母である詠子を正面から見つめてから、こう告げた。
「寧々のことを母さんに伝えたのは、母さんに祝福してもらいたいからだよ。よく見てくれよ。寧々はアンナとは違うよ。オレのママは母さんを苦しめた。悪い女だったね」
鈴木蓮は頬を濡らしている。もう。詠子は呻くのを止めていた。
「オレのママのせいで、母さんは哀しい思いをしたね。ごめんね……」
寧々は、この場に漂う狂気と恐怖を感じながらも詠子の表情を確認せずにはいられなかった。
意識がどこか別の所に飛んでしまっている詠子。それを引き戻そうするかのように、鈴木蓮が囁いている。その囁きは祈りのようにも聞こえる。
「アンナは死んだよ……。母さんを苦しめた女は死んだ。不倫は良くないよね、だから、天罰が下って死んだんだよ」
鈴木蓮の告白の内容はあまりにも悲しいものだった。
いいえ、アンナさんは悪くない。寧々は叫びたかった。でも、余計な事は言わない。
余命いくばくかの詠子を慰撫する為にも、鈴木蓮は本当の母親を悪者にするしかないのだ。彼は、詠子のボロボロの魂に寄り添おうとしている。
「今まで寂しい思いをさせてごめんね……。息子なのに、母さんを守ってあげられなくてごめん。こんなに痩せているのはオレのせいだ。病気になったことに気付いてあげられなくてごめん」
小学生の頃、詠子に色々と傷付けられたのに、この人は、それを全部赦している。詠子を包みこもうとしている。
彼は、涙を目に溜めながら語っている。鮮血が伝い落ちる様子を見ていると、胸が痛くなる。それは、鈴木蓮の涙のように見える。
(生みの親と育ての親、どちらも、この人には大切なんだ)
鈴木蓮の葛藤や苦しみが寧々にもヒリヒリと伝わってくる。寧々も告げずにはいられない。
「詠子さん! あ、あたし、副社長を愛しています。彼のことを支え続けます。どうか、認めてください」
正気を失っている詠子に何を言っても無駄なのかもしれない。でも、訴えずにはいられない。
「あたしは、この人を愛し続けます。あなたの息子さんを大切にします」
ポロッ。この時、詠子の瞳から涙が零れ落ちていった。寧々の瞳からも涙がトクトクと溢れている。
「……」
ふと、空気が止まった。
彼女は、あどけない幼子のような瞳で寧々の顔をまじまじと見下ろしている。鈴木蓮の右手の指先から血が滴り落ちている。リノリウムの床に赤い血が点在している。ハッと気付いた詠子は、恐ろしげに悲鳴を上げた。
「きゃーーーーーーっ」
すがりつくようにして鈴木蓮に訴えている。
「やだ、蓮ちゃん。大変よ。早く、お医者様を呼ばなくちゃ。あなた、怪我してるわよ」
鈴木蓮の右手は真っ赤になっている。何が起きたか分からない詠子は混乱しきっている。
「あらあら、どうして花瓶が割れたのかしら」
いつのまにか、詠子の中で人格が戻っている。
ホッとした寧々が密かに呼吸を整えていると、ナースセンターから看護師が現れた。
鈴木蓮は、駆けつけてきた若い看護師に対して申し訳無さそうに言う。
「すみません。僕が花瓶を落としてしまって、慌てたせいで、こんなことに……」
「あら、あなた、手を怪我してるのね。そちらの女性も顔色が悪いわよ」
「お忙しいのに、色々とお騒がせして申し訳ありません。母の指も怪我したようです」
「お母様の指の怪我はたいしたことないけど、あなた、すぐに救急外来で処置した方が良いわよ」
そう言うと、鈴木蓮は処置室へと向かったのである。寧々は不安を感じながらも、その場に残っていた。
寧々は砕けたクリスタルの花瓶の破片を片付け始める。その様子を見ていた詠子が気遣うように手伝おうとしたけれど、寧々は断った。
「いいえ。奥様は、そこでお休みください」
すると、彼女は優しいそよ風の様な微笑を浮かべたのだ。
「羽生さん、申し訳ないわね。床も拭いくださいな」
言われた通りに鈴木蓮の血を綺麗にタオルで拭いながらも、寧々は背後を気にしていた。
また、何かの弾みで、この人は豹変するかもしれない。だけど、ちゃんと目を見て伝えたい。分かってもらいたい。破片を片付け終えると、改めてこう告げた。
「あたし、蓮さんを愛しています。息子さんの結婚を認めてくださいますか?」
「あら、やだ。認めるも何も、あなた達は心から愛し合っているんでしょう。見ていたら分かるわよ。お似合いよ。あたしに、早く孫の顔を見せてちょうだい。あたしも頑張って長生きするわ」
「ありがとうございます」
詠子の言葉がどこまで本気なのかは分からない。おそらく、本人にも分からないだろう。でも、それでもいい。鈴木蓮が、この人を母親として敬おうとしているのなら、寧々も、同じように敬う。彼の苦しみを一緒に背負ってあげたい。
この人の苦難を一緒に受け止めたい。あたしはあなたと出会って生き返った。あなたがいるからこそ、この世界は美しい。あたしにはあなたしかいない。寧々は、そう思わずにはいられなかった。
しばらくすると、鈴木蓮が指に包帯を巻いて戻ってきた。
「五針、縫ったよ」
「大変だったね」
「たいしたことないさ。寧々が無事で良かった。それじゃ、母さん、また来るよ」
「約束よ。近いうちに来てね」
そう呟く詠子の瞳は母親そのものである。
寧々の肩を抱きながら、鈴木蓮は歩き出している。あんな事があった割には淡々としているかのように見えたのだが、どうも様子がおかしい。エレベーターに乗ったかと思うと震える声で囁いた。
「あのさ、先刻、じぃさんが目を覚ましたって連絡があったんだ……。やっと、意識を取り戻したそうなんだ」
「会長が目覚めてくれて良かった……」
寧々は喉が震えるほどの熱い声で呟いた。
「……早く会いたいです」
寧々にとっての恩人だ。話したい事がたくさんある。
「うん。そうだね」
しかし、まだ面会はできない。会長の体調が整い、家族と会話をしてもいいと言われてから会いに行くつもりだと鈴木蓮は考えているらしい。
「寧々と結婚するって言ったら、どんな顔をするかな。オレは寧々と幸せになる。いや、もう、幸せだ。じいさんも、あんたがお嫁さんになると聞いたら喜ぶよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
寧々にとって、鈴木蓮は心に明かりを灯してくれる存在だ。
「じいさんの自慢の秘書だったが、今は、オレの自慢の彼女だ。さぁ、二人でじいさんのところに結婚の報告をしに行くぞ」
寧々は頬を赤らめながら、そっと目尻をぬぐっていく。
「はい」
会長が、どんな顔をするのかは分からない。けれども、二人はもう決めていたのだ。どんな事があっても、この愛を貫いていく。
寧々にはこの人しかいない。そう思えるほどに好きになっていたのである。
会長は、確かに意識を取り戻していたが、ずっと寝ていた事もあり体調は良くないとの事だった。実際に会うまで一週間かかった。
その間に、会長は離乳食を食べられるところまで回復している。この日、寧々は胸に熱いものを感じながら病室を訪れていた。
「会長、お久しぶりです」
長い眠りから目覚めた会長は、まだ意識がぼんやりしている。
会長は、枯れ木のように痩せ細っている。これまで点滴だけで命を繋いでいたのだから仕方ない。そんな会長に鈴木蓮が色々と語っていく、
鈴木蓮が寧々と一緒に暮らし始めた事を知って驚いていた。面会時間は十五分。まずは、秘書になった経緯を鈴木蓮が語ると、ひどくやつれた顔をクシャミシャにしながら頷いたのだ。
「羽生君を犯罪者だと誤解するなんて、どうかしておるのう」
そして、会長は愛しそうに目を細めて寧々を仰ぎ見た。
「わしが死んだら、この子は一人ぼっちになると思ってな……。ずっと心配だったんだ。これから、ずっと仲良くしてやってくれ。わしは、いずれ、すべての記憶を失う……。蓮のことさえも忘れてしまう」
やがて、会長は自分の孫の事も自分自身も認知できなくなる。そんな日が来る事を何よりも怖れている。
鈴木蓮は、会長の手をしっかりと握り締めると耳元で囁いた。
「じぃさんがオレを忘れても、オレがじぃさんを覚えているよ……」
その時、鈴木蓮のスマホが鳴ったのだ。
「あっ、吉良からだ。ちょっと外で話してくるよ」
そう言うと、鈴木連は病室の外に向かった。寧々は、会長の枕元に腰掛けると、少し恥しそうに微笑んだ。
「会長に聞いてもらいたい事があります。あたし、蓮さんのことが好きなんです。男性として好きなんです」
「そのようだね……。あの子も君に惚れている。そうでなきゃ、ここには連れて来ないよ」
どこか眩しいものを見るような表情で頷いている。
寧々にもっと近寄るように手招きした。何しろ、先週、意識を取り戻したばかりという事もあり、喉の筋肉も衰えている。
寧々が顔を寄せると、会長は思いがけない事を語り出したのである。
「わしは、ずっと蓮に謝りたい事があるんだ。アンナさんと息子が結婚したいと言った時、わしと愛子ちゃんは反対した。実は、愛子ちゃんは、アンナさんと息子の結婚に賛成していたんだよ。わしも賛成していた」
「えっ?」
それは初耳である。
「しかし、わしも愛子ちゃんはロマンチストだから、わざと、反対してみせた。駆け落ちでも何でもして結婚するだろうと思っていた。しかし、息子は詠子さんと一緒になると言い出したんだ。アンナさんと愛し合っているはずなのに……。我々は、息子の選択に唖然となったよ」
遠い昔の胸の痛みに耐えかねたような顔で言う。
「息子は、親孝行をしようとして見合い相手と結婚したようだ」
嗚呼、許してくれと、その顔は許しを請うように歪んでいる。
「アンナさんは身ごもっている事を隠して雲隠れしてしまった。わしと愛子ちゃんのせいで蓮とアンナさんの人生を歪めてしまった。詠子さんにも申し訳ない事をしたと思っている」
よほど辛いのか、会長はしばらく嗚咽を繰り返していた。会長の老いた目尻に涙が流れ落ちるのを見ると寧々も泣きたくなる。
寧々が、会長の頬をそっとハンカチで拭うと、会長は苦しそうな顔つきになり、まるで自分を恥じているように目を伏せた。
「わしも妻も息子も、アンナさんが出産したとは、長い間、知らなかったんだよ。知っていたなら、ちゃんと会いに行ったし、養育費も出したのに……」
ある時、アンナさんの事が気になって興信所に依頼したところ、彼女が男の子を育てている事を知ったのだ。
会長は、アンナさんに直接会って謝りたかったが、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。弁護士を連れて会いに出かけた。そして、会長は土下座をして謝罪したというのだ。
しかし、アンナさんは、そんな会長を責めたりしなかった。それどころか、頭を下げてお願いしてきた。
『この子をお願いします』
もちろん、会長は全力でサポートすると誓った。
実の息子として認知して暮らすことは会長が主導で行なわれた。息子は、それに意義など唱えなかった。もちろん、嫁である詠子も、義理の父親の言葉に頷いた。
そこからは、会長は、ありったけの愛を孫の蓮に注ごうと誓った。会長が孫を愛していたことは寧々も知っている。いつも、彼は孫の自慢をしていたのだ。
「君から話してもらえないだろうか……。わしは自分が恥ずかしい。とんでもない事をしてしまった。みんなが不幸になってしまったのだよ」
いいえ、会長のせいじゃありません。そういうべきなのかもしれないけれど、寧々は胸が詰まって何も言えなくなる。
息子の愛を試すつもりで言った。こんな悲劇が生まれるとは夢にも思っていなかった。許して欲しい。これが、会長が抱き続けて来た罪の意識。それを、寧々に託したのだ。
「分かりました。あたしから話します……」
あまりにも切なくて寧々は目に涙を浮かべていた。すると、会長が寧々の手を握り締めた。
「わしには、もう一つ、後悔している事がある。わしは、あんたを不幸にしたんじゃないかと思っている」
「そんなことありませんよ!」
友則と上手くいかなかったのは、絶対に会長のせいなんかじゃない。それだけは自信を持って言い切れる。
「あたし、会長がいたから、色々な世界を見る事が出来たんです。それに、会長がいたから、蓮さんとも出会えました。会長には感謝しても仕切れません……」
「そんなふうに言ってもらえると嬉しいよ。わしの孫は男前だろう?」
「はい。とても素敵な人です」
「それを聞いて、わしも満足だ」
今後、もう少し体力がついたらリハビリをするようである。
鈴木蓮が吉良君との会話を終えた頃、看護師さんが部屋に入ってきた。
これ以上、長居は禁物ですと看護師さんが言うので帰ることにした。
寧々が会釈していると、電話を終えた鈴木蓮が戻って来て言った。
「じぃさん、また、すぐ来るよ」
「ああ、待ってるよ。その時は羽生君も一緒に来なさい」
「はい。もちろんです」
まだ会長には、詠子が癌で入院している事は話していない。そんなに一気に色々な事を告げて混乱させたくない。
どこか哀しみを含んだような笑みを見せてから、鈴木蓮は会長の病室から出たのである。病院の無機質な廊下を進みながら彼がポツリと漏らした。
「じぃさんも、いつか、オレを忘れてしまうのかな……」
「そんな顔をしないで……。あなたが、会長の事を覚えていたらいいんです。そしたら、ずっと、会長はあなたの中で生き続けますよ」
鈴木蓮は、呼吸をするのも苦しいような顔をして歩いている。そして、ようやく、車に乗り込んだ時、ハンドルに顔を突っ伏したのだ。
「どうしました? どこか痛むのですか!」
私立の総合病院の駐車場である。救急外来も開いている。
寧々が、慌てて誰かを呼びに行こうとすると、鈴木蓮が寧々の腕を掴んでポツリと漏らした。
「先刻、あんたとじいさんの会話を聞いたんだ……」
「えっ」
「子供の頃から、ずっと聞きたかった。なんで、オレのママとの結婚にじいさん達は反対したのか知りたかった。でも、怖くて聞けなかったんだ……」
薄蓮の頬にスルリと涙が伝い落ちている。彼は、ハンドルに顔を伏せたまま喉を震わせている。
「じいさん達は、ママを嫌っていた訳じゃなかった。それを聞いて、やっと救われた気がする」
あまりに悲痛な呟きに、寧々の胸は張り裂けそうになる。
この人は、多分、ずっと、こうやって胸の痛みを秘めて生きてきたのだ。
「ママは……。自分の事を恥じていた。自分なんて、ちゃんとした家に迎えられないと思っていたけど、そうじゃなかったんだ」
でも、彼らの何気ない呟きのせいで、アンナさんは好きな相手と結婚できなかった。
会長夫妻にしてみたら、親の反対ごときで別れるなんて予想していなかったのだ。
実際、鈴木蓮の父の事は、あまりよく知らないが、古くからいる人達は口を揃えて言っている。
優柔不断。責任をとるのを避けるタイプ……。
妻が狂気に陥った事と分かると自殺という形で逃げてしまっている。
もしも、あの時、鈴木蓮の父親が夫として詠子さんの孤独や屈辱と向き合っていたら、少しは改善したかもしれない。
「アンナさんとの思い出を聞かせてもらえますか? どんな人でした?」
「ママは焼き菓子を作るのが得意だったよ。家でじっとしているのが好きなタイプだった。ママと暮らしていたアパートは動物を飼う事を禁止していたけど、ママはオカメインコを飼っていた。ママは夜の仕事をしていた。オレは真夜中、一人で眠っていたんだ……。でも、寂しいとか不自由だと思った事はなかったんだ……」
親子二人で暮らした思い出は彼の心を照らし続けてきたようだ。
「そうだ。今度、あんたにママのお墓を見せるよ。カトリックの教会の墓地で眠っているんだよ。毎年、オレは一人で墓参りをしている。ママにも、あんたの顔を見せてやりたい。きっと、ママも祝福してくれる」
「アンナさんの好きな花って何ですか?」
「ママが好きな花は白い花だよ。小さくて白い花なら何でもいいって言ってたな。ママは、背が高くて目立つ顔立ちをしている事にコンプレックスを持っていて、見た目は派手なのに内気な人だったんだ……。いつも自信なさそうにしていたよ。親父、一回、マジでママと駆け落ちしようとした事があったけど、ママがすっぽかしたんだ……。ママは自分から身を引いたんだよ。でも、母さんはそういう事を知らないんだろうな」
彼の表情には痛々しさと温もりが含まれている。この人を守ってあげたい。この人を幸せにしたい。彼の哀しみを消してしまいたい。自分は、この人の為に何が出来るのだろう。
寧々は、複雑に揺らぐ彼の横顔を見つめながら岐路に着いたのだった。
☆
その夜、二人がどんなふうに結ばれたのか。寧々の心にはしっかりと刻まれることになる。
「あたしが洗ってあげますね」
「えっ、自分で出来るよ」
「あたしが、あたなの髪に触れたいんです。だって、天使みたいにクルクルして可愛いんだもの」
普段、鈴木蓮や会長が使っているヒノキ風呂に二人で入っていく。寧々がスポンジを持って微笑むと、彼は照れ臭そうに言った。
「あんた、オレのママかよ?」
「いいえ。秘書です。そして、あなたの恋人です」
その身体や髪の毛を洗ってあげたのだ。そして、二人は……。一緒に向かい合って浴槽に浸かったまま微笑み合う。
「風呂場のオレの髪ってカオスだよな?」
「そんなことないよ。あたし、天使みたいなクルクルが好きだよ。だって、ものすごく可愛いもん」
「可愛いって言うなよ」
鈴木蓮が、寧々に体重をかけないようにして覆いかぶさると、悪戯めいた微笑みを浮かべて囁いた
「可愛いのは寧々ちゃんの方だよ」
「ああ、それ、恥ずかしいな。寧々ちゃんって言われると照れる。でも、かなり嬉しいの」
「じゃ、もっと言ってやる」
そんなふうに囁きながら寧々に何度もキスをしている。この時、寧々は、遊覧船でどこかに旅立つような幸せを感じながら目を閉じて口付けを受け続けていた。
「愛してる」
「あたしもです……」
彼の背中に両手を広げて抱きついていく。身体で示したい。この人と出会えたおかげで再生したのだ。
人生から逃げたいと思っていた。今はこうやって果てしない幸せを感じている。人生は捨てたもんじゃない。諦めなくて良かった。
その後、二人は広い浴槽の中で抱き合った。パシャパシャッと水が跳ねている。寧々の悦びも増した。寧々と彼は色んな角度で抱き合うと、ハァハァと荒く呼吸を繰り返していく。
(ずっと、この人とこうして抱き合っていたい……)
寧々と彼は何度も愛し合い、お互いの存在を慈しむように微笑み合う。寧々は、彼の髪を脱衣所で乾かしてあげた。すると、彼は照れ臭そうに言った。
「あんた、オレのママかよ?」
寧々はフフッと微笑む。こうして、彼の世話をしている時、とても心が満たされる。
「さぁ、ジェリー、今夜は二階で寝るよ」
そして、寧々はジェリーを連れて二階へと向かった。
「これからは、もっと大きなベッドが必要になるな」
鈴木蓮のベッドは狭いシングルベッドである。その上で寄り添ったまま朝を迎えるのだと想うと、寧々は不思議な気持ちになる。あの時の寧々は、このベッドに一人で横たわっていたというのに今は違う。
(あなたが隣にいてくれる。それだけで強くなれる気がするの……)
すべてが上手く行くとは限らない。いや、化粧品会社の建て直しには苦戦するだろう。
もしかしたら、詠子さんは癌を克服して元気になるかもしれない。そして、その事で、寧々達は思い悩むようになるかもしれない。
(それもぜんぶ受け止めよう)
でも、絶対に、この人を独りにはさせない。何が起ころうとも共に乗り越えてみる。こんなにも、真剣に、この人を好きになった自分の事を誇りに思っている。
(あなたは、わたしの光って誰かが歌ってたよね……。あなたといると、この世は美しいと感じられるの……。あなたの側にいると幸せだと感じられる……)
まだ眠っている鈴木蓮の頬に軽くキスをしてから両手を突き出して起き上がろうとする。
時刻は午前十時。早く、ジェリーにおはようを言わなくちゃ。
遮光カーテンを開くと生命に満ちた濃い緑の木々が見える。何もかもがあまりにも綺麗で空の向こうまで心が羽根のように舞い上がっていくような気がする。
「んっ……」
鈴木蓮が眩しそうに目を細めたまま半身を起こしている。全裸の寧々は床に落ちているパジャマを拾い上げようとして、ベッドのマットレスの縁に片手をついたまま少し前屈みになる。
「寧々?」
鈴木蓮が目をこすりながら、レースのカーテンの前に立つ寧々の名前を呼んだ。すると、寧々は全裸で振り向いてから、嬉しそうに呟いた。
「おはよう」
男物のパジャマを羽織っただけの寧々のしどけない後姿は、あの日の朝と同じように白く艶やかに輝いている。目覚めたばかりの鈴木蓮は眩しそうに目を細めている。
綺麗なものに吸い込まれているかのように寧々だけを見つめている。こういう時の鈴木蓮はとても無防備で可愛らしい。
寧々は、彼を抱き締めたい衝動に駆られていた。彼は、詠子さんに理不尽な目に遭わされても、それを怨んだりしない。それどころか、彼女を許して癒そうとする。
朝の光が燦々と降り注いでいる。優しい気持ちと共に彼への愛しさが胸に溢れて煌めく。寧々は、彼のクルクルした前髪をかきあげる。
そして、優しく彼の唇にキスを落とすと、フアッとした笑みを浮かべて囁いた。
「今日もいい天気だね。ホットケーキを作るね」
おわり


