あなたがいるから世界は美しい

第十一章

「駄目じゃないの……。小鳥、どうして勝手に出掛けちゃうの? なかなか帰って来ないから心配していたのよ」

 出迎えた小鳥ちゃんの祖母の冬実さんが、めっというように軽く孫を叱った。小鳥ちゃんが消えそうな声でごめんなさいと告げている。冬実さんが愛想笑いを浮かべながら寧々に言う。

「会社の方に御迷惑をおかけして本当にすみませんね。小鳥は父親を慕っておりましてね……。困っているんですよ。ほんと、やっと離婚してくれてホッとしたっていうのに……」
 
 小鳥の祖母の冬実さんは茶髪だった。

 高級そうな派手な衣服が似合っていた。ダラッと目尻が垂れており。愛くるしい雰囲気の目鼻立ちをしている。

 寧々は、玄関先で小鳥ちゃんを引き渡すとすぐに立ち去るつもりでいた。鈴木蓮は車に乗ったまま待っている。

「どうぞ、お入りになって下さいな。お茶でもいかがですか」

「いえ、急いでおりますので」

 冬実さんは、ポチ袋のようなものを取り出した。

「羽生さんでしたか。こんな遠い所まで来ていただいて申し訳ありませんね。失礼かと思いますがお車代ですのよ。どうか受け取って下さいませんか。ここまで来るのにガソリン代や高速代もかかりましたでしょう……」

 寧々は、即座に押し戻そうとする。

「いえ、これをいただく訳には……」

「そうおっしゃらずに……。運転手の方も、どうぞ中に入ってくださればいいのに」

「いえ。早く戻らないといけませんので……」

 鈴木蓮はコンクリート製のガレージに車を停めて待っている。二台入るガレージなのだが、寧々が来た時には一台も停まっていなかった。

 地主の家系だと聞いている。友則と離婚しても生活の心配はないのだろう。

(それにしても、肝心の椿さんはどこにいるのよ?)

 小鳥ちゃんは、玄関の奥の廊下から寧々達のやりとりを黙って見ている。もう帰っちゃうの? 自分も連れて行って……。そんな目をしているように見えるが、寧々にはどうする事も出来ない。

 ふと、気になった事を尋ねてみた。

「あの、小鳥ちゃんの妹さんはどちらに?」

「ああ、あの子なら二階で寝てますよ」

「小鳥ちゃんのお母様は?」

 その質問をされるのが嫌なのか、彼女はザッと目線を逸らすようにして早口で呟いている。

「さぁね。あの子はどこにいるのか分かりませんわね。小鳥がいないとLINEしたのに連絡がつかないんですよ」
 
 そんな話をしていると、冬実さんの背後にいた小鳥ちゃんの服のポケットの携帯が鳴り出した。小鳥ちゃんの顔が曇った。

 サッと読み終えるとスマホをポケットにしまいこんだ。

「誰からなの?」

 冬実さんに尋ねられた小鳥ちゃんが消えそうな声で答えた。

「ママだよ。ママ、お友達の家にいる。今日は夜中までには帰るって言ってるよ」

「しょうがないわね。友則さんのせいで傷ついてしまいましてね。すっかり荒れ果ててしまいましたのまったく、あの男ときたら腹が立つ。たいした仕事もしてないのに、残業だの出張だのと嘘をついて浮気していたみたいなんですよ」

 えっ。聞いていたのと話が違う。怪訝な顔をしていると、彼女は貼り付けたような笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね。お恥ずかしい。こんな事を愚痴ってしまって。社長の秘書さんに来ていだいて、本当にすみません」

 寧々が友則の元カノだなんて思ってもいない。

 いやいや、それにしても妙だと寧々は目を細めていた。なぜ、お姑さんは、あんな事を言うのだ。なぜ、友則が悪者になっているのだろう。娘の浮気を知らないのだろうか。

 そんな疑念も浮かんだのだが他人が深入りすべきではない。

 不意に二階で子供がワーワーと甲高い声で泣き出した。冬実さんが幼子を気遣うように二階へと向おうとしている。寧々は帰る事にした。寧々は玄関の引き戸を閉じようとする。しかし、その時、小鳥ちゃんが叫んだ。

「おばぁちゃん。小鳥、お見送りするね!」

「そうね。あたしもお見送りするべきなんですけど、二階にいる子の様子を見てきますね。羽生さん、今日はありがとうございました」

 結局、お車代とやらはしっかりと受け取る事にしたのである。車の後部席に乗ろうとすると、鈴木蓮が顎をしゃくるようにして促した。

「なぁ、帰りは隣に座れよ」

 それもそうだと思い助手席に乗り込む。シートベルトを装着しようとしていると、小鳥ちゃんが小さな紙切れを差し出した。

「何かな、これ?」

「ママからのお手紙だよ。内緒のお手紙……。ご、ごめんなさい」

 ボソボソとした声で言うと逃げ込むように自宅に戻ったのだが、あの子の様子がぎこちない。

 とりあえず、内緒の手紙とやらに視線を落としていく。手紙というよりもオフィスで使う伝言用の付箋、つまりメモ書きだ。

『羽生さん 話があるからすぐに来て ここの十五番テーブルにいる 椿より』

 ファミレスの住所が書かれていた。検索すると、ここから一キロ先の海岸線にあった。

「どうしましょう。椿さんに呼び出されちゃいました。話って何だろう?」

「うーむ。安曇の元嫁の文字は可愛いな。書店のポップみたいだな」

「これ、奥さんが書いたんでしょうか? それじゃ、外出する前に用意して娘に渡していたって事になりますよね」

 てっきり、先刻の電話の内容を小鳥ちゃんがメモしたのだと思っていたが。どうやら、違うようである。この手紙は椿からのものだ。

 不気味だ。

 さて、どうしよう。無視しようか。日も暮れていた。正直、かなり空腹だった。やはり行ってみよう。

「すみませんが、ここのファミレスに立ち寄っていただけますか? 副社長は何か召し上がって下さいね。これ、お車代だそうです。それにしても、椿さんはどういうつもりなんでしょうね」

「さぁな。不穏なニオイがするな」
 
 相変わらず友則は電話に出てくれない。寧々がそう言うと、鈴木蓮が教えてくれた。

「あ、先刻、営業部から連絡が入ったよ。安曇、大阪駅のトイレでスマホを水没させたらしい。ノートパソコンは使えるから仕事には支障ないみたいだ」

「出張から帰って来たら、今日のことを友則に知らさないといけませんね」

「つーか、これから修羅場になりそうだよな。オレは近くの席で見守るから」

 いらっしゃいませ~。入店と同時に若いバイトの店員の明るい声が響いた。

 寧々は指定されたテーブルの番号を探す。ここで間違いない。その席には椿と思われる女性が座っている。

 二十歳前後に見える。肩を片方だけ出すデザインのカットソーとチュール素材の長いスカート。二児の母には見えない。すごくあどけない顔立ちをしている。

(うわぁ、可愛い。アイドルみたいだな)

 寧々より少し遅れて入ってきた鈴木蓮は、寧々が腰掛けたテーブルの背後の座席に座っている。

 鈴木蓮が聞いているとも知らずに、彼女は、不機嫌そうな顔で言った。

「何か注文してよ。あたし、奢るから」

 本当は、ガッツリと夕飯を食べたいけれど、そういう雰囲気ではない。ケーキセットを注文すると、すぐさま、コッテリとした質感のチョコレートケーキと紅茶が運ばれてきた。

「おたく、友則の元カノの羽生寧々だよね」

「はい。大昔のことですけど……」

「やっぱり、どう見てもオバさんじゃん。何がいいのかな。まぁ、いいや。さっさと食べなよ」

 椿は、タビオカミルクティーを半分ほど残している。寧々は、ケーキを大急ぎで半分ほど口に詰めるが味わう余裕はなかった。紅茶で喉元を潤してから戸惑うような声で尋ねていく。

「小鳥ちゃんは、今日、会社に来たんです。あなたの差し金だそうですね」

「小鳥に言ったの。あんたを連れて来たら、パパに会わせてやってもいいってね。まさか、こんなに上手くいくなんてね。我が子ながら賢いわ」

 子供を脅して、そんな事をさせるなんてどうかしている。だから、あの子は申し訳無さそうな辛そうな顔をしていたのだ。

「なぜ、そんな事をするんですか?」

「あんたに言いたい事があるからだよ。あーあ、三十過ぎて独身の女はみっともないよね。昔の男にしがみついて誘惑しているなんてタチが悪いよね」

「そんな事はしてません! 友則に未練なんてありませんから」

 語気が荒くなる。ファミレスにいる学生達が、チラッとこちらを見ているが構うもんか。しかし、相手も負けていなかった。

「嘘つくなよ。あるに決まってるじゃん」

 ダンッとテーブルに拳を下ろしている。寧々を睨みつけている。

「友則は新婚旅行先でも、寝惚けて寧々って呟いてたんだから。未練タラタラのまま結婚したんだよ。あんたがいる限り、あたしは幸せになれないの。ねぇ、どこか遠い国に引っ越してよ」

「無理です」

「インドとかインドネシアとかミャンマーとかでホステスをすればいいじゃんか。あんたみたいな三十路でも、僻地だと駐在人のお客が来てモテるみたいだよ。知り合いのホストが教えてくれたよ。熟女もモテるんだってさ」

 カチンときたので鋭く切り返してやった。

「そのホストが、あなたの次女の父親なんですね?」

「やだ、友則、そんな事まであんたに話してんの? うざっ。やっぱり、あんたら付き合ってんじゃん! 馬鹿にしやがって」

「椿さんのお母様は、次女の父親のことを知っているんですか?」

「あたしのママに言ったら、小鳥を殺すって言ってあるから友則は言わないわ」

 信じられない。友則を脅す為に、そこまで言うのか。彼女は、口許を歪めて目をキッと尖らせるとスマホを見せてきた。

「何の落ち度も無いあたしを追い詰めたのは友則とあんたなんだからね」

 いいえ、あなたにも落ち度はある。しかし、その言葉は敢えて呑み込む。

「これが証拠だよ」

 それは、小鳥ちゃんと友則のラインのやりとりだった。

『パパ、ネネお姉さんと早くケッコンしてね。そしたら、小鳥といっしょにくらせるんだよね?』

『ネネお姉さんが母さんになってもいいのか? イヤならイヤって言ってもいいんだぞ』

『いいよ。小鳥、いい子にしている。だから、ケッコンしてね』

『うん。まってろ。もうすぐプロポーズするからな』

 そんな内容を見せられて寧々は唖然となる。まさか、寧々の知らないところで、そんなやりとりをしていたとは……。

「こんなの友則が勝手に言ってるだけですよ。あたしは、そんなつもりはありませんよ」

「うるせぇよ。これが、あんたと友則の不貞の証拠なんだよ。この時、まだ離婚届けを出してないんだからね。あんたが不倫しているって会社にバラしてやるよ。あんたはクビだ。ざまーみろ。慰謝料、たんまりともらうからね」

「なっ……」

 唇を噛み締めるしかなかった。この人と喧嘩をするつもりはない。でも、向こうはガンガン攻めてくる。

「人の家庭、壊しておいて何様のつもりだよ!」

 壊したのは寧々じゃない。でも、文面だけを見ると不倫をしているかのようにも見える。苦くて硬いものが胸に込み上げてきて泣きたくなってきた。

「あたし、友則を異性として愛してませんから! 友則があたしに未練があるだけですから!」
 
 椿は、その台詞に本格的にムカッときたのか顔つきが歪んでいる。

 恨まれるのも辛いが、板ばさみになっている小鳥ちゃんが気の毒で仕方ない。寧々は、勇気を振り絞って言う。

「あなた、小鳥ちゃんのことを愛してないんですか?」

「愛してるに決まってるわ。我が子なんだよ。難産でさ、何時間も苦しみながら産んだんだからね。友則は、小鳥が産まれてから、あたしにも優しくなって嬉しかったんだ」

 やはり、新婚時代は、それなりに幸せだったようである。

「どうして、あなたはホストと浮気したんですか? 友則、傷ついてましたよ」

「傷付いたのはあたしよ。寂しかった。いつも、小鳥のことばかり言ってる。あたしは、いつも後回し。こんなの酷い。あんたなんかに、あたしの寂しさなんて分かりっこない」

 強い眼差しで寧々を見据えたまま恫喝してきた。

「早く会社を辞めてよ。あたしに慰謝料を払えないのなら、せめて姿を消す事で誠意を見せてよ」

 寧々は、やるせない気持ちになり目を曇らせる。

 なぜ。こうなったんだろう。相手の幸せを妬んで怨んでいたのは寧々の方だったのに……。不気味な合わせ鏡を見ているみたいで怖くなってくる。

 あの当時の哀しみを思い返していた。好きな男に裏切られてもがいている椿の痛みは理解する事が出来る。

 友則の気持ちが自分から離れた事を寧々のせいにして心を守っている。こんなんで冷静な話し合いなんて無理だ。

 絶望したように溜め息を漏らしていると、その時、人影が近付いてきた。

「少しいいですか。羽生さんを責めるのはやめて下さいませんか……」

 唐突な台詞に椿はギョッとしたように振り向く。その声は鈴木蓮。

 スーツ姿のイケメンの登場に椿は驚いているようである。顎を上げたまま口を開けている。

「えっ、誰よ?」

「僕は、彼女をここまで送ってきた者です……」

「もしかして、会社の車の運転手さん? やーだ、すんげぇイケメンじゃん」

「いいえ。僕は寧々の彼氏です」

「はぁ?」

 そんな馬鹿なという表情を浮かべている。そして、可笑しそうに吹き出した。

「レンタル彼氏だよね? おばさん、無理してる。ああ、みっともないなぁ」

 確かに、このクラスのイケメンが訳アリの三十路の寧々の彼氏というのはおかしい。

 すると、彼はポケットから名刺を取り出して淡々と告げた。

「申しわけございません。副社長の鈴木蓮です。寧々と同棲しています。それは会社の皆が知っていることですよ」

 椿は顔色を変えてネット検索を開始している。会社のホームページを見つけると目を。

「うっそーーー。マジで副社長じゃん! 何だよ。秘書に手を出してんの! 愛人? セフレ?」

 どこまでも失礼な椿だったが、鈴木蓮は涼やかな笑みを湛えている。

「いいえ。大切な恋人ですよ。どうやら、安曇君は僕の彼女に片思いしているようですね。あまりしつこいようだと会社を解雇するしかありませんね」

 解雇と聞いた途端に、なぜか、キャハハと手を叩いて喜び始めた。

「いいよ、いいよ。友則、クビにしてやってよ。そしたら、あたしのところに戻ってくる。あの歳で再就職なんて難しいもんね。うん、それ、賛成だわ」

 椿は、マジで友則が無職になればいいと思っている。なんて女なんだ。寧々のことなど、どうでもよくなったのか態度を変えている。

「やーだ。こんなところに呼び出したりしてすみませんでしたぁ。どうか、副社長と幸せになって下さーい。んふふ。いい事、聞いちゃった。友則の片思いなんだ。ざまぁーみろ」

 この人の愛はどこまでも歪んでいる。

「友則も、あたしと同じように苦しめばいいんだよ。でなきゃ、割りに合わないじゃん」

 友則への執着心が怨みに変わっている。寧々の胸が締め付けられて息が詰まってきた。友則に執着している椿を見ていると怒る気力が萎えてしまう。

「あの、それじゃ、もういいですよね」

 寧々は早く帰りたかったのだ。それを椿が引き止めると強い口調で尋ねたのだ。

「副社長さん、最後に教えてよ。この人の何がいいの? 年上の女の何がいいの」

 寧々はドキッとなった。何て事を副社長に聞くんだ……。

 いたたまれなくなり、鈴木蓮から目を逸らすと、彼は、寧々の横顔に温かな眼差しを向けたまま言った。

「見てのとおり、この人は美人です。それに、いつも何事にも一生懸命に向き合います。常に誠実で健気なんです。この人の作る料理もお菓子も最高ですよ。素晴らしい人です。今日だって、あなたのお子さんを送り届けたんですよ」

「そっか……。あたしも料理教室に行ってみようかな」

「そんな事より、あなたは子供さんの傍にいてあげるべきですよ」

 鈴木蓮の呟きに対してげんなりしたように言う。

「ええーーー。下の子はすぐに泣くから嫌だわ。小鳥は賢いのに誰に似たのかな」

 椿は、まだ家には帰る気がないようだった。これから、友達とカラオケをすると言っている。

 とっとと帰って娘を慈しんであげなさいよと言いたいが、立場上、相手を刺激するとまずいので呑み込む。寧々と鈴木蓮はファミレスの外に出るなり、顔を見合わせてげんなりしていた。

 寧々はハーッと吐き出すようにして言う。

「友則、あんな人と七年も暮らしてたんですね。正直言って、友則のいちばん苦手なタイプですよ。結婚したのが不思議なくらいです」

「まぁな、顔は抜群に可愛いが中身が空っぽの馬鹿だったな。小鳥ちゃんが、あんなに賢く育ったのは父親のおかげかもしれないな。安曇も大変だよな。マジで同情するわ」

 鈴木蓮は綺麗にバックで車を駐車場から出してから、華麗に走り出している。

「だけど、副社長が、真顔で友則を解雇するって言うもんだから、ドキドキしましたよ」

「いや、ある意味、本気だよ。ゲーム業界には不慣れかもしれないが、アルファに移動した方がいい。フレックスタイム制の方が子育てはしやすい。会社のすぐ近くには子供食堂もあるし、会社の前には小学生の塾もある。とはいうものの、実際に男一人で育てるとなると大変だよな」」

 どうやら、彼も友則を応援しようとしているらしい。ハンドルを握ったまま軽やかに笑ったのだ。

「あっ、先刻の元嫁とあんたの会話を録音しといた。必要ならいつでも言ってくれ。安曇が親権を争う際に有利になるかもしれない」

「あっ、わざわざすみません……」

 いつのまにか、鈴木蓮は、すっかり友則の味方になっている。

 この先、小鳥ちゃんをどう取り戻すのか。取り返したとしても、果たして父と娘が暮らしていけるのか。そんな事を案じていると、鈴木蓮が教えてくれた。

「アルファのディレクターで、シングルマザーの佐倉伊織って人がいるんだけど、子供を一人で家に置いて仕事をするのが不安だからって、会社のすぐ脇にある個別指導の塾に通わせているよ。夏休みも自習室にいれば安全だ。個別指導の塾をそういう目的で活用する人もいるんだよ。安曇も同じようにするといいかもしれないな」

 これに関しては友則が考えて選択するしかないだろう。でも、一人で子供を育てている親御さんは、寧々が思う以上にたくさんいるのかもしれない。そうやって、愛する我が子の為に働く人達を、昔は、どこか妬ましい気持ちで見ていた事もある。

 あの頃の自分は色んな意味で嫌な奴だったなぁと思うのだ。

 その時、交差点で信号待ちしていたのだが、鈴木蓮が、ふと思い出したように言った。

「なぁ、明日、土曜だよな。何か予定ある?」

「いいえ。特に何もありませんけど……」

「このまま灯台が見えるホテルに行かないか?」

「えっ、そんなことしたら、帰るのが遅くなりますよ」

「もちろん、帰るのは明日になるだろうね」

 思わせぶりな言葉に胸が高鳴っていく。

(そういうの、困るんです)

 遊びなんですか。本気なんですか。

 寧々は膝の上で両手の拳を握り締める。そして、泣き出しそうな顔になる。

「副社長、少し、車を停めていただけますか?」

 すると、彼は、海沿いの小さな公園を探し出して駐車場の隅っこに停めた。周囲には人はいない。寧々は、勇気を振り絞って告白していた。

「あなたは、あたしのことをどう思っておられるのですか!」

 この人は、キスをした時も特に愛の言葉は言ってくれなかった。そんな曖昧な状態は嫌だ。言葉が欲しい。

 こんなふうに一人でモヤモヤしていたくない。もう耐えられない。

「副社長。あたしを惑わせないで下さい。あたしにとってかけがえのない人になっているんですよ」

 いつもあなたの傍にいたい。ずっと、あなたの幸せな姿を見守っていたい。

「えっ、オレは言ってなかったっけ……」

 寧々の細い顎を引き寄せるている。ドクッと胸に熱いものが込み上げる。彼は、優しく唇を重ねてきた。そのまま息をこらすように繊細な顔つきのまま寧々を抱き寄せながら囁いたのだ。

「あんたのこと好きだよ。いつからかは分からないけど……。いつのまにか夢中になっていたんだ。あんたといると癒されるんだ」

 彼は慈しむような顔で寧々を見つめている。その言葉が寧々の胸に慈雨のようなものをもたらしている。しかし、それでも腑に落ちないのだ。

「でも、副社長は棚部さんのことも好きなんですよね」

「もちろん好きだよ」

「そ、それは二股って事ですか!」

「何のことだよ」

 心許ない眼差しの寧々の額に手をポンと乗せている。クスッと笑みをこぼすと、寧々の心に落とし込むような声音で囁いた。

「馬鹿だな……。オレ、そんなふうに見えるの?」

「……」

「棚部さんの好きは、寧々が小鳥ちゃんの事を大切に思っているのと同じだ。寧々への気持ちとは大きく違っている。頭の中で何度も何度も、寧々に触れたいと願った。そういう類の好きという気持ちなんだよ。分かるだろう。つまり、寧々を愛している」

 寧々。呼び捨てにしている。

 彼は寧々を本気で好きだと言ってくれている。

 もちろん、寧々も素敵な一夜を過ごしてみたい。彼が幼い頃に登った灯台から太平洋を眺めたい。しかし、寧々にはどうしても気になる事がある。

「でも、家にジェリーを残してお泊りなんて出来ません。あの子は、あたし達がいないと、すごく寂しがります。もしも、旅行するのなら、ジェリーも一緒じゃないと駄目ですよ」

 みんな、どこにいるの、寂しいよと言って、ジェリーが狼狽して吠え続ける様子が目に浮かぶと胸が押し潰されそうになる。

「ジェリーが気になって、一緒に寝ても身が入らないと思います。上の空で愛し合うことになりますよ」

 サラリと大胆な台詞を交えながらも大真面目に力説していると、鈴木蓮はクスッと笑った。

「うん。分かった。オレ、寧々のそういうところが好きだ。そうだな、ジェリーは寂しがるよな。うん、急いで帰ろうか? いや、その前に何か食べよう」

 その後、コンビニで買った菓子パンやチキンを齧った。ささやかな夕餉を車の中で楽しんだ。

 運転を開始した鈴木蓮の横顔を見つめたまま、寧々は、前から聞いてみたかった事を口にする。

「こないだ、ゲーム会社の方の話をたまたま聞いたんです。みなさんを連れて別荘で過ごしていたんですね」

「その別荘、アルファの保養所として活用しているんだよ。男二人と女子五人で泊まったんだ。そこで、一晩中、ゲームをしながら、自由にダラダラ過ごす。友達感覚で色々とアイデアを出し合ったんだ」

「楽しそうですね」

「どうしても、会議だと闊達な意見の交換にならないからね。でも、飲んで食って酔って、一泊すると、みんな、本音が言い易くなる。ゲームってさ、各々の性癖みたいなものが絡んでくるんだ。エロゲーじゃなくて、プラトニックでも根底にあるのは性だよ。という訳だから、色々な人の欲望を満たす為にも、互いに語り合うのさ。最後はフェチ満載のエロ話になる」

「えっ、どんな話をするんですか? 副社長の好きなAV女優の話とかするんですか?」

「今、それを聞くのかよ! あんた、前から思ってたんだけど、そういう話、けっこう好きだな?」

「あっ、すみません。欲求不満かもしれませんね。何しろ、この七年、何一つありませんでしたから……。身も心も乾いているみたいなんです。というか、下品ですみません」

「ぶっ」

 鈴木蓮は我慢できないように吹き出している。えっ、うろたえていると、彼は、目尻に優しいシワを作って寧々の額をポンポンした。

「オレ、寧々のそういうところ、面白いと思う」

 そんな会話をしながら家路についたのである。そして、玄関の扉の取っ手に鈴木蓮が手を伸ばそうとした時、スマホが鳴った。

「えっ、あっ、はい。すぐ行きます」

 鈴木蓮の顔が引き攣っている。横顔が緊迫している。何かよくない事が起きたのだ。息を止めるようにして見守っていると、彼が暗い顔つきのまま告げた。

「母さんの家政婦さんからの連絡だ。母さんが倒れた。病院に来てくれと言っている」
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