空を渡る魔女と、遅れて届く手紙
第十五章 告白の手紙
三月になった。
北方にも春の気配が来始めた。雪が少しずつ解け始め、軒先の氷柱が昼間に滴るようになった。朝の空気はまだ冷たかったが、光の質が変わっていた。冬の白い光ではなく、少しだけ金色が混じった光が、雪の上に落ちるようになった。
南の状況は悪化していた。
本局からの通達が週に一度来るようになった。国境での衝突が増えている。双方で死者が出た。外交交渉が難航している。
北の集落の女性への手紙は、二月から来なくなっていた。
ミリアは毎週木曜日の仕分けのたびに、その女性の宛先がないか確認した。なかった。女性はまだ待っているはずだった。ミリアには届けられる手紙がなかった。
届けるだけが仕事だ、と分かっていた。
しかし届けるべき手紙がない時、魔女には何もできなかった。
三月の第二週の木曜日だった。
本局便の束を受け取って、仕分けを始めた時、一通だけ様子の違う封筒があった。
厚い封筒だった。紙の質が良く、封蝋がしてあった。封蝋には小さな文様が押してあった。ミリアには見覚えのない文様だったが、ポストが低い声で言った。
「王族の封蝋だ」
ミリアは封筒を持ったまま動かなかった。
宛先を確認した。
アルト・フォン・アルトベルク。
隣国の住所だった。
「また来た」
ミリアは呟く。
「そうだ」
「国境を越える配達は停止しているのに」
「前回と同じだろう。差出人が特別な経路で本局まで届けた。そこからこちらに回ってきた」
「差出人は」
差出人の欄を見た。名前はなかった。住所だけがあった。この国の南の城、という住所だった。前回と同じ住所だった。
「また、あの人からの手紙だ」
「そうだな」
ポストは相槌を打つ。
ロアンが棚から振り返った。
「持っていけ」
「国境を越えられない。通達では」
「通達は通常の配達経路の話だ。お前が個人として飛ぶことを、本局は止められない」
「それは」
「お前が判断することだ。わしが指示することではない」
ミリアは封筒を見た。厚い封筒。王族の封蝋。差出人不明の住所。宛先はアルト。
手袋の指先を、封筒の角に当てた。
記憶が来た。
部屋だった。夜だった。
窓の外で雨が降っていた。机の前に人が座っていた。後ろ姿だった。長い髪が背中に流れていた。白いものを着ていた。前回と同じ場面だ、とミリアは思った。しかし違った。前回より時間が経っていた。前回は書き始めの場面だった。今回は、書き終わりに近い場面だった。
机の上に紙が何枚も広がっていた。書き直した痕跡があった。何度も書いて、捨てて、また書いた紙が、机の端に積まれていた。
人は今、最後の紙に向かっていた。ペンが動いていた。ゆっくり、丁寧に。
部屋に侍女が来た。
「王女様、もうお休みを」
座っている人が、小さく首を振った。
「もう少しだけ」
侍女が去った。静かな部屋に、ペンの音だけが残った。
王女の心の声が流れてきた。言葉ではなく、感情として。
あなたに手紙を書くのは、これで何通目でしょう。最初は国の話でした。次は本の話。そして空の話。
ペンが止まった。王女は窓を見た。雨の夜。遠くの空。
あなたの国と、私の国は、もうすぐ戦争になるそうです。
小さく息を吐いた。
私は、それが嫌です。人が死ぬのを見るのが嫌です。だから、この手紙を書きます。
ペンが再び動いた。もしあなたも同じ気持ちなら、どうか戦争を止めて下さい。
ペンが止まった。最後の一行の前で、少しだけ止まった。
王女は少しだけ笑った。
そして書いた。もう一つ。これは王女ではなく、一人の女として書きます。
ペンが、最後の文字を書いた。
私はあなたが好きです。紙を折った。封筒に入れて、封蝋を押した。
それから封筒をそっと、両手に包んだ。
小さく、しかしはっきりと、呟いた。
遅れてもいい。どうか、届きますように。
届く頃、私はどうしているでしょうね。
王女はそう言って、静かに笑った。
ミリアは手を引いた。
手紙は、温かかった。
深く息を吸った。目の奥が熱かった。泣くまいと思ったが、目の奥の熱さは消えなかった。
「見えたか」
ポストの声が少し低かった。
「見えた」
「どんな記憶だった」
ミリアは少し間を置いた。
「王女さんだった」
ロアンが振り向いた。黙って、ミリアを見た。
「差出人は、王女さんだった。この国の。アルトさんへ書いた手紙。戦争を止めてほしい、という内容だった。それと」
ミリアは封筒を見た。
「好きだ、と。一人の女として、好きだと書いた」
沈黙があった。
「最後に言っていた。遅れてもいい、届きますようにって」
ロアンは何も言わなかった。
ポストも黙っていた。
ミリアは目の奥の熱さをそのままにして、封筒を見つめた。
何度も書き直した紙の束。雨の夜。最後の一行を書く時の、少しだけ笑った横顔。封筒を両手に包んだ手。
遅れてもいい。届きますように。
「この手紙。すごく重い」
その日の午後、ミリアは配達に出なかった。
珍しいことだった。天候が悪いわけでも、体調が悪いわけでもなかった。しかしロアンは何も言わなかった。
ミリアは局の中で、封筒を机の上に置いて、ただ見ていた。
ポストも黙っていた。
しばらくして、ミリアが口を開いた。
「ポスト」
「なんだ」
「この手紙、届けるべきだと思う?」
「お前が決めることだ」
「でも意見を聞きたい」
「届けるべきだと思う」
迷いのない言い方だった。
「理由は?」
「書いた人が、届けてほしいと思って書いた。それだけで十分だ」
「国境を越えなければならない。通達に反する」
「通達はある。しかしお前が飛ぶことを誰かが物理的に止められるわけではない」
「届けることで、政治的な問題になるかもしれない。差出人が危険になるかもしれない」
「それは前回も同じだった」
「前回より状況が悪い。もうすぐ戦争になるかもしれない」
「そうだ」
「それでも届けるべきだと思う?」
「私はそう思う。しかしお前が決めることだ。私の意見は意見だ」
ミリアは封筒を手に取った。
重かった。いつも手紙は重い。しかし今日の重さは違った。書いた人の気持ちが、今まで届けてきたどの手紙よりも、はっきりと伝わってくる重さだった。
「ロアンさん」
ロアンは向かいの椅子に座っていた。目を閉じていた。眠っているかと思ったが、目を開けた。
「聞こえていた」
「どう思いますか?」
「お前はどうしたい」
「届けたい」
「それが答えだ」
「でも怖い」
「怖くて当然だ」
「怖くても、届けたい」
ロアンは少し考えてから言った。
「届けろ」
「規則に反しても?」
「規則よりも重いものがある。それをお前は今日、手で感じた」
ミリアは封筒を持ったまま、ロアンを見た。
「ロアンさん、昔届けた手紙も、こんな感じでしたか」
ロアンはすぐには答えなかった。
「似ていた。あの時も怖かった。しかし届けた」
「戦争が終わった」
「終わった。しかし手紙一通で終わったわけではない。多くのことが重なって、終わった。手紙はその一つだったにすぎない」
「でも、その一つがなければ」
「それは分からない。ただ、届けなければ何も始まらなかったかもしれない、とは思う」
夕方、ミリアは明日の準備をした。
ポストに封筒を入れた。防寒の上着を確認した。証明書を内ポケットに入れた。
ロアンが夕飯を出した。麦と豆のスープだった。質素な夕飯だった。いつもと同じだった。
食べながら、ミリアは明日のことを考えた。
国境の検問を通れるかどうか分からない。止められるかもしれない。しかし止められても、飛ぼうと思っていた。別の経路を探してでも。
「ポスト」
「なんだ」
「前回、国境を越えた時、止められなかった。今回はどうだろう」
「状況が違う。今回は止められるかもしれない」
「その時は」
「別の経路を探す。山を越えれば検問を通らなくて済む場所がある。地図を見ろ」
「山越えは時間がかかる」
「かかる。それでも届けたいなら、そうするしかない」
ミリアは地図を広げた。
国境の検問所の位置を確認した。山脈の位置を確認した。検問を通らない経路を探した。
あった。
山脈の北端に、古い峠があった。地図には小さく記されていて、郵便路線としては使われていない峠だった。しかし越えられる高さではなかった。冬の終わりに向かう今の時期なら、気流は荒いが、越えられないことはない。
「ポスト、この峠は越えられる?」
「越えられる。しかし気流が読みにくい。慎重に行け」
「分かった」
ロアンがスープをすすりながら伝えた。
「その峠はわしも昔通った」
「厳しいですか?」
「厳しい。しかし飛べないことはない。山の気流は正面から入るな。斜めから入れ。それだけ覚えておけ」
「はい」
「往復で二泊になる」
「なります」
「気をつけていけ」
それだけだった。止めなかった。もっと考えろとも言わなかった。
ミリアはスープを飲み干した。質素だが、温かかった。
夜、眠る前に、ミリアは内ポケットから二通の手紙を取り出した。
エリスからの手紙。未来の自分からの手紙。
それと今日から加わった、王女からアルトへの手紙。
三通を並べた。
一通は届いた手紙。一通は届かないかもしれない警告。一通はこれから届ける手紙。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の手紙、また読んだ」
「何か気づいたか」
「届けてはいけない、と書いてある。大切な人が死ぬ、と書いてある」
「そうだ」
「この手紙のことかもしれない」
「かもしれない」
「届けることで、アルトさんが危険になるかもしれない」
「そうかもしれない」
「でも最後に書いてあった。それでも、届けてよかった、と」
「そうだ」
ミリアは三通の手紙を見た。
「未来の私は知っている。何が起きるかを。それでも届けてよかったと言っている」
「そうだな」
「だったら、今の私が迷う必要はないのかもしれない。結論は出ている」
「そうとも言える」
「でも」
「でも?」
「それでも迷う。結論を知っていても、迷う。それが今の私だ」
「それでいい。結論を知りながら迷うことができる。それは、お前が手紙を軽く扱っていない証拠だ」
ミリアは三通の手紙を丁寧に畳んだ。
エリスの手紙をポケットへ。未来の手紙をポケットへ。
王女からアルトへの手紙を、ポストの中へ。
「届けてきます」
「分かっている」
「また帰ってくる」
「帰ってこい」
明日の朝、飛ぶ。山を越えて、国境を越えて、隣国の王都まで届けに行く。
怖い、しかし届けなければならない。
その感情を、ミリアは今夜初めて、自分のものとして持った。
王女と同じ感情を。
北方にも春の気配が来始めた。雪が少しずつ解け始め、軒先の氷柱が昼間に滴るようになった。朝の空気はまだ冷たかったが、光の質が変わっていた。冬の白い光ではなく、少しだけ金色が混じった光が、雪の上に落ちるようになった。
南の状況は悪化していた。
本局からの通達が週に一度来るようになった。国境での衝突が増えている。双方で死者が出た。外交交渉が難航している。
北の集落の女性への手紙は、二月から来なくなっていた。
ミリアは毎週木曜日の仕分けのたびに、その女性の宛先がないか確認した。なかった。女性はまだ待っているはずだった。ミリアには届けられる手紙がなかった。
届けるだけが仕事だ、と分かっていた。
しかし届けるべき手紙がない時、魔女には何もできなかった。
三月の第二週の木曜日だった。
本局便の束を受け取って、仕分けを始めた時、一通だけ様子の違う封筒があった。
厚い封筒だった。紙の質が良く、封蝋がしてあった。封蝋には小さな文様が押してあった。ミリアには見覚えのない文様だったが、ポストが低い声で言った。
「王族の封蝋だ」
ミリアは封筒を持ったまま動かなかった。
宛先を確認した。
アルト・フォン・アルトベルク。
隣国の住所だった。
「また来た」
ミリアは呟く。
「そうだ」
「国境を越える配達は停止しているのに」
「前回と同じだろう。差出人が特別な経路で本局まで届けた。そこからこちらに回ってきた」
「差出人は」
差出人の欄を見た。名前はなかった。住所だけがあった。この国の南の城、という住所だった。前回と同じ住所だった。
「また、あの人からの手紙だ」
「そうだな」
ポストは相槌を打つ。
ロアンが棚から振り返った。
「持っていけ」
「国境を越えられない。通達では」
「通達は通常の配達経路の話だ。お前が個人として飛ぶことを、本局は止められない」
「それは」
「お前が判断することだ。わしが指示することではない」
ミリアは封筒を見た。厚い封筒。王族の封蝋。差出人不明の住所。宛先はアルト。
手袋の指先を、封筒の角に当てた。
記憶が来た。
部屋だった。夜だった。
窓の外で雨が降っていた。机の前に人が座っていた。後ろ姿だった。長い髪が背中に流れていた。白いものを着ていた。前回と同じ場面だ、とミリアは思った。しかし違った。前回より時間が経っていた。前回は書き始めの場面だった。今回は、書き終わりに近い場面だった。
机の上に紙が何枚も広がっていた。書き直した痕跡があった。何度も書いて、捨てて、また書いた紙が、机の端に積まれていた。
人は今、最後の紙に向かっていた。ペンが動いていた。ゆっくり、丁寧に。
部屋に侍女が来た。
「王女様、もうお休みを」
座っている人が、小さく首を振った。
「もう少しだけ」
侍女が去った。静かな部屋に、ペンの音だけが残った。
王女の心の声が流れてきた。言葉ではなく、感情として。
あなたに手紙を書くのは、これで何通目でしょう。最初は国の話でした。次は本の話。そして空の話。
ペンが止まった。王女は窓を見た。雨の夜。遠くの空。
あなたの国と、私の国は、もうすぐ戦争になるそうです。
小さく息を吐いた。
私は、それが嫌です。人が死ぬのを見るのが嫌です。だから、この手紙を書きます。
ペンが再び動いた。もしあなたも同じ気持ちなら、どうか戦争を止めて下さい。
ペンが止まった。最後の一行の前で、少しだけ止まった。
王女は少しだけ笑った。
そして書いた。もう一つ。これは王女ではなく、一人の女として書きます。
ペンが、最後の文字を書いた。
私はあなたが好きです。紙を折った。封筒に入れて、封蝋を押した。
それから封筒をそっと、両手に包んだ。
小さく、しかしはっきりと、呟いた。
遅れてもいい。どうか、届きますように。
届く頃、私はどうしているでしょうね。
王女はそう言って、静かに笑った。
ミリアは手を引いた。
手紙は、温かかった。
深く息を吸った。目の奥が熱かった。泣くまいと思ったが、目の奥の熱さは消えなかった。
「見えたか」
ポストの声が少し低かった。
「見えた」
「どんな記憶だった」
ミリアは少し間を置いた。
「王女さんだった」
ロアンが振り向いた。黙って、ミリアを見た。
「差出人は、王女さんだった。この国の。アルトさんへ書いた手紙。戦争を止めてほしい、という内容だった。それと」
ミリアは封筒を見た。
「好きだ、と。一人の女として、好きだと書いた」
沈黙があった。
「最後に言っていた。遅れてもいい、届きますようにって」
ロアンは何も言わなかった。
ポストも黙っていた。
ミリアは目の奥の熱さをそのままにして、封筒を見つめた。
何度も書き直した紙の束。雨の夜。最後の一行を書く時の、少しだけ笑った横顔。封筒を両手に包んだ手。
遅れてもいい。届きますように。
「この手紙。すごく重い」
その日の午後、ミリアは配達に出なかった。
珍しいことだった。天候が悪いわけでも、体調が悪いわけでもなかった。しかしロアンは何も言わなかった。
ミリアは局の中で、封筒を机の上に置いて、ただ見ていた。
ポストも黙っていた。
しばらくして、ミリアが口を開いた。
「ポスト」
「なんだ」
「この手紙、届けるべきだと思う?」
「お前が決めることだ」
「でも意見を聞きたい」
「届けるべきだと思う」
迷いのない言い方だった。
「理由は?」
「書いた人が、届けてほしいと思って書いた。それだけで十分だ」
「国境を越えなければならない。通達に反する」
「通達はある。しかしお前が飛ぶことを誰かが物理的に止められるわけではない」
「届けることで、政治的な問題になるかもしれない。差出人が危険になるかもしれない」
「それは前回も同じだった」
「前回より状況が悪い。もうすぐ戦争になるかもしれない」
「そうだ」
「それでも届けるべきだと思う?」
「私はそう思う。しかしお前が決めることだ。私の意見は意見だ」
ミリアは封筒を手に取った。
重かった。いつも手紙は重い。しかし今日の重さは違った。書いた人の気持ちが、今まで届けてきたどの手紙よりも、はっきりと伝わってくる重さだった。
「ロアンさん」
ロアンは向かいの椅子に座っていた。目を閉じていた。眠っているかと思ったが、目を開けた。
「聞こえていた」
「どう思いますか?」
「お前はどうしたい」
「届けたい」
「それが答えだ」
「でも怖い」
「怖くて当然だ」
「怖くても、届けたい」
ロアンは少し考えてから言った。
「届けろ」
「規則に反しても?」
「規則よりも重いものがある。それをお前は今日、手で感じた」
ミリアは封筒を持ったまま、ロアンを見た。
「ロアンさん、昔届けた手紙も、こんな感じでしたか」
ロアンはすぐには答えなかった。
「似ていた。あの時も怖かった。しかし届けた」
「戦争が終わった」
「終わった。しかし手紙一通で終わったわけではない。多くのことが重なって、終わった。手紙はその一つだったにすぎない」
「でも、その一つがなければ」
「それは分からない。ただ、届けなければ何も始まらなかったかもしれない、とは思う」
夕方、ミリアは明日の準備をした。
ポストに封筒を入れた。防寒の上着を確認した。証明書を内ポケットに入れた。
ロアンが夕飯を出した。麦と豆のスープだった。質素な夕飯だった。いつもと同じだった。
食べながら、ミリアは明日のことを考えた。
国境の検問を通れるかどうか分からない。止められるかもしれない。しかし止められても、飛ぼうと思っていた。別の経路を探してでも。
「ポスト」
「なんだ」
「前回、国境を越えた時、止められなかった。今回はどうだろう」
「状況が違う。今回は止められるかもしれない」
「その時は」
「別の経路を探す。山を越えれば検問を通らなくて済む場所がある。地図を見ろ」
「山越えは時間がかかる」
「かかる。それでも届けたいなら、そうするしかない」
ミリアは地図を広げた。
国境の検問所の位置を確認した。山脈の位置を確認した。検問を通らない経路を探した。
あった。
山脈の北端に、古い峠があった。地図には小さく記されていて、郵便路線としては使われていない峠だった。しかし越えられる高さではなかった。冬の終わりに向かう今の時期なら、気流は荒いが、越えられないことはない。
「ポスト、この峠は越えられる?」
「越えられる。しかし気流が読みにくい。慎重に行け」
「分かった」
ロアンがスープをすすりながら伝えた。
「その峠はわしも昔通った」
「厳しいですか?」
「厳しい。しかし飛べないことはない。山の気流は正面から入るな。斜めから入れ。それだけ覚えておけ」
「はい」
「往復で二泊になる」
「なります」
「気をつけていけ」
それだけだった。止めなかった。もっと考えろとも言わなかった。
ミリアはスープを飲み干した。質素だが、温かかった。
夜、眠る前に、ミリアは内ポケットから二通の手紙を取り出した。
エリスからの手紙。未来の自分からの手紙。
それと今日から加わった、王女からアルトへの手紙。
三通を並べた。
一通は届いた手紙。一通は届かないかもしれない警告。一通はこれから届ける手紙。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の手紙、また読んだ」
「何か気づいたか」
「届けてはいけない、と書いてある。大切な人が死ぬ、と書いてある」
「そうだ」
「この手紙のことかもしれない」
「かもしれない」
「届けることで、アルトさんが危険になるかもしれない」
「そうかもしれない」
「でも最後に書いてあった。それでも、届けてよかった、と」
「そうだ」
ミリアは三通の手紙を見た。
「未来の私は知っている。何が起きるかを。それでも届けてよかったと言っている」
「そうだな」
「だったら、今の私が迷う必要はないのかもしれない。結論は出ている」
「そうとも言える」
「でも」
「でも?」
「それでも迷う。結論を知っていても、迷う。それが今の私だ」
「それでいい。結論を知りながら迷うことができる。それは、お前が手紙を軽く扱っていない証拠だ」
ミリアは三通の手紙を丁寧に畳んだ。
エリスの手紙をポケットへ。未来の手紙をポケットへ。
王女からアルトへの手紙を、ポストの中へ。
「届けてきます」
「分かっている」
「また帰ってくる」
「帰ってこい」
明日の朝、飛ぶ。山を越えて、国境を越えて、隣国の王都まで届けに行く。
怖い、しかし届けなければならない。
その感情を、ミリアは今夜初めて、自分のものとして持った。
王女と同じ感情を。