役目を終えたはずの巫女でした 婚約編 短編集

婚約編① 触れてしまった理由――まだ慣れない距離

夕食の時間はとうに過ぎ、アルトはリナと寝室へ向かい、エリスと桜は簡単な家事をすませて、居間で少しだけ雑談をしていた。

アルトの家では使用人はすべて通いで、18時以降の家事は家の者たちで行われている。人数も多くはなく、信用できる者のみを最低限置く方針だった。

ふと視線を上げる。

――もうすぐ21時。クロトさん、まだ帰ってこない。

その様子に気づいたのか、エリスがやわらかく声をかけた。

「サクラさん、先にお風呂に入ってしまったら。まだ戻らないみたいですし」

桜は小さくうなずく。

「……そうですね」

今日は遅くなりそうだし――そう思って部屋へ戻ろうとした、そのときだった。

外から扉の開く音がする。

思わず足が止まる。

――帰ってきた。

気づけば、そのまま玄関へ向かっていた。

扉の前に出ると、ちょうどクロトが上着を脱いでいるところだった。

「……お帰りなさい」

声をかけると、クロトが顔を上げる。

「少し、遅くなりました」

そのまま自然な動作で距離を詰めてくると、当たり前のように桜の頬に手が触れた。

一瞬だけ指先の温度が伝わり、そのまま――額に、軽く口づけが落とされる。

「……っ」

肩が、わずかに跳ねる。

でも固まらない。前みたいに動けなくなることはない。ただ、顔が熱いだけで。

クロトが、ふっと小さく笑う。

「少し、慣れましたか」

わずかにいたずらっぽい目。

「……まだ、慣れません」

正直に答えると、余計に熱くなる。

それでも、ほんの一瞬迷って。

(……今日こそ)

小さく息を吸う。

「あの……少し、かがんでくれませんか」

クロトがわずかに首をかしげる。それでも何も言わず、ゆっくりと顔を寄せてくる。

距離が、一気に近づく。

(……近い、近い……)
(……クロトさん、顔が綺麗すぎる……)

心臓の音が、うるさい。

それでも、気持ちが折れてしまう前に。

桜はそっと、クロトの腕を引いた。

そして――

かがんだクロトの頬に、ほんの一瞬、唇を触れさせる。

触れただけ。それなのに。

(……無理、恥ずかしすぎる……)

一気に限界がくる。

もう顔を上げられないまま、視線を落として固まる。

そして、沈黙が落ちる。

ほんの数秒のはずなのに、やけに長く感じた。

「……サクラ」

低い声が、すぐ近くで落ちる。

ゆっくりと顔を上げる。

視線が合う。

逃げたくなるのを、ぐっとこらえて。

「……あの、慣れてなくて……その、なんか、」

それだけは、なんとか口に出来たが、それ以上の言葉が続かない。

クロトは、何も言わなかった。

ただ一歩、わずかに距離を詰める。

「……そういうことをされると、困るのですが」

低く、抑えた声。

わずかに余裕が崩れている。

「……え」

思わず顔を上げると、クロトがほんの少しだけ視線を逸らした。

そのまま静かに腕を差し出す。

「……続きは、また今度にしましょうか」

桜は、何が「続き」なのか分からないまま、それでもさっきよりもずっと熱くなった顔のまま、その腕に手を回した。

「忙しかったんですか」

歩きながら、なんとか声を出す。

「えぇ、まあ。書類仕事をためてしまっていたので」

少しだけ苦笑する気配。

「サクラは?」

「今日はいつもと変わらずです」

少しだけ間を置いてから、続ける。

「あの……明日は日曜日なので、クロトさんも明日のお休みは変わっていませんか」

問いかけると、クロトはわずかに視線を向けた。

「えぇ、予定通りです」

短く答える声が、どこかやわらかい。

そのまま、二人の間に自然な会話が続いていく。

歩きながら、桜はそっとクロトの腕をつかむ力を強くした。

離れないように。
このまま、少しでも長くいられるように。
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