婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 翌日になり、会社へ向かう凌也さんを見送って掃除に取り掛かった。

『帰って寝るだけだった自宅が、温かな居心地のいい場所になった。凪のおかげだな、ありがとう』

 結婚してすぐの頃に、凌也さんがそんなふうに言ってくれたから掃除にも熱が入る。

 水回りを綺麗にして、ふと顔を上げると鏡に映る自分の姿が目に入った。

 幼少期からの辛い日々を過ごしたせいか、私はあまり笑わなくなってしまったと親友の美琴は言う。
 それも仕方がないのだろう。私が喜んだり楽しんだりすれば、義母と義妹の怒りを買うのだから。
 子どもの頃はしょうがないから家においてやると言われて、いないものとして扱われていた。たまに声をかけられたと思えば、文句や不満をぶつけられるばかり。どんどん隅に追いやられていくのを感じていたし、私自身も部屋からあまり出なくなっていった。

 成長するにつれて、私の立場は穀潰しの居候へと変わっていく。

『うちに置いてあげるんだから、家事くらいしなさいよ』

 義母がそう言えば、玲奈も続く。

『でも料理はやめてよね。凪が作ったものなんて、怖くて食べられないわ』

 家を出たいとぼんやり考えることはあっても、行動に移す気力は残っていなかった。

 仕事も父に言われて実川メディカルに勤めていたが、家を出るなんて言えば職場を追い出されるかもしれない。
 そうなったとき、経験に乏しい自分に新しい仕事を見つけられるのか。そもそも住む場所をすぐ確保できるのか。

 不安ばかりが先行して、行動に移す前に無理だとすべてを諦めてしまっていた。

 あの頃は、いつ見ても暗い顔をしていたなと自分でも思う。

 凌也さんと出会って、少しは変われただろうか。

 ひとつにまとめていた髪を解く。
 夏の頃よりさらに伸びた黒髪を、ひと房手に取ってみた。
 傷みはなく、サラリとした障り心地は自分でも気に入っている。

 ふと思い立って、短くなるように持ちあげてみたり簡単なアレンジをしたり、鏡の前で試してみた。ちょっとしたことで印象が変わり、心が弾む。

「切っちゃおうかな」

 私がオシャレをすると烈火のごとく怒る義母も義妹も、ここにはいない。

 ひたすら清楚さを求められることもない。もちろん凌也さんの評判を下げるような真似はしないが、少し手を入れるくらいはかまわない気がする。

 髪型を変えたら、凌也さんはなんて言うだろうか。
 いつも自然に私を褒めてくれる彼のことだ。本気とも冗談とも判断がつかないほどのお世辞を言うのは、間違いないだろう。

 おそらく、常識の範囲内のオシャレなら非難はされないはず。

「髪形を、変えてみたい」

 そう思い立ち、すぐに美容室へ予約を入れた。
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