婚約者に「いらない」と言われた私が、愛され妻を演じることになりました
 午後になり、出かける準備をする。
 当日予約を入れられたのは運がよかった。時間が経てば再び迷い、断念していたかもしれない。
 いつも行くスーパーの道中にある、オシャレな外観が気になっていた美容室へ向かう。

 対応してくれたのは、同年代の女性スタッフだった。

「イメージを変えたくて。でも派手な感じじゃなくて、こう……」

 どんなふうにしてほしいのか上手く伝えられないでいたが、そこは上手く聞き出しながら汲み取ってくれる。
 もう少し明るい雰囲気にしたい。そう話すと、髪色をチョコレートブラウンにしてはどうかと勧められて、お願いすることにした。

 鏡越しに、ドキドキしながらカットされていく様子を見つめる。
 どうなるのだろうかというわずかな不安はあったが、それよりも期待の方が大きい。なんだかいけないことをしているような、それでいてワクワクする。

「こんな感じでどうでしょうか」

 二時間ほどかけて仕上がった髪を、前のめりになって見つめる。

「素敵……」

 黒髪も嫌いではなかったけれど、少し色を入れただけでずいぶんと軽やかになる。でも決して派手すぎることはなくて、仕事関係の場でも大丈夫そうだ。

 胸もとまであった髪は、カットとアレンジによって肩に触れる長さになっている。中ほどから毛先までふんわりと巻かれた髪が、首を動かすと軽やかに揺れた。

「このままでも素敵ですが、ルーズなまとめ髪とかハーフアップにしても可愛いですよ」

「わあ」

 説明しながら、軽く実践してみせてくれる。ほんの少し手を加えるだけでまた違った感じになり、思わず感嘆の声が漏れた。
 想像した以上の素敵な仕上がりに、心が浮かれる。

 凌也さんはどんな反応をするだろうか。早く見せたいとはやる気持ちと、前の方がよかったと言われるかもという少しの不安にまったく落ち着かない。

 帰宅してからも何度も鏡を覗き込み、教えてもらったいろいろなアレンジを試していた。

「ただいま」

 二十時を少し過ぎた頃、凌也さんが仕事をえて帰宅した。

「お、おかえりなさい」

 深呼吸をしてから玄関へ向かう。

 靴を脱いで振り返った彼が、わずかに目を見開いた。

 凌也さんの方を見られなくて、髪に触れながらそわそわと視線を周囲に巡らせる。
 それから急激に不安が込み上げてきて、目線が下へと下がっていく。

 イメージチェンジなんてやめておけばよかったと、後悔しかけたそのとき。全身を包み込む温もりに、ビクッと体が跳ねた。

「いいじゃないか」

 抱きしめられているとようやく気づき、頭の中が真っ白になる。

「黒髪も綺麗だったが、こういう感じもよく似合っている」

 否定的な反応は微塵もないようだと安心したけれど、この状況についていけない。
 さらに至近距離から顔を覗き込まれて、じわじわと頬が熱くなってくる。

「可愛いよ、凪」

 本当に?と、心の中で問い返す。
 過剰に褒めてくれるのは、私が自信を持てるようにするため。この抱擁は勢いでしたもので、深い意味はないはず。

 羞恥心に襲われて、もう限界だと顔をうつむかせる。
 頭上からくすりと小さな笑い声が漏れ聞こえ、同時に優しく髪をなでられていた。

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