キスしない約束の恋
第3話 名前のない私
「まず、名前」
鏡の前に座らされて。
逃げ場のないまま、後ろから声が落ちてくる。
「あなた、名前は?」
「……」
答えない。
答えたくない。
まだ、何も信用していない。
ここにいることすら、間違いだと思っているのに。
「聞いてる?」
「……すみません」
「謝らなくていいから、名前」
「……」
沈黙。
そのまま、視線を落とす。
すると。
「は?」
後ろで、姉がため息をついた。
「なに、名前も言えないの?」
「……言いたくないです」
小さく、でもはっきりと答える。
空気が、ぴりっと張る。
でも。
「……へぇ」
意外にも、楽しそうな声だった。
「いいじゃん」
「え?」
「そういうの、嫌いじゃない」
くすっと笑って。
「じゃあいいよ、別に」
あっさり引いた。
拍子抜けするくらい、簡単に。
「でもさ」
鏡越しに、視線が合う。
「名前ないと不便なんだよね」
「……」
「ねえ、あんた」
今度は、スマホをいじる彼の方へ顔を向ける。
「この子、名前なんていうの?」
「知らねぇ」
「は?」
空気が一瞬止まる。
「……は?」
もう一回。
今度は低く。
「知らないってなに?」
「昨日会ったばっかだし」
「聞いてないの?」
「聞いてねぇ」
あっさりと言い切る。
「てか、名前とかどうでもよくね?」
「よくない」
即答だった。
姉が額を押さえる。
「ほんとあんたって……」
深いため息。
「それでよく女と関われるわね」
「向こうが勝手に来るだけ」
「最低」
「知ってる」
でもどこか、楽しそうに笑っている。
そのやり取りを、私はただ見ていることしかできない。
「……ほんと使えない弟」
ぼそっと呟いたあと。
姉は、もう一度こちらを見た。
「じゃあいい」
にやっと笑う。
「名前ないなら、つける」
「……え?」
「今日からあんた」
少し考えるように目を細めて。
「“シロ”ね」
「……シロ?」
「うん」
私の髪に触れる。
さら、と前髪が揺れる。
「隠してるけど、ベースは綺麗で、余計な色がついてない」
「……」
「白紙みたいな顔してるから」
白。
シロ。
その言葉が、胸に引っかかる。
「気に入った?」
「……別に」
「よし決まり」
勝手に進んでいく。
ついていけない。
「で、自己紹介くらいしとく?」
くるっと振り返って。
「私は――」
軽く髪をかきあげて。
「一ノ瀬 美玲(いちのせ みれい)」
堂々と名乗る。
似合ってる、と思った。
その名前も、その雰囲気も。
「で、こいつ」
親指で弟を指す。
「ちゃんと自分で言いな」
「めんど」
「いいから」
少しだけ睨まれて。
彼は、仕方なさそうに口を開く。
「……神崎 蓮(かんざき れん)」
ぶっきらぼうに。
でも、どこか自然に。
「よろしく、シロ」
名前で呼ばれる。
私の、本当の名前じゃないのに。
なのに。
なぜか、少しだけ。
距離が近くなった気がした。
「じゃ、始めよっか」
ぱん、と手を鳴らす音。
空気が変わる。
「シロ」
名前を呼ばれる。
「覚悟して」
鏡の中の自分が、揺れる。
「ここから、あんた変わるから」
――その言葉は。
まだ、怖いはずなのに。
少しだけ。
逃げたい気持ちが、弱くなっていた。
鏡の前に座らされて。
逃げ場のないまま、後ろから声が落ちてくる。
「あなた、名前は?」
「……」
答えない。
答えたくない。
まだ、何も信用していない。
ここにいることすら、間違いだと思っているのに。
「聞いてる?」
「……すみません」
「謝らなくていいから、名前」
「……」
沈黙。
そのまま、視線を落とす。
すると。
「は?」
後ろで、姉がため息をついた。
「なに、名前も言えないの?」
「……言いたくないです」
小さく、でもはっきりと答える。
空気が、ぴりっと張る。
でも。
「……へぇ」
意外にも、楽しそうな声だった。
「いいじゃん」
「え?」
「そういうの、嫌いじゃない」
くすっと笑って。
「じゃあいいよ、別に」
あっさり引いた。
拍子抜けするくらい、簡単に。
「でもさ」
鏡越しに、視線が合う。
「名前ないと不便なんだよね」
「……」
「ねえ、あんた」
今度は、スマホをいじる彼の方へ顔を向ける。
「この子、名前なんていうの?」
「知らねぇ」
「は?」
空気が一瞬止まる。
「……は?」
もう一回。
今度は低く。
「知らないってなに?」
「昨日会ったばっかだし」
「聞いてないの?」
「聞いてねぇ」
あっさりと言い切る。
「てか、名前とかどうでもよくね?」
「よくない」
即答だった。
姉が額を押さえる。
「ほんとあんたって……」
深いため息。
「それでよく女と関われるわね」
「向こうが勝手に来るだけ」
「最低」
「知ってる」
でもどこか、楽しそうに笑っている。
そのやり取りを、私はただ見ていることしかできない。
「……ほんと使えない弟」
ぼそっと呟いたあと。
姉は、もう一度こちらを見た。
「じゃあいい」
にやっと笑う。
「名前ないなら、つける」
「……え?」
「今日からあんた」
少し考えるように目を細めて。
「“シロ”ね」
「……シロ?」
「うん」
私の髪に触れる。
さら、と前髪が揺れる。
「隠してるけど、ベースは綺麗で、余計な色がついてない」
「……」
「白紙みたいな顔してるから」
白。
シロ。
その言葉が、胸に引っかかる。
「気に入った?」
「……別に」
「よし決まり」
勝手に進んでいく。
ついていけない。
「で、自己紹介くらいしとく?」
くるっと振り返って。
「私は――」
軽く髪をかきあげて。
「一ノ瀬 美玲(いちのせ みれい)」
堂々と名乗る。
似合ってる、と思った。
その名前も、その雰囲気も。
「で、こいつ」
親指で弟を指す。
「ちゃんと自分で言いな」
「めんど」
「いいから」
少しだけ睨まれて。
彼は、仕方なさそうに口を開く。
「……神崎 蓮(かんざき れん)」
ぶっきらぼうに。
でも、どこか自然に。
「よろしく、シロ」
名前で呼ばれる。
私の、本当の名前じゃないのに。
なのに。
なぜか、少しだけ。
距離が近くなった気がした。
「じゃ、始めよっか」
ぱん、と手を鳴らす音。
空気が変わる。
「シロ」
名前を呼ばれる。
「覚悟して」
鏡の中の自分が、揺れる。
「ここから、あんた変わるから」
――その言葉は。
まだ、怖いはずなのに。
少しだけ。
逃げたい気持ちが、弱くなっていた。