温厚柔和な若旦那さまは、愛のためなら喧嘩上等!

助けてくれた人


(あかね)――藤ヶ森(ふじがもり)家へ女中に行きなさい」

 病み衰えた母に告げられ、茜の心臓はとまりかけた。
 こらえるために膝の上で手を握る。こぶしの下で着物にクシャリと皺が寄った。


 明治の御代になって四十年あまり。
 文明開化。鹿鳴館。鉄道に電気。世間は目まぐるしく変わる。
 ――だが東京市の片隅にある茜の家は、昔の空気のままに取り残されていた。


 母が寝付いているのはひっそりした和室だ。
 茜たち母娘の他は、下男下女を一人ずつ置くだけの妾宅(しょうたく)。財界人である茅原(かやはら)善之介(ぜんのすけ)がかまえてくれた、ささやかな家は静まりかえっている。

 開いた障子の先は広縁で、その向こうに小さいが手入れされた庭があった。
 黒板塀(くろいたべい)が外からの目をさえぎる。松の木と石燈籠がたたずむ静謐な空間で、苔むす岩に色づいた紅葉がハラリと散りかかった。

 肺を病んだ母の、湿った咳が静寂(しじま)を破った。茜は膝を進め、背をさする。
 こんな体の母を見捨て、どこぞに奉公するだなんて。考えると手指の先がスウと冷えた。

「行きたくない。私、母さんのそばにいたいの」
「旦那さまの命令よ。逆らうことは許しません」
「でも」
「女中といっても下女ではないから。行儀見習いだそうでね。商家の娘だとよくあることだわ。花嫁修業のようなものよ」
「花嫁……」

 そう言われて茜にもわかった。
 銀行家の父は、妾に産ませた娘の使い道を探しているのだ。政財界の有力者と縁を結ぶための駒、それが茜。

「藤ヶ森さまといえば……たしか呉服商の」
「そう。あれほどの家ならば、羽振りのいい実業家が出入りするはず。見初められれば苦労せずに暮らせるわ」

 母は茜を見つめて目を細めた。
 日陰の身に生まれついた茜。父の姓を名乗ることも許されず、芸者上がりの囲われ女の私生児〈笹野(ささの) 茜〉として生きてきた。
 だがそれを、終わらせることができるなら。
 間もなく消える母の命など気にせず、世間へ出て行ってほしいと願うのが親心だ。

「今からあなたは〈茅原 茜〉――旦那さまの娘として生きなさい」
「茅原――でも母さん、私は母さんの」
「いいの。茜は茜――どんな名を背負うとしても、みずからの心に従うのですよ」

 すっかり細った母なのに、茜を見る目は強い。
 そのまなざしに満ちるのは――娘の幸せへの祈りだった。



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