温厚柔和な若旦那さまは、愛のためなら喧嘩上等!
❖ ❖ ❖
父の言いつけのまま、茜は藤ヶ森家へ行くことになった。
出立の日、母はなんとか床から起き出し玄関で茜を見送ってくれる。久しぶりに戸口に立つ母がひと回り小さくなったように思え、茜は涙をこらえた。
「――幸せになりなさい、茜」
噛みしめるように母が言う。
「――はい。今まで育ててくれてありがとう、母さん」
万感の想いをこめて、茜は応えた。
もしかしたらこれは今生の別れになるかもしれない。母はもう長くないだろう。まぶたの裏に互いの姿を焼きつけて、茜は育った家を出た。
――振り返ることはしない。そんな未練がましいこと、母に叱られると思った。
母はいつだって、今いる所で潔く生きろと教えてくれたから。
❖
茜はトボトボと歩いていた。
父は人力車を呼べと金をくれた。でも茜は渡されたその金で、母の滋養になる食べ物を買って家に置いてきた。どうしても母のために何か残したかったのだ。だから歩くしかない。
大川に掛かる橋を渡って市中のにぎやかな方へ。水天宮のあたりを過ぎて職人町のしばらく先に、藤ヶ森の屋敷はあるはずだ。
真っ直ぐ屋敷へ向かうと、途中やや荒っぽい盛り場を横切ることになる。回り道してもいいが、朝早いこともあり茜は近道を選んだ。こんな時間なら大丈夫だろう。
――と考えたのだが。
「おう、かあいらしい娘じゃねえか。ちょっと付き合えよ」
あっという間に、茜は酔った男にからまれた。どうしてだ。
男は一人だった。酒の入った瓶を紐でくくり、帯にぶら下げている。酒を買って帰るところなのだろう。すでにベロベロに酔っているようだが。
袖をつかまれて動けない茜は、必死で風呂敷包みを死守した。ただの着替えだが、藤ヶ森家への紹介状も入っている。無くすわけにはいかないのだ。
「あの。私、急いでいて」
「いいじゃねえかよぅ、俺の酒が呑めねえってのかっ!」
呑めない。そんなもの呑まない。
通りすがりの娘を捕まえて酌をさせようというのか。いったいどういう了見だ。
何故朝から酒を、と茜は大混乱しているが、これはつまり夜から呑み続けているだけ。ここいらが本当に寝静まるのは昼ごろで、むしろ朝は深酒した連中がくだを巻く面倒くさい時間帯なのだった。
「放してください。私これから仕事に行くんです」
「あんだぁー? 仕事なんざ、うっちゃっておけ! 俺が許す!」
「きゃあっ!」
がばりと羽交い締めにされ、茜は悲鳴をあげた。
「いや! やめてください!」
怖い。このまま手ごめにでもされたら、と思って血の気が引いた。振りほどきたいのに、力では全然かなわない。
「おい、やめな。嫌がってるじゃねえか」
キリリと割り込む落ち着いた声がして、茜はもがくのをやめた。
父の言いつけのまま、茜は藤ヶ森家へ行くことになった。
出立の日、母はなんとか床から起き出し玄関で茜を見送ってくれる。久しぶりに戸口に立つ母がひと回り小さくなったように思え、茜は涙をこらえた。
「――幸せになりなさい、茜」
噛みしめるように母が言う。
「――はい。今まで育ててくれてありがとう、母さん」
万感の想いをこめて、茜は応えた。
もしかしたらこれは今生の別れになるかもしれない。母はもう長くないだろう。まぶたの裏に互いの姿を焼きつけて、茜は育った家を出た。
――振り返ることはしない。そんな未練がましいこと、母に叱られると思った。
母はいつだって、今いる所で潔く生きろと教えてくれたから。
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茜はトボトボと歩いていた。
父は人力車を呼べと金をくれた。でも茜は渡されたその金で、母の滋養になる食べ物を買って家に置いてきた。どうしても母のために何か残したかったのだ。だから歩くしかない。
大川に掛かる橋を渡って市中のにぎやかな方へ。水天宮のあたりを過ぎて職人町のしばらく先に、藤ヶ森の屋敷はあるはずだ。
真っ直ぐ屋敷へ向かうと、途中やや荒っぽい盛り場を横切ることになる。回り道してもいいが、朝早いこともあり茜は近道を選んだ。こんな時間なら大丈夫だろう。
――と考えたのだが。
「おう、かあいらしい娘じゃねえか。ちょっと付き合えよ」
あっという間に、茜は酔った男にからまれた。どうしてだ。
男は一人だった。酒の入った瓶を紐でくくり、帯にぶら下げている。酒を買って帰るところなのだろう。すでにベロベロに酔っているようだが。
袖をつかまれて動けない茜は、必死で風呂敷包みを死守した。ただの着替えだが、藤ヶ森家への紹介状も入っている。無くすわけにはいかないのだ。
「あの。私、急いでいて」
「いいじゃねえかよぅ、俺の酒が呑めねえってのかっ!」
呑めない。そんなもの呑まない。
通りすがりの娘を捕まえて酌をさせようというのか。いったいどういう了見だ。
何故朝から酒を、と茜は大混乱しているが、これはつまり夜から呑み続けているだけ。ここいらが本当に寝静まるのは昼ごろで、むしろ朝は深酒した連中がくだを巻く面倒くさい時間帯なのだった。
「放してください。私これから仕事に行くんです」
「あんだぁー? 仕事なんざ、うっちゃっておけ! 俺が許す!」
「きゃあっ!」
がばりと羽交い締めにされ、茜は悲鳴をあげた。
「いや! やめてください!」
怖い。このまま手ごめにでもされたら、と思って血の気が引いた。振りほどきたいのに、力では全然かなわない。
「おい、やめな。嫌がってるじゃねえか」
キリリと割り込む落ち着いた声がして、茜はもがくのをやめた。