金紅石の初恋
 ──私、ルチルアンナ・ローエンシュタインが一夜にして家族を失ったのは、冷たい雨が降る冬の日の事だった。

 両親は夜会からの帰り道、馬車の事故に遭って亡くなったらしい。
 らしい、というのは、事故の報せを受けてからしばらくの事は、頭に靄がかかったようにぼんやりしていて、詳細をあまり覚えていないからだ。
 両親の葬儀を執り行った事は何となく覚えているのだけれど、まるで絵画でも見ているみたいに現実感がなくて、何もかもが遠く感じた。
 葬儀に前後して顔を見た事もなかった親類達が押し寄せてきて、ローエンシュタイン家の相続権を巡って争っている間も、私はずっとぼんやりしていたのだろう。
 気が付いた時にはローエンシュタイン家は屋敷も財産も何もかもが親類の手に渡り、私はほとんど身一つで修道院に放り込まれる事になっていた。

 喪服のまま、何とか持ち出しを許されたトランク一つ分の荷物と共に玄関ホールで途方に暮れる。
 ずしりと重いトランクを持ち、修道院へ向かう馬車を待つために玄関ポーチを出た私だったが、ちょうどその時、車止めに別の馬車が入ってきたのが見えた。

(あの馬車、ユヴェーレン伯爵家の……)

 馬車の紋章には見覚えがあった。
 両親の友人であったユヴェーレン伯爵家のものだ。
 停車した馬車からは喪服に身を包んだユヴェーレン伯爵夫妻が慌てた様子で降りて来て、玄関でぼうっとしていた私を見るなり、夫人がドレスの裾をからげる勢いでこちらに向かって走り出した。

「あぁ、ルチア……!」
「おば様」

 強い力で抱き締められて、私はふと「温かいな」と思った。
 両親の悲しい報せを受けてからというもの、なんだかずっと寒かったのだ。
 身体の真ん中に大きな穴でも開いて、そこから全ての熱が溢れているかのように。
 ユヴェーレン伯爵夫人に抱き締められている内に、私は何だかどんどん気が遠くなっていって、次第に目の前が暗くなっていく。
 ユヴェーレン伯爵夫人が私の名前を呼んだ気がしたのを最後に、私の意識はとぷりと闇の中に沈んでしまったのだった。
 それが、私の生まれた屋敷での最後の記憶である。



 ──何か、聞こえる。
 ひそひそと何かを話す声が聞こえて、それをきっかけにゆるゆると意識が浮上していく。子供の声だ。
 ゆっくりと目を開くとまずぼんやりと天蓋が見えた。精緻な彫刻を施され、天井部には天使の絵が描かれている。
 ちらと視線を動かしただけでも洗練された調度品が揃っているのがわかる部屋だ。まさか修道院という訳ではないだろう。
 そんな事を思いながらふと枕元に視線を移した私は、そっくりな顔をした二人の子供がこちらを見ているのに気付いて思わず硬直してしまった。
 金色の髪に深い青色の瞳。まるで天使みたいに可愛らしい子供たち。

「起きたわラズ」
「そうだねラピス」
「お母様を呼んできてよ」
「ラピスが行ってきてよ」

 驚く私を気に留めず二人はそんな会話を続けていた。
 二人ともよく似た顔付きをしていて、着ているものも揃いのデザインだった。
 そうだ。確かユヴェーレン伯爵夫人がうちの屋敷にいらしていた。
 だったら、もしかして此処はユヴェーレン伯爵邸なのかしら。
 この二人はユヴェーレン家の子供?
 会った事はないが、確か双子だと聞いている。
 だとしてもどうしてこの子達は此処にいるのだろうか。
 そして、どうして私は此処にいるのだろうか。

「あの……」

 戸惑いながらも声を掛けると、二人はピャッと驚いた顔をして、全く同じ動作でベッドから一歩離れた。
 ちょうどその時だ。

「ラピスラズリ、ラズライト。二人ともこの部屋で何をしているのです」

 部屋のドアが開いて、ユヴェーレン伯爵夫人が入って来た。
 双子は気まずそうに俯いて、あの、その、ともじもじしていたが、夫人が子供部屋に戻るように命じると二人は渋々ながらも大人しくそれに従った。

「またね、お姫さま」
「おやすみ、お姫さま」

 こちらを振り向いて笑う二人の子供は、私に小さく手を振って部屋から出ていく。
 パタパタと遠ざかる足音を聞きながら、夫人が全くもうと溜め息を吐いてから苦笑した。

「ごめんなさいね。どうにも悪戯っ子達で……。この部屋には入らないようきつく言っておきますから」
「構いません。……あの、私、どうして」

 どうして此処にいるのか。
 改めてそれを尋ねると、夫人は困ったように笑って言った。

「あのままでは面倒な事になりそうだったのだもの。断りもなしに連れて来てごめんなさい」

 そこからユヴェーレン伯爵夫人は私が高熱を出して三日も眠り続けていた事、ローエンシュタイン伯爵家に申し入れてユヴェーレン伯爵家で私を預かるようにした事、そして私では持ち出す事が叶わなかった幾つかの品を屋敷から持って来た事などを教え、その目録も渡してくれた。

 次の日の夜、いくらか体調の回復した私はユヴェーレン伯爵夫妻と長い時間をかけて今後の身の振り方について話し合い、最終的にユヴェーレン伯爵家の双子・ラピスラズリとラズライトの話し相手兼世話役として屋敷においてもらうことに決定した。

 ユヴェーレン伯爵夫妻は私を養子に迎えたいと申し出て下さったのだが、私はもうデビュタントを迎えた成人貴族であるし、もしかしたら早々に嫁ぐようなこともあるかもしれないからと言ってそれを断った。
 本当は結婚だなんてまだ考えたこともなかったのだけれど、夫妻に迷惑をかけたくなかったし、この時ばかりはローエンシュタイン家のしきたりだとかで同年代の子達の間ではうんと早くデビュタントを迎えていて良かったと心の底から思ったのだった。



「ねぇ、ルチア。今日はこの本を読んでよ」
「待ってラズライト、今日は私の番よ」
「二人とも喧嘩しないのよ。両方読むから、ね?」

 幸い、双子は私によく懐いてくれた。
 明るくてほんの少しお転婆な少女ラピスラズリと賢くて礼儀正しい少年ラズライト。
 勉強として本を読んだり、散歩をしたり、私達は一日のほとんどを共に過ごした。
 もちろん反抗的な態度を取られるより懐いてくれる方が良いに決まっている。
 けれど、私がユヴェーレン伯爵邸に来てからしばらく経つと、時々おや?と思う事が増えてきた。
 それは双子の弟の方、ラズライトについてだ。

 元々ピアノとバイオリンが得意な私は、折を見て双子の姉の方であるラピスラズリの家庭教師も担当することになっていた。
 令嬢に家庭教師をつける事は珍しくはない。
 楽器演奏に多少の外国語。茶器の扱いやダンスまで、社交活動に必要な教養を身に付ける必要があるからだ。
 亡くなった両親は女である私にも家庭教師をつけて十分な教育を与えてくれたので、私の身につけた知識や教養というものはユヴェーレン伯爵夫妻の求めるレベルに達していたらしい。
 令嬢にガヴァネスという女性家庭教師がつくように、貴族家の男子にも男性の家庭教師がつく。
 チューターと呼ばれる彼らは、ゆくゆくは有名な寄宿学校に入るラズライトのために授業を行うのだ。ユヴェーレン伯爵家では、科目ごとに異なる教師を呼ぶほど教育に熱心だった。
 その時ばかりは双子は別の部屋で勉強をするのだけれど、授業を終えたラズライトは当然のような顔をしてラピスラズリの授業、つまり私の行う授業に合流する。
 ラピスラズリは授業の前に刺繍と会話の練習をするので、ちょうど時間が合うらしい。

「ラズライト、あのね、今日は紅茶の淹れ方を教えるのよ」

 男の子には必要ないでしょうと言外に伝えても、ラズライトは興味があるからとにっこり笑って結局そのまま授業を受けるのだ。
 ピアノも、バイオリンも、なんなら歌の練習まで、ラズライトは何にでもラピスラズリに付き合って授業を受け、そして全てを習得した。
 ──でも、一体何のために?
 何度かユヴェーレン伯爵夫人にそのことを伝えてみたが、夫人は笑って「好きにさせておいてちょうだい」と言うのみだった。
 正直、私は家庭教師として経験もないし質の良い授業が出来ているかはわからない。
 悪くはないと思うけれど、いつか伯爵になるラズライトが聞いて面白いような授業でもないはずだ。
 それだけ双子のラピスラズリを気にかけているということかもしれないが、何となくそれだけでもない気がする。

「ラズライト、私の授業がそんなに気になる?」

 思いきって本人に尋ねてみると、ラズライトはやっぱりにっこり笑って「そうだよ」とだけ答えたのである。
 そんな双子の弟にラピスラズリは呆れた顔で溜め息を吐く。
 いつしかそんな風景はユヴェーレン伯爵家の日常になっていた。



 更に数年が経ち、ラズライトは貴族の子息が通う寄宿学校に入ることが決まった。
 伯爵家の屋敷を出発する前の晩のこと。
 ラズライトの好物が並んだ晩餐を終え、学校までの退屈しのぎにと選別代わりの本を渡しに行くとやけに真剣な顔をしたラズライトが少し話せないかと言った。
 初めて領地を離れ、これからは寄宿学校で生活することになるのだから、少しナイーブになっているのかもしれない。
 愚痴でも心配事でも、口にするだけで心が軽くなるということもある。
 私は二つ返事で頷いて二人で夜の中庭に出た。

「ルチア。僕、長期休みになったら必ず帰ってくるから」
「えぇ、お屋敷で待っているわね」

 最初に出会った頃よりも背の伸びたラズライトだが、こうして並んで歩くとまだ私の方が背が高い。
 彼の伏せた長い金色の睫毛を眺めていると、ラズライトが少しだけ眉尻を下げて私を見上げた。

「だからね、お願いがあるんだけど」
「なぁに?」

 おねだりをする時のラズライトの表情に弱い私は、小さく笑って続く言葉を待った。
 最後に本を読んでほしいと言うのかしら。それともたくさん手紙がほしいだとか?
 けれど私の予想はどれもかすりもしなかった。

「ルチルアンナ。僕と結婚して」
「……え? んん? えぇと、今なんて」
「僕と結婚して」

 私の手を取ってぎゅうと握るラズライトはものすごく真剣な顔をしていた。
 心の底から驚いた私は思わず叫んだ。

「誰があなたにそんな言葉を教えたの? 私は教えていないでしょう」

 寄宿学校に入学する歳なんてまだまだ子供だ。
 貴族の結婚は義務のようなものだけれど、それにしたって今のラズライトの年齢では婚約だって早過ぎる。
 背伸びをしたい年頃というやつかしら。
 私は努めて冷静さを保ち(実際保てていたかはわからないが)ラズライトに言った。

「いい? 子供のラズライトに結婚は早いわ。婚約だってまだ早いもの。それに私はあなたより五つも歳上なの」
「ルチアが歳上なことなんてとっくに知ってるよ。でもルチアと結婚したいんだ」
「ラズ、あなたはまだ世の中というものを知らないからそう思っているだけよ。寄宿学校に入って、同年代の子たちと過ごすようになればすぐにわかるわ。世の中にはあなたと同じ年頃で、もっと良い条件のご令嬢がたくさんいるんですもの」

 私がそういうとラズライトは拗ねたように口を閉じた。
 頭の良い子だからここまで言えば理解してくれるだろう。
 宥めるように頭を撫でてやればこうして大人しく撫でられてくれる辺り、まだまだ子供である。
 撫でられながらぶすっとした顔でラズライトが口を開いた。

「ルチアが今の僕と結婚してくれないことはわかった。じゃあ結婚する代わりにお願い聞いて」
「何かしら」
「僕が手紙を出したら絶対に返事を書いて。何かあったら、ううん、何もなくても絶対に報告して」
「まぁ。そんなの当然よ。約束するわ」

 突然ませたことを言うものだから驚いたけれど、やっぱり可愛い子供である。
 そうしてようやく納得したラズライトを部屋に送り、自室に戻った私ははたと目を瞬かせた。

(さっきのラズライトの言葉……。なんだか引っ掛かるけど、一体どこが引っ掛かるのかしら)

 考えてみてもわからなくてモヤモヤした気持ちのまま眠りにつく。
 きっと私も少し寂しくなっていて、それでこんな気持ちになるんだわ。
 そう一応の結論を出した私は、翌日、伯爵家の皆と一緒にラズライトを見送ったのだった。

 寄宿学校に入学したラズライトは非常に優秀な生徒だった。
 勉学もスポーツも他の貴族子息より頭一つ飛び抜けていた彼は、学内でもめきめきと頭角を現していった。
 それでも私たちにとっては可愛いラズライトである。
 頻繁に送られてくる手紙には必ず私宛の手紙が同封されていて、私は約束通り必ず返事を書いた。

 ──学内考査で一番を取ったよ。
 ──友人と一緒に馬術競技のクラブに入ったんだ。馬に乗れたらかっこいいだろ?
 ──授業で使った古典、前にルチアが読んでくれて暗記したやつだったから授業が退屈だった。

 そんな事が綴られた手紙が様子を変えたのは、初夏を過ぎた頃だった。
 寄宿学校には年に一度、招待された家族が学校を見学出来るイベントがある。
 昼にはスポーツ大会があり、夜にはダンスパーティーが開催されるという。
 寄宿学校に通うのは貴族子息なのだから、その日は他家の子息とお近付きになりたい貴族令嬢たちがそれはもう気合いを入れて参加する。
 同じ学校を卒業されているユヴェーレン伯爵が懐かしそうに語るのを聞いていたから私もイベントの概要は知っていた。
 私にも招待が来たが、そもそも私はただの居候の身であり家族ではない。
 それを理由に一人で屋敷に残ったら、途端にラズライトからの手紙の様子が変わったのである。

 どうして来てくれなかったのかと問いただす内容の手紙が数回続き、来年は来てくれと懇願する内容へと変わった。
 それに私は行けないとだけ返事をして、あとはいつも通り近況を綴って返した。

 そんな手紙のやりとりを続けてあっという間に一年が過ぎ、長期休暇で屋敷に戻ってきたラズライトは上着も脱がずに私を中庭に連れ出すと、開口一番叫んだ。

「ルチア! 僕と結婚して!」

 約一年ぶりの求婚である。
 そういえば、前に断った時に「今の僕と」なんて言っていなかったか。
 あれは一年経ったら求婚を受け入れるという訳ではないのだけど、と私は困惑した。
 一年前に比べるとラズライトは背が伸びて、以前は見下ろしていた彼の顔が同じ視線の高さにあった。

「ラズライト。私が言ったこと忘れてしまったの」
「まだ早いって言うの? ねぇ、どうしたらいいよって言ってくれる?」
「もう、困った子」

 目線は同じはずなのに上目遣いでラズライトが言うので、この顔に弱い私はほとほと困り果ててしまって思わず溜め息を吐いた。
 ラズライトはなんだか前回よりも鬼気迫る様子だが、私も年長者として示すべき態度がある。
 彼はユヴェーレン伯爵家の跡取りなのだ。
 私だっていつかはどこかに嫁ぐし、ラズライトもまた家のために然るべき相手と結婚する。それが世の中の道理というものだ。
 そう説明するとラズライトはこの世の終わりのような顔をして呟いた。

「でも。……でも、僕、ルチアのことしか好きじゃないよ」
「だからそれは今だけのことよ」
「じゃあ、僕が学校を卒業するまでルチアの事を好きだったら、そしたら僕と結婚して」

 私は少しだけ考えた。
 子供の気持ちなんてすぐ変わる。交友関係が広がり、世の中を知った子供は特に。
 だったら今この場で彼の気の済むようにさせてやった方が良いのではないだろうか。
 どうせあと二、三年もしたら彼は良いとこのお嬢さんと出会って婚約するのだし、今だけの口約束である。
 うん、と小さく一度頷いて、ラズライトに視線を合わせる。

「わかったわ。でも私だって結婚がかかっているのだから他にも条件をつけさせてもらうわね」
「何? 何でも言って。何だってこなしてみせるから」

 真剣な顔のラズライトの鼻先を人差し指でちょんとつついて私は言った。

「寄宿学校の卒業式まであなたの気が変わらず、かつ学校を主席で卒業する事が出来ればあなたと結婚しても良いわ」

 彼が卒業する頃、私はとうに行き遅れの年齢だ。
 その頃になったらラズライトは書面での約束ではなく口約束にしたことを私にきっと感謝するに違いない。
 だって書面で約束を交わせばそれは正式な契約になってしまう。それはよろしくない。
 そう考えて微笑む私にラズライトは絶対だよと念を押した。

「約束だよ、ルチルアンナ」
「えぇ、約束よ。ラズライト」

 ──そして私がこの時の判断が間違っていた事に気付いたのは、更に一年を経た頃の事である。
 なんとラズライトは次の長期休暇の時にも、帰ってくるなり私に求婚したのだ。

「卒業まで気が変わらなければって話だからね。ちゃんと僕の気持ちが変わってない事を君に伝えておかないと」

 そう言っていつの間にか私より背の高くなったラズライトはにっこりと笑った。
 金の睫毛も青色の瞳も変わっていないし、面影だって幼いあの頃のまま。
 けれど丸くて赤みを帯びた可愛い頬はいつの間にかすっきりとして、身体だって筋肉がついてきた。
 可愛い天使がいつの間にか王子様になってしまった。
 私は心底困惑した。
 男の子って数年でこんなに変わるものなの。
 私の困惑など知らないラズライトは、次の年には求婚と共に翻訳の手伝いをして得たお金を貯めて買ったという髪飾りを私に贈り、更に次の年には求婚の際に初めて私の手の甲にキスをした。手の甲とはいえラズライトが私にキスをしたのはこの時が初めてだった。
 外見の変化は著しいのに、ラズライトは変わらず長期休暇で屋敷に戻る度に私に求婚し、毎年ファミリーデーに参加しない私に拗ねた文面の手紙を送り続けたのだった。



 そしてラズライトはあっという間に最高学年になった。
 恐るべきは、ここに来るまで長期休暇の度に毎年求婚してきた事と、毎学年、学年一位という成績を維持し続けたことである。
 このままでは約束を果たさなければならない。
 でもあれは結局のところ口約束で、今のラズライトには私よりも良い相手がそれこそ掃いて捨てるほどいる。
 私は今年もめげずにラズライトから送られてきた招待状と睨めっこをしながら喉の奥で唸り声を上げた。

「ルチア、そろそろ観念したら?」
「でも……」
「ラズだって最後の年くらいルチアに来てほしいんじゃないかしら」
「……そう、かしら」
「絶対そうよ。双子の私には解るの。ルチアが行ったら、あいつきっと昼の馬術大会で最優秀選手賞だって取ってみせるわよ」

 ラピスラズリが早口でそんなことを捲し立てるものだから、私はちょっとだけ馬術大会で活躍するラズライトというものに興味が出てしまい、最後の年だからというのを言い訳にして、これまで家族ではないことを理由に頑なに参加しなかったファミリーデーに彼の通う学校を訪れることを決めたのだった。

 寄宿学校というのは、想像していたよりもずっと緑が多く、広く開放的な雰囲気があった。敷地内には校舎と寮の他にもたくさんの建物があり、一人ではすぐに迷ってしまいそうだが全体的に明るくて清潔だ。
 もっと厳格で冷たい場所かと思っていたから、ラズライトはこんな素敵な場所で勉学に励んでいたのかと少し嬉しくなった。

「あぁ、ほら。次がラズよ」

 ユヴェーレン伯爵夫人の声に競技場を見る。
 専用の乗馬服を纏ったラズライトはいつもよりも精悍で、なんだか初めて見る人みたいだ。
 彼は障害馬術の選手だ。これまでにもいくつかの大会で賞をとるほど優秀らしい。
 けれどユヴェーレン伯爵が言うにはこの大会では学校の伝統として障害の設置条件が厳しいのだとのことで、現にこれまで障害を落としたり失敗する選手が続出していた。

「怪我などしなければ良いけれど……」

 だって馬はとても大きいのだ。そこから落ちでもしたら大怪我は免れないに決まっている。
 心配で今にも目を覆ってしまいそうになる私だったが、馬を引いて規定の位置へと移動するラズライトが観客の方へ視線を動かし、そしてその中から私を見つけて微笑んだのを見た瞬間、何故だか顔が熱くなって目が離せなくなってしまった。

(きっと気のせいよ。あんなに遠いのだもの。私に気付くはずないわ)

 そう思ってみても胸がドキドキする。
 そのドキドキが心配からくるものなのか、違うのか、私にはまったくわからなかった。

「あぁ、始まるわ!」

 ラピスラズリの声に我にかえり、視線の先のラズライトの動きに集中する。
 白馬に乗ったラズライトは堂々としていて馬ともよく呼吸が合っていた。
 まるでお互いの考えていることがわかっているかのように、指示したようにも見えないのに馬は歩き出し、人馬一体となって障害を軽々と飛び越え、幾つもの障害を難なくこなしていった。

(……綺麗……)

 躍動する馬の姿にも、真剣な表情のラズライトの横顔にも、私は息をするのも忘れて見入っていた。

「──ルチア? 大丈夫? 顔が真っ赤よ」
「あ、あの、そうね。少し暑かったかも……」
「帽子があるからって傘をささないからよ、もう!」

 結局ラズライトが競技を終えるまで息を押し殺し続けていた私は、息を詰め過ぎて赤くなった頬を隠すように俯いてなんとかその場をやり過ごすのだった。

 ***

 日が沈み、校舎の大広間を使用して開催されたダンスパーティーの会場では、どこで着替えてきたのかと思うほど豪奢なドレスに身を包んだ令嬢がたくさんいた。令嬢だけでなく、ご婦人方も美しく着飾っている。
 ユヴェーレン伯爵夫人にそのことを聞くと、一部の貴族には専用の支度部屋が用意されているのだと教えてくれた。
 せっかくだからとラピスラズリが選んでくれた外出用のドレスは私にしては派手だけれど、彼女たちに並んだらただの外出着に他ならない。
 場違いだったらどうしようと心配する私の隣で、ラピスラズリが呆れ顔で溜め息を吐いた。彼女はケープタイプの外出着を脱ぎ、その下に着ていた最新流行のドレス姿である。

「ルチア、だから言ったでしょ。それじゃ地味よって」
「でも私はあなたの家庭教師よ。私の立場では、これでも派手だと思ったの」

 気合いを入れるとは聞いていたけれど、まさかここまでとは。
 私は自分の格好でユヴェーレン伯爵夫妻が何か言われてしまったりしないだろうかと、心配になって辺りを見回した。
 ユヴェーレン伯爵はこの学校の卒業生であり、この学校には貴族の子弟が通うから保護者に知り合いが多い。夫妻が挨拶に回っている間、私とラピスラズリは会場内に用意されているちょっとした飲み物や食べ物を頂きながら周りの様子を観察していた。
 遠目に見る限り、今のところ特に何も言われてなさそうだから、一応は大丈夫なのかしら。
 私はユヴェーレン伯爵夫妻から視線を動かし、次に大広間の中でも一際目を引く人溜まりへと目を向けた。
 その人混みの中心にはラズライトがいる。
 昼の馬術大会で最優秀選手賞を受賞したラズライトは、最高学年であることもあってか他の学年の生徒よりも装いが豪奢だ。
 そしてそんな彼をとり囲む人の量が桁違いだった。
 生徒にも保護者にも、それからご令嬢方にも囲まれてまったく動けないでいるラズライトは、人混みの中心で困ったように笑っていた。
 その様子を見て本当に王子様みたいだな、と私はぼんやり思った。
 まるで遠い世界の人みたいだと思ったのだ。

「ねぇ、ラピス。もう少しでダンスの時間が始まるでしょう? 私はここでおじ様たちをお待ちしているから、あなただけでも先に楽しんできたら」

 あの様子ではしばらくはラズライトとも話が出来そうにない。
 そう思ってラピスラズリに声を掛けると何故か鼻で笑われた。

「ラピス、そんな笑い方をしたらはしたないわ」
「仕方ないじゃない。ルチアったらまったくわかってないんだもの」
「私が何をわかってないというの」
「あなた鏡を見たことあって?」
「えぇ、毎日見ているわ」
「それで気付いていないのね。いいこと。私がここを離れたらあっという間にあなたは男共に取り囲まれるわよ。私はここではラズの双子の片割れとして顔を知られているから、皆ラズに遠慮して声を掛けてこないだけ。あなた一人で放り出すなんて、それこそ飢えた狼の群れにうさぎを放り込むようなものよ」
「そんなことないわ。ラピス、あのね、私もう二十歳をとうにこえているのよ。こんな行き遅れの年増、若い子たちが相手にするはずないじゃない」

 そう言ったところで横から声を掛けられた。
 学校の制服を着ているが、もちろん知らない人だ。この学校に知り合いはラズライトしかいない。
 普段ラピスラズリと共に貴族令嬢が主催するお茶会に行くことはあっても、こんな近くで貴族男性と話す機会がほとんどない私は思わず怯んでわずかに身を引いた。
 彼はその分だけ身を乗り出して言った。

「ねぇ、君ユヴェーレンの家の人? よかったら俺と踊りにいかない? 俺、歳とか気にしないしさ」

 さっきの会話を聞かれていたのは恥ずかしかったけれど、もしかしたら私が踊りに行けばラピスラズリだって踊りに行けるかもしれない。
 そう思って下げた視線を上げた瞬間、後ろから大きな手に目を塞がれた。

「きゃあ!?」

 驚いて声を上げると肩の辺りから聞き慣れた声がする。

「悪いな、ギースベルト。彼女は僕の連れでね」
「おいおい横入りはよくないぜ、お坊ちゃん」
「どっちが横入りだか。馬に蹴られたくなかったらさっさと引き下がれよ」

 視界を塞がれたまま頭の上でそんな会話が飛び交って、ようやく離れた手に視界が戻る。

「遅くなってごめんね、ルチア」
「ラズライト……?」
「うん。今日は来てくれてありがとう。とっても嬉しい」

 思ったよりもすぐ近くにラズライトの顔があって驚いた。
 けれど、同時に何故かひどく安堵した。反射的にラズライトのジャケットの端を握る。それを見たギースベルトと呼ばれた青年は、肩を竦めて踵を返すとそのまま人混みに紛れてしまった。

「ごめん、抜け出すのに時間がかかってしまった。待たせてしまったね」
「まったくよ。ラズライト、後はうまくやりなさいよね」
「うん、ありがとう。ラピスラズリ」

 短い言葉を交わし、続いてラピスラズリもひらりとドレスの裾を捌いて離れてしまった。
 人混みの中に二人きり。
 なんだか妙に落ち着かない気持ちになる。
 さっきまでラピスラズリに楽しんできてと言っていたはずなのに、こうしてラズライトと二人になってしまうと、途端にどうして行ってしまったのと思う気持ちが湧いてくるから不思議なものである。
 そわそわと落ち着かない気持ちでラピスラズリの消えた方とラズライトを交互に見ていたら、ラズライトがふわりと微笑んだ。

「その髪飾り、つけてきてくれたんだね」
「お気に入りだから……」
「そっか。ふふ、嬉しいな。すごく迷って決めたんだよ、それ」

 ラズライトがいつもと同じ笑顔を浮かべていたので、私も少しだけホッとしてつられたように笑う。
 以前にラズライトから贈られた髪飾りには、金色の針を透明な水晶に閉じ込めたルチルクォーツが使われていて、今もブルネットの私の髪でキラキラと輝いている。
 石の中の金色の針を見る度に、私はいつか見たあなたの伏せた睫毛を思い出していたのよ、とは恥ずかしくて流石に口には出来なかった。

「ねぇ、ルチア。僕と踊ってくれる? 君がくると聞いたから今年はダンスの練習もたくさんしたんだ」
「えっ?」

 私の手を取ったラズライトが流れるような美しい動作で私の指先に口付ける。
 その瞬間、近くで令嬢が小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。

『ちょっと、誰よアレ!』
『今まで一度もダンスの誘いを受けてくださらなかったライズライト様が……』
『やだ、どう見ても歳上よ。ご実家の侍女かなにかではないの?』
『それにしてもラズライト様に近寄りすぎよ!』

 ざわめく令嬢たちの声。あれだけの人だかりができるラズライトだ。抜け出たとしても視線を集めて続けていたらしい。
 慌てて顔を上げれば微笑むラズライトと目が合った。
 いけない。早く離れないと。そう思うのに身体が動かない。

「……踊るのなら、私よりも、他のご令嬢の方が、その、お似合いじゃ……」

 しどろもどろになりながら言うと急にラズライトの表情が曇る。この顔は不機嫌な時の顔だ。
 案の定、ラズライトは拗ねた口調で言った。

「ルチアはそんな寂しいことを言うの」
「だって、私はあなたより五つも歳上で、若くて可愛いお嬢さんではない、から……。こういう場所でのダンスって、普通は可愛いお嬢さんと踊りたいものではないの……?」

 私の言葉を最後まで聞いたラズライトは、ジッと私の顔を数秒見つめてから大きな溜め息を吐いた。
 そして、チラと先ほど令嬢たちの声がした方向へ視線を向けてから、私ににっこりと、それはもう美しくにっこりと微笑みかけた。

「僕はルチアとしか踊りたくない。ね、いいでしょう? ルチアが踊ってくれないと、僕は在学中一度も踊らなかった男になってしまうんだよ」
「……そう。それでは、仕方ないわね……?」

 結局、例のおねだりの表情に負けた私はラズライトに流される形でダンスフロアへとエスコートされ、ラズライトと初めてのダンスを踊ることになった。
 社交活動をしていない私は、ここ数年はラピスラズリにダンスの指導をする以外でちゃんと踊ったことがない。
 それなのにラズライトが離してくれず立て続けに三曲も踊ったので、曲が終わった時にはひどく息切れしてしまって、最後には彼に身体を支えてもらう有様だった。
 三曲も踊るのは大変ではあったけれど、ラズライトがとても機嫌良さそうにしているのを見ると嬉しくなってしまう辺り、私は本当にラズライトに甘いのだろう。
 ちょうどダンスタイムも一旦休憩に入ったらしく、私はその場でほっと息を吐いた。

「それにしても、あなた本当に今まで一度も踊ったことがなかったの?」
「そうだよ。興味もなかったし」
「ダンス、とっても上手だったのにもったいない。ねぇ、もう最終学年なのだし、本当に気になるご令嬢などいないの?」

 ダンスで疲れてしまった私は、ラズライトに腕を貸してもらって息を整えながら何気なくそう尋ねた。
 途端にラズライトが不機嫌な空気を発し始める。

「……ルチア、君、本当にわかってないね」
「え? えぇ?」

 怒らせてしまったのかしら。
 おろおろする私の様子に気が付いたのか、少しずつ周りの視線が集まり始める。
 ダンスが終わったのにホールから動かないのだからおかしく思われても不思議ではない。
 早くダンスフロアから移動したいのに、腕を引いてもラズライトは動いてくれなかった。

「ルチア。気になる令嬢といったらそれは君のことだよ。在学中に色んな令嬢を見てきたけど、それでも僕は今だって君のことしか好きじゃない」
「えっ」
「だからダンスは君以外と踊りたくないし、まとわりついてくるご令嬢たちには正直困っている。そもそも君が誰よりも一番可愛いんだから、他に目移りなんてするはずないじゃないか。毎年可愛さを更新し続けて、君は一体僕をどうしたいの」
「は? ちょ、ちょっと待ってラズ」
「待たない。大体、君はいつだって最後に年齢のことを言うね。だけど、そこは僕が何をどう頑張ってもどうしようもない部分だろ。それを言うのはずるいよ。ねぇ、年齢以外はどうなの?」

 年齢以外と問われて私はそんなこと突然言われてもと眉尻を下げた。

「えぇと、年齢以外の問題点よね。一番は身分差かしら」
「あのね、ルチア。君は忘れているかもしれないけれど、君はれっきとしたローエンシュタイン伯爵令嬢なんだよ。今だって貴族籍があるんだから」
「そ、そうなの? でも私、お父様とお母様が亡くなってからはきっと貴族税だって払ってないわ。そんな私が貴族を名乗れる訳……」
「払ってたよ。父上が君のご両親の遺した財産からね」

 初耳過ぎて声も出なかった。
 大体、私の貴族としての財産はとうに全て親類たちに奪われたのだとばかり思っていたし、実際そのはずだ。
 唇を震わせることしか出来ない私にラズライトは続けた。

「君、僕の両親が渡した遺産目録を確認してなかったんだろ」
「だって、お屋敷に持って来て頂いた幾つかの品以外には何もないと思っていたのよ。遺品は目録を頂く前に確認していたから、つい後回しにしてしまって……そのまま……しまい込んで……」
「そういうところだよ。君はしっかりしているのに肝心なとこで抜けてるんだ」
「し、失礼よ!」

 溜め息を吐いたラズライトはユヴェーレン伯爵夫妻がローエンシュタインの一族を相手取り、私の立場と私が持つ正当な権利を主張した上で、直系子である私に遺産の半分が渡るように裁判を起こして勝訴したのだと説明した。
 その際に正式に後見人となり、夫妻は私が持つことになる財産の管理も任された。
 あの日、夫妻がローエンシュタインの屋敷に来たのは正式な後見人となったからだったのだ。
 それを良く思わない親類たちは、迎えに来る前に私を修道院に送ってしまおうと考え、私に何一つ状況を伝えなかったのだと今なら簡単に想像がつく。
 そして何も知らない私は、ユヴェーレン邸で渡された遺産目録を確認すらしなかった。とんだ茶番である。

(ではあの夜の話し合いはなんだったの……!)

 ほとんど泣きそうになっていた私だが、ぼんやりと夫妻が私に余計な負担を掛けさせないために私に話を合わせてくれたのだろうと察した。
 話し合いの時、夫妻は私の口から遺産目録の件が出て来なかったことで、私がそれを確認していないとわかったのだろう。
 あの時の私は正直自分のことで手一杯で遺産の管理など絶対に出来なかったし、それを夫妻に任せてしまうと知ったら手を煩わせてしまうことに罪悪感を覚えてそのまま修道院に直行したはずだ。
 そうしたら私はラズライトともラピスラズリともこんなに仲良くはなれず、修道院で今も亡き両親を思って泣きながら暮らしていたかもしれない。私は一人で悲しみをやり過ごせるほど強い人間ではないから。
 ユヴェーレン家で過ごした毎日は私の心を癒し、悲しみから掬い上げてくれた。
 私が今笑っていられるのはユヴェーレン家の皆のお陰だと言っても過言ではない。

「これで家柄の問題もクリアだね。他には?」
「他、他……? 私が、その、あなたと結婚することをきっとおじ様はお許しにならないわ。だってあなたはユヴェーレンの正式な、」
「後継の話? それなら父上も母上も結婚相手が君ならって既に承諾を頂いている。残るは君の承諾だけだ」
「そんなことある?」
「学校に入学してから何度も両親に宛ててルチア以外と結婚するくらいなら出奔してやるってしつこく脅迫……、説得の手紙を送ったからね」
「ラズライト、これっぽっちも誤魔化せていないわ。おじ様とおば様を脅迫したのね?」
「ちょっとだけさ」
「ちょっとでもたくさんでも脅迫行為は皆等しくいけません!」
「ルチアが僕と結婚してくれるって言ってくれたらもうしないよ」
「あのね、それは私を脅迫しているのと同じことよ」
「脅迫じゃなくてお願いだよ。それに、約束だってしたよね?」

 卒業まであと少しだね、と微笑むラズライトにぐぅと口を閉じる。
 なんだかとてもうまく丸め込まれてしまった気がする。
 この子はいつの間にこんなに弁が立つようになったのだろうか。
 私、あなたをそんな子に育てた覚えはないのだけど!
 続く言葉がなくてあーとかうーとか意味のない言葉を繰り返していたら、ラズライトの指先がくいと私の顎に添えられて軽く上を向かされた。

「ルチア。僕は諦めが悪いから何度だって君に求婚するよ。君を初めて見た時から、君は、君だけが僕のお姫様なんだ」

 お姫様。その言葉に遠い記憶が蘇る。

『またね、お姫さま』
『おやすみ、お姫さま』

 何故か妙に耳に残っていて今でも鮮明に覚えている言葉。
 そう、確かユヴェーレン家で目覚めた時に双子が私に言った言葉だ。
 それを思い出したらカッと頬が熱くなった。

「まさか、あの時からずっと……!?」

 顔を真っ赤にしながら驚きに目を見開く。視線の先ではラズライトがほんの少しだけ照れたように目を細めて頷いていた。
 その表情に胸の奥がキュンと締め付けられる。

(か、可愛い……っ)

 そう思った瞬間、私は己の敗北を知った。だってよく言うでしょう。
 ──恋愛は惚れたら敗けだって。
 思えば私の記憶の中にはいつだって彼がいて、最近の私はラズライトが向けてくれる好意に安心すらしていた。
 大体、自分であれだけ言っていたが、本当にラズライトが他のご令嬢と婚約することになったら私は平静でいられるだろうか?
 考えるまでもなく答えは否だ。
 きっと私は自分で他の令嬢に目を向けろと言っておきながら、実際その通りになったら一人前に傷付くのだろう。
 それが純粋な家族愛だと本気で思っていた訳じゃない。
 ただ、私は目を逸らし続けていただけ。
 ラズライトの真っ直ぐな気持ちが眩しくて、大き過ぎて、自信のない私は簡単に怖気付いてしまったから、ラピスラズリの家庭教師でしかない私にはそもそも分不相応な話だと現実を見ないふりをした。
 なんて身勝手で我が儘な女。こんな狡い女なのに本当に私で良いの?
 顎先に添えられた彼の指にそっと己の手を重ねる。手の中でラズライトの指先がぴくりと動いた。
 私はラズライトを見上げて恐る恐る口を開いた。

「ねぇ、ラズライト。本当に良いの? 何度も言うけれど、私、あなたより五つも歳上だし、実家の後ろ盾もないし、社交活動だってあんまり得意じゃないと思うわ」
「その程度補えない僕だとでも? 年齢差はどうしようもないけど、それ以外なら君のために僕がなんだって頑張るよ」
「そこは、一緒に頑張ると言ってほしいわ。だって、結婚って、……一人でするものじゃないのよ……?」
「ルチア……。良いの?」

 熱に浮かされたような口調で呟くラズライトの青い瞳がとろりと蕩けて見えた。
 知らない。こんな、こんな表情は知らない。
 その表情は天使でも王子様でもない。蕩けた瞳で見つめられると頬がどんどん熱くなる。
 耐えきれなくなった私は慌てて視線を逸らした。顎先を捕まえられて俯くことは出来なかった。

「でも! 約束は約束よ。あなた、まだ卒業していないでしょう。それに、卒業する時に主席かどうかもわからないじゃない」
「卒業まであと本当に少しだよ。今までずっと好きだったし、これからもずっと君のことが好き。成績だって他を蹴散らして主席の座を手に入れて見せる」
「ラズラ……っ」

 互いの吐息さえ触れそうで頭がクラクラする。
 やっぱり距離が近過ぎない?と言おうと口を開きかけた私だったが、その言葉ごとラズライトに食べられて目を丸くする。
 唇に触れる、熱。
 視界いっぱいに広がるラズライトの顔。ルチルクォーツを彷彿させる伏せた金の睫毛がごく間近に見えた。

(今、一体何が起こっているの……!?)

 ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音をたてて何度か唇を啄まれた後、ようやく唇が離れて、うっすらと頬を赤く染めたラズライトが微笑んでいた。

「……ルチルアンナ、君を愛している。僕と結婚してください」

 今度こそはっきりと、ホールに響き渡る音量で令嬢たちの悲鳴が聞こえたような気がしたが、とてもそちらに意識を割く余裕がない。
 まだ卒業まで時間があると言ったばかりなのに、ラズライトは我慢できなかったんだと照れ臭そうに笑っているものだから、私は怒ったら良いのか照れたら良いのか感情が揺れ動かされ過ぎて頭が沸騰しそうだった。
 しかし、しばらく経って少しずつ冷静になった途端、私はハッと身を強張らせた。

 ラズライトとダンスをした後、息を切らせた私はそのままホールに残っていた。
 今だってそうだ。私とラズライトはまだホールにいる。
 そう、ダンスホールになっていた広間の中心で、人々の視線が集まる真ん中で、これまでの会話を繰り広げていたのだ。
 ラズライトの言葉も、さっきのキスも、全部聞かれたし、全部見られてしまった。
 人前でキスするだなんて淑女としてはしたないにも程がある。
 羞恥でぶるぶると震えながら私は精一杯の力でラズライトの胸を殴った。

「もう、私どこにもお嫁に行けないわ!」
「僕のお嫁さんになるんだから何の問題もないよ?」
「そっ、そうだけど、そうなるかもしれないけれど、そういうことじゃないわ!」
「ふふ。恥ずかしがってるルチアも可愛いね。でもこれ以上可愛いルチアを周りに見られるのも業腹だな」

 ぽかぽかとラズライトを殴り続けていた私に構わず、ラズライトはサッとジャケットを脱いでそれを私の頭に被せた。

「きゃっ」

 続けて身体を横抱きにされ、急な浮遊感に思わずラズライトにしがみつく。

「大人しくしていてね。お姫様」

 横抱きにされたうえに周りが見えないとすごく高い位置にいるようで意外と怖い。
 ジャケットで覆われた視界の中で私は必死に頷いてしがみつく腕に力を込めた。

 その後、私は控室として使用している部屋まで運ばれ、ラズライトは一部始終を見ていたユヴェーレン伯爵夫妻から何を考えているんだと説教を受け、私はラピスラズリにまた鼻で笑われてしまった。
 いわく、『観念しろって言ったでしょ』とのことである。



 私にとって運命を決定付けたと言っても良いあのイベントの日から一か月。
 ラズライトは宣言通りに見事主席で卒業した。
 今日はラズライトが屋敷に戻ってくる日だ。
 伯爵夫妻とラピスラズリはラズライトを迎えに行っている。
 勿論私も一緒に行こうと誘われたけれど、私はそれを丁寧に断って屋敷に残った。
 私が家族ではないから、ではなくやるべきことがあったからだ。

(そろそろかしら)

 陽当たりの良い中庭のベンチに座って大きく深呼吸をする。
 近くに置かれたテーブルには早起きして頑張って作った彼の好物の焼き菓子の並んだ皿と、彼の好きな銘柄の茶葉を用意したティーセット。
 そこに視線を向けて喜んでもらえるかしらと思案した時、ばたばたと慌ただしい足音と共にラズライトの声がした。

「ルチア!」
「ラズライト」

 まさか馬車留めからここまで走って来たのだろうか。
 息を切らせた彼の手には、主席卒業を証明する盾があった。
 まだ距離があるのにラズライトはその盾をぐいとこちらに突き出して叫んだ。

「約束! 果たした!」
「ただいまよりも先に言うことがそれなの? 困った子だわ」

 駆けてくるラズライトに苦笑したのも束の間のこと。
 お互いの顔がよく見える位置まで来た時、ラズライトは芝生の上で体勢を崩し、勢いを殺せずにそのまま思い切り転んでしまった。

「ラズ!」

 慌てて倒れたラズライトの側まで駆け寄り、彼の隣に膝をついて無事を尋ねる。
 転んだ弾みに芝生に投げ出された盾は無事のようだが、ラズライトは芝生に伏せたままぴくりとも動かない。

「あぁ、ラズ。どこか痛いの? 大丈夫? 動けるかしら」

 知らないうちに随分と広くなっていた背中を摩ってやれば、彼は唸り声を上げて小さく震えた。

「……ルチアに格好悪いところを見られた……最悪だ……」
「まぁ。私、気にしないわ」
「かっこよくプロポーズしたかったんだ」

 ようやく顔を上げたラズライトは頬に芝生の草をくっつけて、物凄く不満そうな顔をしていた。
 そういう顔をしていると普通に歳下の男の子に見えるのねと思いながら頭を撫でるが、ラズライトはやっぱり不満そうだった。

「子供扱いしないで」
「違うわ。可愛いから撫でているのよ」
「子供扱いじゃないか」
「ラズライトにしかしないわ」

 私の言葉にゆっくりと上体を起こし芝生に座り込んだラズライトの視線が輝きを取り戻している。
 本当?とその視線が問うので、私は微笑んで頷いた。

「あなただけよ。ねぇ、いつまでもそうしていないでお茶にしましょう。私、お菓子を用意しているのよ」
「待って、ルチア」
「あっ」

 立ちあがろうとしたところで腕を引かれ、次の瞬間私はラズライトの膝の上に抱き込まれていた。

「えっ、あの。ラズライト?」
「ルチア」

 膝の上でぎゅうと抱き締められるとダンスの時よりももっと身体が密着して、体温どころか心臓の音まで伝わってしまいそうだった。
 身じろぐことも出来ず、私はただラズライトの腕の中で大人しく身を縮めている。

「……ルチア。今の僕、すごく格好悪くて情けないけど、でも君のことを誰より幸せにするから、だから……」

 いつもよりも近くで聞くその言葉。
 視線を上げればラズライトの青い瞳に捉えられた。

「ルチルアンナ。僕と結婚してください」

 そっと、一音ずつ丁寧に発されたその言葉に、私は初めて頷いた。

「喜んでその求婚お受けします」

 そして私は小さく笑い、ラズライトの背に腕を回して抱き締め返した。

「おかえりなさい。主席卒業おめでとう。それから、ずっと好きでいてくれてありがとう。──私も大好きよ。ラズライト」

 ぎゅうと強く抱き締めるとぽそりとラズライトが呟く。

「……一応確認するけどこれって夢じゃないよね?」
「頬をつねってあげましょうか」

 私だってそれなりに緊張して言ったのに夢で済まされたらかなわない。
 ラズライトが望むのなら思いきりその頬をつねってあげようと指先で彼の頬を撫でる。
 するとラズライトはその手を捕まえて、先ほどまでの仏頂面が嘘のように悪戯っぽく笑った。

「それよりキスしていい?」
「ダメって言ったらどうするつもり?」
「後で謝るよ」

 結局するんじゃない。
 そんな私の言葉は、あの夜のダンスホールと同じように言葉ごとラズライトに食べられてしまった。
 それでも笑って受け入れてしまう私はやっぱりラズライトに甘い。いいえ、これが惚れた弱みというものかしら。ラズライト、あなたこんな感情を何年も抱えていたのね。
 私はくすぐったい気持ちでラズライトからの口付けを受け入れて目を閉じた。

 ──こうして、かつて冷たい雨が降る冬の日に家族を失った私、ルチルアンナ・ローエンシュタインは、陽射しの暖かな、穏やかで美しい初夏の日に伴侶を、新しい家族を得たのだった。



 その後、あの夜のダンスパーティーで私に声を掛けて来たギースベルト氏とラピスラズリが婚約することになったり、結婚式のドレスについてラズライトと意見が真っ向から対立して大喧嘩になったりしたけれど、私たちは皆きらめくような明日へ一歩ずつ踏み出している。

「……お父様、お母様。私ね、今とっても幸せよ」

 デビュタント以来の純白のドレスを纏って壁に掛けた両親の肖像画へ結婚を報告する。
 なんだか胸がいっぱいで泣いてしまいそうだけど、お化粧が崩れてしまうから鼻をすんと鳴らして我慢した。

「先生、時間よ。心の準備はよろしいかしら」
「ラピスラズリったら、こういう時だけ私を先生なんて呼ぶのね」

 呼びに来たラピスラズリの声に返事をすると、かたんと小さな音がして反射的に肖像画に視線を戻す。
 視線の先、絵の中の両親の表情がいつもより柔らかく見えたのは気のせいだろうか。

「お父様、お母様。行ってきます」

 私は二人に微笑みかけてから部屋を出る。
 ラピスラズリに手伝ってもらいながらウェディングドレスの裾を捌き、カツンと廊下に響いたヒールの音は、いつもより幾分も弾んで聞こえた。
 人生で一番美しくありたい日。
 今日も私の髪にはお気に入りのルチルクォーツの髪飾りが、あの日の初恋を閉じ込めたようにキラキラと輝いている。
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