恋愛情景短編集

1. 夜桜とサヨナラと



「ごゆっくりご覧ください」
 30年ぶりに入った書店でそう穏やかな声で話かけてきたのは、眼鏡の奥に小さなビー玉のような瞳をたたえた小柄の女性だった。
「少し小説を見せてください」
「どうぞ。お客様も多くないので、ご遠慮なく」
 ただ本を手に取ってもらえるだけで嬉しいと言わんばかりの柔和な笑顔。
(こんな表情をする人だっただろうか)
 僕が知っているのはもっと厳しい目つきをして、いつでも立ち読み常習犯がいないか目を光らせていた女性店員だ。

***

「立ち読みはやめてください」
「はあ、すみません」
 23歳の僕は、高校の制服を着たまま店番するこの少女のことはそれほど気にしたことがなかった。
(気に入ったら買うんだから、少しぐらい読ませてくれてもいいだろ)
 これが立ち読み常習犯の僕の心の内だ。
 その頃の僕は慣れない銀行の仕事に疲れ、帰り道にこの書店に寄るのが楽しみだった。
 偶然、アパートに戻る道すがら存在していたのも運命だったんだろうか。本好きな自分にとっては、安いスーパーがあるよりも書店があることのほうが嬉しかった。
「買わないくせに毎日寄るなんて図々しい人」
 隣の棚の単行本を並べ直しながら、ぼそっと呟く声はしっかり耳に届いている。
 それでも僕は寂しい夜を慰めてくれそうな本との出会いを願って、何冊もの書籍をパラパラとめくっては棚に戻した。
(この店、ラインナップが好みだから大型店よりいいんだよな)
 煙たがられても立ち寄ってしまうのは近いだけでなく、そういう理由もあった。
 実際、3回に1回くらいは小説を買っており、自分的には迷惑な客にはなっていなかったと思っている。

 そんなある日、しばらく店が数日臨時で休みになったことがあった。
 高齢であった店長が亡くなったと知ったのは随分後だ。
 その息子が店を継いで再オープンになった頃、僕は転勤が決まっていて、その土地を離れなくてはならなくなっていた。
 桜の花が咲き誇り始めた3月の終わり頃だったろうか。
 店の裏に流れている川沿いで、夜桜を眺めるあの少女の姿を見つけた。

 気丈な様子だったその子が、涙をこぼして桜を眺める姿を見て僕は“美しい“と素直に思った。
 夜の闇に浮かぶぼんやり白いソメイヨシノの花びらは、人の命の儚さを感じさせる。
 祖父を失った少女がどれだけ孤独の淵にいるのかと想像して胸が痛んだ。

『コノサカズキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ」  

 無意識に井伏鱒二が訳した「観酒」の冒頭を口にしていた。
 すると、少女は驚いた顔でこちらを見ると、涙を拭って顔を赤めた。

「厄除け詩集に入っているものですよね」
「そうだよ。この続き、知ってる?」

 そう尋ねると、彼女はうんと頷いてボソリボソリと続きの句を口にする。

「……ハナニアラシノタトエモアルゾ……「サヨナラ」ダケガ人生ダ」

 そう口にした途端、彼女は声を出して泣き出してしまった。
 僕は慌ててその子の隣に駆け寄り、羽織っていたコートを肩にかけた。

「僕はサヨナラだけが人生だとは思わないよ。どんな人とだって、いつかどこかで再会するんだから」
「再会……できますか」
「できるよ。魂は永遠だって聞かない?」

 それまで自分がそういう思想を持っていたわけではなく、たまたまその場で思いついて口にした言葉だった。それでも、その時の彼女には意味のある言葉だったみたいだ。
 安心したように微笑み、涙を袖でしっかりと拭った。

「またお店に来てください。今度は立ち読み、怒らないですから」
「ありがとう」

 そう笑顔を交わして別れたのが最後で、それから僕は仕事の忙しさに飲み込まれて30年が経過した。

***

 立ち読みを推奨されたものの、僕は気になった単行本を数冊手にして会計台へ行く。
「お会計お願いします」
「はいはい……あら、こんなに買ってくださるんですか」
「小説は何冊あってもすぐ読んでしまうので。数日に1冊くらいは買ってますよ」
「そうですか」
 丁寧にカバーをかけてくれ、輪ゴムで縛ると、それをこちらに差し出しながら彼女は言う。
「今でも小説がお好きなんですね」
(覚えてたのか)
「ええ。このお店がまだ続けられていて嬉しかったです」
「店も私もすっかり歳をとってしまいましたけど」
 自嘲するわけでもなく、ごく自然にそう言って彼女は笑った。
 その笑顔は、確かにあの桜の木の下で見たものと同じであった。
(ああ、あの出会いは無駄ではなかったな)
 そんなことを思い、僕は小説を受け取って鞄に入れた。
「いろいろあって、またこの辺りに戻ってきたんです。また時々寄らせてもらいます」
「そうなんですね。じゃあもう少し店は続けなくちゃいけませんね」
「ええ、ぜひ僕がくたばるまでは続けてもらいたいです」
 お互い親しみを込めた軽口を利いて、和やかな空気になったところで店を出る。
 店に入る前は生ぬるく感じていた春の空気が、ピリッとした空気に変わっていた。
(まだまだ読みたい本がある。サヨナラだけで終わらせるわけにいかない)
 寂しさに胸が裂けそうな中年の僕を救ったものは、若い頃と同じだった。

 小説と今にも潰れそうな小さな書店と……そこに静かにいてくれた本を愛する女性の存在だった。

終わり

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