恋愛情景短編集

2話目 私が輝ける場所を探して

 いつも通りの1日だったのに、恐ろしく疲労していた。
 頭がぼんやりして、簡単な計算もできなくて、人の名前も簡単に出てこない。

(今日はもうだめだ)

 いつもは「そんなこともある」と気持ちを切り替えられる私だったけれど、この日はそうもいかなかった。
 1年前にパートで入っていた女性が正社員になって、私の上司になった。
 人より仕事を覚えるのに時間がかかるのは自覚している。だから新しいシステムなどが導入された場合には、時間外にも練習したり自宅でも勉強したりしている。
 努力と頑張りでなんとか化粧品会社のサポートサービスという仕事を10年勤めてきたけれど、1年で仕事をマスターして私の上司になった女性の登場で能力というか実力の差を思い知らされたのだ。
(やばい……久しぶりにやばい感じだ。こんな日は、神無月に寄るのがベストだな)
 私は疲れた体をなんとか立て直し、3年ほど通っている馴染みのカフェに立ち寄ることにした。

 “喫茶神無月“は昭和レトロをイメージしたようなカフェだ。
 店内はブックカフェと言ってもいいほど、ここはいろんな種類の書籍がラインナップされていて本が好きな人が自然に集まるような空気になっている。
 
(成瀬さん、元気かな)

成瀬さんは、カフェを一人で切り盛りしているマスターだ。
知的な雰囲気を醸し出す人で、口数が少なく、頼まれたメニューを出した後は声をかけない限り話したりはしない。
年齢は不詳。若いような感じもするし、そこそこ年上な感じもする。
私が気に入っているのは、その学者風な外見だ。
かけている黒縁メガネの奥には、深く物事を考えてそうな瞳が光っている。

(いつもはお気に入りの本の話をするけど、今日はそういうの話せそうもないな……)

 窓から中を覗いてみると、成瀬さんは空いた席で本を開いていた。

「こんばんは」

 コロンコロンと鈴の音で来客を知らせる昭和風なお店のドアを開けて中に入ると、彼は本から視線を上げてすぐに立ち上がった。

「ああ、いらっしゃいませ」
「閉店時間が近いのにすみません」

 19時閉店なのに、私が入ったのはその10分前だった。
 明らかに迷惑な客だったけれど、成瀬さんは無表情のままどうぞと言ってくれた。

「まだ閉店前なので大丈夫ですよ。どうぞお好きな席へ」
「ありがとうございます。カウンターいいですか?」
「もちろんです」

 この時間にお客さんがいることは滅多になく、この日もやはり他に客はいなかった。
 私はカウンターに設置された丸い椅子に腰掛け、出されたお水を一口飲んでほうっと一息ついた。

(いけない、ため息なんかついてしまった)
「お仕事帰りですか?」
「はい」
「お疲れ様です」

 労うようにそう口にして、お決まりのメニューを差し出してくれる。
 そこには数種類のコーヒーと、セットのカステラが写真付きで載っていた。見慣れたメニュー表だ。ここは美味しいコーヒーとカステラのみがメニューという風変わりなカフェで、それゆえに客が増えすぎるということがない。
(ゆっくりできて客としては嬉しいけど、経営は大丈夫なんだろうか)
「ええと……ブレンドとカステラのセットで」
「かしこまりました」
 何度この同じやりとりをしただろうか。
(いつもので、っていつか言ってみたいな)
 私は成瀬さん目当てで何度もここに通い、最近やっと認知してもらい、普通に会話ができるようになった。
 ぶっきらぼうではあるけれど、彼からかけられる言葉にはどこかあたたかい思いやりがあって、私は過去に何度もそれで救われてきた。
(期待しすぎちゃいけないけど……もう少し親しくなれたらいいのに)
「カステラです。ブレンドはもう少々お待ちください」
「ありがとうございます」
 ブレンドを待つ間、ざらめのついた甘いカステラを口にしながら自分の将来を憂いた。
(これから私は、何を支えに生きていけばいいのだろう)
 今まで、なんとか自分を鼓舞しながらやってきた。特別向いている仕事でもなかったけれど、辞めなかったのは職場の雰囲気が嫌いではなかったからだ。
 でも働いているメンバーが入れ替わり、私の年齢も上がったせいか居づらい空気を感じるようになった。
この状態であと10年……とは、今はとても思えない。
 とはいえ、今から転職をしてゼロから仕事を身につけるというのも、途方もないと感じる。
 
『やりたいことをやって輝こう』

 昨今、個の時代になったという。
 一人一人が自分という個性を出し、それを外に表現していくことで輝ける時代になったのだと。
 得意なことや秀でたものがある人にはチャンスなんだろう。
 でも、得意なことを活かす方法がわからず、周囲に合わせて生きることに精一杯の自分の場合、「輝く」前に「生き延びる」ことの方が重要だ。
 
「はあ……」
(いかん、ため息が止まらない)
「何かありましたか」

 流石に私の落ち込みを無視できなくなったのか、成瀬さんが声をかけてくれた。
 正直話したくてたまらなかった私は、その声かけに私は甘えてしまった。

「仕事が辛くて」
「お忙しいんですか?」
「いえ。決まったことを毎日繰り返すだけです。でも、作業が遅くて効率が悪いので、早くできる人に迷惑かけてしまって」
(それで後から入った新人さんに、追い抜かれているんです)
 本当の悩みの部分は口にしづらく、言えなかった。
「丁寧に確実にやることも大切なことですよ」
 言ってくれる言葉が励ましで出ているのはわかっているけど、素直に聞けない。
「そうは思ってもらえない世界なんです。同じことを早く大量にできる人の方が優秀って言われますし、実際そう評価されるんです」
(あ……ついムキになって、成瀬さんに言い返してしまった)
「……なるほど」

 成瀬さんは、いったん言葉を切って淹れたてのブレンドを私の前に出してくれた。
 豆の香りを包んでたちのぼってくる湯気に、胸の奥が緩む。

「いい香り……この香りだけで癒されます」
「よかったです。では、試しにこちらも飲んでみますか?」
「え?」

 同じように湯気をたてた少量のコーヒーが隣に出された。
 違いは一瞬わからなかったけど、飲んでみてその違いに驚いた。

「ん……? こちらは、豆の種類が違うんでしょうか。少し酸味が強いというか……」
(正直、飲みづらい)

 成瀬さんは私の様子を見て、ふっと目を細めて首を振った。

「最初にお出ししたのは葉山さんが注文されてから豆を手で引いてドリップしたもので、後からお出ししたのは朝、電動ミルで引いた豆をコーヒーメーカーでドリップしたものなんですよ」
「豆は同じってことですか」
「ええ」

(美味しくないってほどじゃないけど、マイルドさというか……口に含んだ時の自然さが全然違う)

 コーヒーメーカーで出したものは、一度に大量に作れるから忙しい時にはそれに頼ることもあるのだとか。

「この二つのコーヒーの味の違いは、ほとんどのお客様は気づかないんです」
「そうなんですか」
「ええ。なので正直、葉山さんが瞬時に気付かれたのには驚きました」

 お世辞でもない様子で、成瀬さんは感心したように言ってくれる。
 人から褒められるなんて、一体いつぶりだろうか。正直、ちょっと嬉しい。

「さっきの言葉、綺麗事に聞こえたかも知れませんが……このコーヒーのように、丁寧にゆっくりと作業することの美点もあると私は心から思っているんです」
「そう、そうですよね」
「葉山さんの素晴らしい特性を活かせる場所はきっとあると思います」
「ありますかね」
「ええ」

(あるといいけど。今はそれを探す余力がない)

 今の生活で目一杯なのだ。
立っているだけで、精一杯なのだ。
 でも、これ以上の弱音は成瀬さんに告げるわけにいかない。

「いずれ見つかるといいなって、思います」

 残りのカステラを口に放り込み、コーヒーで流し込む。
 甘さと苦さが口の中で混ざり合ってから、喉を通っていく。

(この組み合わせって、今の私の心の中みたいだな)

 仕事や自分の人生への苦い悩みと、成瀬さんの優しい言葉。
 このまま彼に思いきり頼っていいなら、この場で泣き崩れてしまいそうだった。

(成瀬さんが夜もずっと隣にいてくれたらな……)

 なんとなく通っていたカフェだけれど、これまで何度もこうやって励まされたことが私の中で大きな好意となって降り積もっていた。
 でも、今はこんな甘えた気持ちを今口にする気はない。

「ごちそうさまでした」

 気を緩めると泣いてしまいそうだったから、私はカバンから財布を出して気持ちを切り替えた。
 今日はもう帰って寝てしまおう。

「はい、確かに」

 セット代金の千円札を受け取った成瀬さんは、私に一枚のチケットを手渡してくれた。

(なんだろ)
「カステラの無料券です。常連さんにお渡ししているんです」
(常連認定してもらったんだ)
「ありがとうございます!」

 立ち入りすぎず、こうして遠慮がちに気を遣ってくれるのが成瀬さんなのだ。

「カステラ以外のメニューも考案中なので、次回葉山さんのご意見を聞かせてください」
「また近々来ますね」
「ぜひ」
 
 私はカステラ無料券を財布に丁寧にしまい、胸の奥に灯ったあたたかさを抱いて店を出た。

(不思議だ……仕事での落ち込みが吹き飛んでしまった)

 すっかり夜になった空には、希望の光のように青白い星がまたたいていた。

終わり(シリーズ化するかもしれません)














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