野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)
こうして四月と五月が過ぎた。
女がまったく回復しないので、尼君(あまぎみ)は山に籠(こも)っている兄(あに)僧都(そうづ)にお手紙をお書きになった。
「どうか下山(げざん)なさって、この人のためにお祈りをしてあげてください。こんな状態でも生きつづけているということは、死ぬ運命ではない人なのでしょう。しつこい妖怪(ようかい)が憑(と)りついているだけのように思われます。兄君(あにぎみ)が尊(とうと)い修行(しゅぎょう)中ということは存じておりますが、華やかな都へ出るならともかく、麓(ふもと)まで下りるくらいは仏様もお許しくださるのでは」

切実(せつじつ)そうなお手紙に僧都は同情なさる。
<まだ生きているとはたしかに不思議だ。ひどい容態(ようだい)だったから、すぐに死んでしまうと思っていた。私が見つけたのも何かの縁(えん)だろう。できるだけやってみようか。もし助けられなければ、それがあの人の寿命(じゅみょう)だったと思えばよい>

僧都が小野(おの)の家にやって来ると、尼君は兄を拝(おが)むようにしておよろこびになった。
このふた月の様子を泣きながらお聞かせなさる。
「長く寝たきりでいると見た目がどんどん汚(きたな)くなるものですが、まったくそんなことはないのです。あいかわらずお美しくて、ただ弱々しく寝ていらっしゃいます」
「この人は最初から何もかもふつうとは違ったからな」

僧都は女の顔を覗(のぞ)きこまれる。
「本当にすばらしい美人だ。前世(ぜんせ)でよほど徳(とく)を積んだに違いない。それがどうしてこんなことになっているのだろう。行方(ゆくえ)不明(ふめい)になった女の噂(うわさ)などは聞いていないか」
「まったく何も。だって兄君、この人は長谷(はせ)寺(でら)の観音(かんのん)様が私に授(さず)けてくださった人ですもの」
「観音様は何でもかんでも願いを叶(かな)えてくださるわけではないよ。それだけの理由と縁がそろわなければ」
観音様のお導(みちび)きだと信じたい妹の気持ちも分かるけれど、僧都としてはどうにも腑(ふ)に落ちない。
不思議に思いながらもお祈りを始めなさった。

僧都は普段、朝廷(ちょうてい)から仕事で呼ばれても「山に籠って修行中ですので」とお断りになる。
それなのに、こんな素性(すじょう)の知れない女のために山を下りてお祈りしていると噂になれば、立場が悪くなってしまわれる。
弟子(でし)たちは心配してあれこれ申し上げた。
「そう騒(さわ)ぐな。私はたいして真面目(まじめ)な僧(そう)ではないが、これまで女のことで問題を起こしたことはない。六十を過ぎた今になって女と噂が立つなら、それはもうそういう運命だったのだと諦(あきら)めるしかない」

あっけらかんとした僧都の態度に弟子たちは納得できない。
「わざと悪い噂を立てる人だっているだろう。すばらしい僧都様だというのに、もしお名前が汚(けが)れれば仏教(ぶっきょう)界(かい)全体の損失(そんしつ)だ」
僧都のためを思ってぶつぶつ文句を言う。
ところが僧都は、
「今から私は全力でこの人のためにお祈りをします。もし失敗したら潔(いさぎよ)く引退しましょう」
などと、とんでもないことを仏様にお誓(ちか)いになった。

一晩中お祈りを続けなさる。
すると、これまでまったく現れなかった妖怪(ようかい)が大声でわめきはじめた。
「あぁ、苦しい。もう許してくれ。こんなところまで来るつもりはなかったのだ。
ほんの少しこの世に未練(みれん)を残して死んで、成仏(じょうぶつ)できずにさまよっていたら、宇治(うじ)の八(はち)の宮(みや)様の山荘(さんそう)にたどり着いた。大君(おおいぎみ)という人は憑(と)りつくとすぐに殺せたので、次に憑りつく相手を探していたところ、新しくやって来たこの女性は、しばらくするとなぜか死にたいと願うようになったのだ。ちょうどよかったから、夜一人で外にいるところに憑りついた。

しかしこの女性は殺せなかった。観音様に厳重(げんじゅう)に守られている。きっと何度も長谷寺にお参りしたのだろう。その上、立派な僧都様にお祈りされては敵(かな)わない。もう出ていく」
「名を名乗れ」
と僧都は問いただしなさったけれど、妖怪はそれ以上答えなかった。
< 9 / 47 >

この作品をシェア

pagetop