面識のなかった同級生と名前のない関係になったら、隙間なく重なる相性で離れられなくなった
第四章:真夏の夜の答え合わせ
第十五話:言葉にしすぎないほうが逆によくない?
週明けの月曜日。
私は会社のデスクでパソコンに向かい、溜まっていたメールを無心で返していた。
土曜の夕方から日曜の夜遅くまで、芦田くんは結局、ずっと私の家にいた。
狭い部屋の中で、やけにずっとくっついてきて、隙あらば触れられていた気がする。
それに――。
――『…………澪』
『あの時』だけだけれど、耳元で、ひどく甘い声で、初めて下の名前を呼ばれた。
「…………っ!」
思い出したら、一気に頬が熱くなる。
タイピングする指に無駄な力が入ってしまい、慌てて咳払いをして、周囲の視線を避けるように誤魔化した。
『あの時』以外は、いつも通り『高梨』呼びのままだったくせに。
付き合うのは『どっちでもいい』なんて言うくせに、好きでもないくせに――。
(あんな声を出して、翻弄しないでよね……っ!)
彼へ文句を言いたい気持ちを込めてエンターキーを叩き、最後のメール送信を完了させた。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
社用スマホに届いたお客さんからの返信かと思ったら、私用の方だった。
席を立ち、自販機に向かいながら画面を確認する。
送り主は――拓巳だった。
『同窓会の時は急にごめん。これで最後の連絡にします。どこかで会えませんか?』
画面を見つめ、溜息をつく。
返信はしないまま、スマートフォンをポケットに戻した。
◇
その日の夜。
賑やかな声が響く、広めの座敷の個室。
週が始まったばかりではあるが、営業部の飲み会が開かれていた。
休み前は取引先との接待が入りやすいため、社内の飲み会はこうして月曜日から開催されることも多い。
「――で、同棲してる彼女に『好きって言わなさすぎ!』って激怒されて喧嘩して。もう一週間も口きいてもらえてないんっすよー……」
向かいの席に座る、一つ下の後輩。入社してまもなく営業部に配属されたばかりの男の子だ。
ビールを飲みながら、情けない声で泣き言をこぼしている。
彼の隣には、私の五つ上の先輩で、いつも助けてもらってばかりの頼れるお姉さんがいる。
その先輩も、静かにウーロンハイを飲みながら話を聞いていたが、不意にグラスをテーブルにトン、と置き、言った。
「えー。言葉にしすぎないほうが逆によくない?」
(…………)
それを聞いた瞬間、私の頭には「好き」も「付き合おう」もまったく言う気配のない、芦田くんの顔がよぎる。
「……と言いますと!?」
思わず後輩よりも身を乗り出し、その続きを求めてしまった。
「いや。言葉にされすぎると、言葉と行動の矛盾が目について、冷めるっていうかさ」
小鉢の揚げ出し豆腐を箸で割りながら、先輩が淡々と続ける。
「……ほう!?」
全然ピンときていなさそうな後輩。
「たとえばさ。言葉では『大好きだよ。ずっと一緒にいたい』とか言うくせに、いざ一緒に住んだら家事は自分の分まで全部押しつけてくるとかさあ。言葉がない時より、何倍も腹立ちそうじゃない? こいつの言うこと、全然信用できないじゃんって」
過去、そういった経験があるのか、先輩は眉間に深く皺を寄せながら揚げ出し豆腐を口に運んだ。
「な……なるほど!」
さっきより少し納得したように頷く後輩。
先輩の言葉を聞き、私はハッとした。
拓巳とのことだ。
『同棲とか、結婚とか』と提案された、あの日。
五年間付き合った彼氏からの、プロポーズまがいの言葉。
本来なら飛び跳ねて喜んでもおかしくないのに、なぜか私の心は、わずかに揺れてしまった。
社会人になってからは特に、休日のデートはいつも拓巳の家だった。
そしてそれは、彼が平日で荒ませた日常を、一緒に整えていくところから始まっていた。
私自身も社会人一年目で大変だったから、拓巳の状況やしんどい気持ちは痛いほどわかったし、思いやりのつもりで手を差し伸べていたけれど。
『支え合える』と聞いたとき。
その言葉が想像させる、私ばかりが彼の負担を巻き取ってすり減っていく未来に、少しだけ尻込みしてしまったのだ。
拓巳は、毎日愛情を言葉にしてくれるタイプだった。
『大好きだよ』
『澪といられて世界一幸せ』
たくさんの甘い言葉を受け取れる私は、幸せ者なんだろうなとずっと思っていた。
でも、先輩の言う通りかもしれない。
『言葉さえ重ねていれば、行動が伴っていなくても大丈夫』
そんな彼の甘えを、私の心はたしかに感じ取ってしまっていたのだ。
彼からの愛の言葉と、実際の行動とのギャップから、心に小さな重しが乗っていくような感覚があったのだ――。
「そういや、高梨さん」
後輩の声で、我に返る。
「高梨さんは、結婚しそうな彼氏さんと、どうですか!?」
屈託のない笑顔で焼き鳥を頬張りながら、話を振ってくる後輩。
(あ……ここでも報告しなきゃだったか)
彼が入社してすぐの歓迎会で、彼の緊張を和らげるために自分のプライベートをオープンにしすぎたことが仇となった。
「あっ、えーっと……それがね、まさかの浮気されて別れちゃって!」
会社の人たちは、元クラスメイトたちと違って拓巳との面識もないし、いいか。
なるべくあっさりとしたトーンで、赤裸々に一言で告げた。
「ええっ!? 長かったよね!?」
拓巳との付き合いについて以前から知っていた先輩も、目を丸くして驚いている。
「それにしては……あんまり落ち込んでるようには見えなかったけど。ずっと無理してた?」
心配そうに顔を覗き込んでくれる先輩に、私は首を振った。
「あ、いやー。悲しいっていうか、呆れとか怒りの方が強くて。だからそんなに落ち込まなかったです」
たしかに、五年の付き合いで浮気されたなら、もっとどん底まで落ち込んで当たり前だ。
そこまで落ち込まずにいられたのは、間違いなく――芦田くんの存在が、大きかった。
心配そうにする二人。
気を遣わさないよう、私は明るく愚痴を続けた。
「最近、『ちゃんと話したい』って連絡くるんですけど。私はもう話すことないし、そっちが懺悔してスッキリしたいだけでしょ! って思って、嫌なんですよねー」
そして、手元のビールをゴクゴクと勢いよく飲んだ。
「あー。僕は、一回ちゃんと話した方がいいと思います!」
「……えっ?」
その助言に少し驚いて、後輩のほうを見る。
彼はグラスから離した手を、膝の上に置きながら言った。
「あくまで個人的には、ですけど……。僕も前に長く付き合った彼女に『好きな人できた』って言われて、話し合いもせずに別れたんですよ」
時々、斜め上あたりを見て思い出すようにしながら、彼は続ける。
「僕はちゃんと一人で気持ちの整理できたつもりだったのに、向こうが『どうしても最後に話したい』ってしつこいから仕方なく応じたんです。まあ、向こうの自分勝手な言い訳も当然ありましたけど。でも、自分でも気づいてなかったモヤモヤとか……そこで初めて気づけたことがあったんで」
隣にいる先輩も、興味深く一緒に聞いている。
「そこから気持ち切り替えて、今の彼女に出会って、すぐ付き合いました!」
後輩は少し照れくさそうに笑った後、すぐに「あっ、でも今、喧嘩してるけど……」と、思い出したようにシュンと肩を落とした。
「まあでも、『好きって言わなすぎ!』とか、可愛い痴話喧嘩じゃん。今日帰ったら一言『好き』って言えば解決じゃん」
先輩が笑いながらフォローすると、後輩は慌てて手を振った。
「いや、一緒に住んでて、日常のどのタイミングで唐突に言うんですか!? 改まってわざわざ言うとか、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないですか!」
顔を赤らめて言い訳をする彼は、残りのビールを勢いよく飲み干した。
「……ちょっと、お手洗い行ってきます」
その後しばらくして私は席を立ち、ガヤガヤとした個室を抜けた。
静かな廊下の隅に立ち止まり、しばらく画面を見つめて迷っていたあと、短いメッセージを打った。
私は会社のデスクでパソコンに向かい、溜まっていたメールを無心で返していた。
土曜の夕方から日曜の夜遅くまで、芦田くんは結局、ずっと私の家にいた。
狭い部屋の中で、やけにずっとくっついてきて、隙あらば触れられていた気がする。
それに――。
――『…………澪』
『あの時』だけだけれど、耳元で、ひどく甘い声で、初めて下の名前を呼ばれた。
「…………っ!」
思い出したら、一気に頬が熱くなる。
タイピングする指に無駄な力が入ってしまい、慌てて咳払いをして、周囲の視線を避けるように誤魔化した。
『あの時』以外は、いつも通り『高梨』呼びのままだったくせに。
付き合うのは『どっちでもいい』なんて言うくせに、好きでもないくせに――。
(あんな声を出して、翻弄しないでよね……っ!)
彼へ文句を言いたい気持ちを込めてエンターキーを叩き、最後のメール送信を完了させた。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
社用スマホに届いたお客さんからの返信かと思ったら、私用の方だった。
席を立ち、自販機に向かいながら画面を確認する。
送り主は――拓巳だった。
『同窓会の時は急にごめん。これで最後の連絡にします。どこかで会えませんか?』
画面を見つめ、溜息をつく。
返信はしないまま、スマートフォンをポケットに戻した。
◇
その日の夜。
賑やかな声が響く、広めの座敷の個室。
週が始まったばかりではあるが、営業部の飲み会が開かれていた。
休み前は取引先との接待が入りやすいため、社内の飲み会はこうして月曜日から開催されることも多い。
「――で、同棲してる彼女に『好きって言わなさすぎ!』って激怒されて喧嘩して。もう一週間も口きいてもらえてないんっすよー……」
向かいの席に座る、一つ下の後輩。入社してまもなく営業部に配属されたばかりの男の子だ。
ビールを飲みながら、情けない声で泣き言をこぼしている。
彼の隣には、私の五つ上の先輩で、いつも助けてもらってばかりの頼れるお姉さんがいる。
その先輩も、静かにウーロンハイを飲みながら話を聞いていたが、不意にグラスをテーブルにトン、と置き、言った。
「えー。言葉にしすぎないほうが逆によくない?」
(…………)
それを聞いた瞬間、私の頭には「好き」も「付き合おう」もまったく言う気配のない、芦田くんの顔がよぎる。
「……と言いますと!?」
思わず後輩よりも身を乗り出し、その続きを求めてしまった。
「いや。言葉にされすぎると、言葉と行動の矛盾が目について、冷めるっていうかさ」
小鉢の揚げ出し豆腐を箸で割りながら、先輩が淡々と続ける。
「……ほう!?」
全然ピンときていなさそうな後輩。
「たとえばさ。言葉では『大好きだよ。ずっと一緒にいたい』とか言うくせに、いざ一緒に住んだら家事は自分の分まで全部押しつけてくるとかさあ。言葉がない時より、何倍も腹立ちそうじゃない? こいつの言うこと、全然信用できないじゃんって」
過去、そういった経験があるのか、先輩は眉間に深く皺を寄せながら揚げ出し豆腐を口に運んだ。
「な……なるほど!」
さっきより少し納得したように頷く後輩。
先輩の言葉を聞き、私はハッとした。
拓巳とのことだ。
『同棲とか、結婚とか』と提案された、あの日。
五年間付き合った彼氏からの、プロポーズまがいの言葉。
本来なら飛び跳ねて喜んでもおかしくないのに、なぜか私の心は、わずかに揺れてしまった。
社会人になってからは特に、休日のデートはいつも拓巳の家だった。
そしてそれは、彼が平日で荒ませた日常を、一緒に整えていくところから始まっていた。
私自身も社会人一年目で大変だったから、拓巳の状況やしんどい気持ちは痛いほどわかったし、思いやりのつもりで手を差し伸べていたけれど。
『支え合える』と聞いたとき。
その言葉が想像させる、私ばかりが彼の負担を巻き取ってすり減っていく未来に、少しだけ尻込みしてしまったのだ。
拓巳は、毎日愛情を言葉にしてくれるタイプだった。
『大好きだよ』
『澪といられて世界一幸せ』
たくさんの甘い言葉を受け取れる私は、幸せ者なんだろうなとずっと思っていた。
でも、先輩の言う通りかもしれない。
『言葉さえ重ねていれば、行動が伴っていなくても大丈夫』
そんな彼の甘えを、私の心はたしかに感じ取ってしまっていたのだ。
彼からの愛の言葉と、実際の行動とのギャップから、心に小さな重しが乗っていくような感覚があったのだ――。
「そういや、高梨さん」
後輩の声で、我に返る。
「高梨さんは、結婚しそうな彼氏さんと、どうですか!?」
屈託のない笑顔で焼き鳥を頬張りながら、話を振ってくる後輩。
(あ……ここでも報告しなきゃだったか)
彼が入社してすぐの歓迎会で、彼の緊張を和らげるために自分のプライベートをオープンにしすぎたことが仇となった。
「あっ、えーっと……それがね、まさかの浮気されて別れちゃって!」
会社の人たちは、元クラスメイトたちと違って拓巳との面識もないし、いいか。
なるべくあっさりとしたトーンで、赤裸々に一言で告げた。
「ええっ!? 長かったよね!?」
拓巳との付き合いについて以前から知っていた先輩も、目を丸くして驚いている。
「それにしては……あんまり落ち込んでるようには見えなかったけど。ずっと無理してた?」
心配そうに顔を覗き込んでくれる先輩に、私は首を振った。
「あ、いやー。悲しいっていうか、呆れとか怒りの方が強くて。だからそんなに落ち込まなかったです」
たしかに、五年の付き合いで浮気されたなら、もっとどん底まで落ち込んで当たり前だ。
そこまで落ち込まずにいられたのは、間違いなく――芦田くんの存在が、大きかった。
心配そうにする二人。
気を遣わさないよう、私は明るく愚痴を続けた。
「最近、『ちゃんと話したい』って連絡くるんですけど。私はもう話すことないし、そっちが懺悔してスッキリしたいだけでしょ! って思って、嫌なんですよねー」
そして、手元のビールをゴクゴクと勢いよく飲んだ。
「あー。僕は、一回ちゃんと話した方がいいと思います!」
「……えっ?」
その助言に少し驚いて、後輩のほうを見る。
彼はグラスから離した手を、膝の上に置きながら言った。
「あくまで個人的には、ですけど……。僕も前に長く付き合った彼女に『好きな人できた』って言われて、話し合いもせずに別れたんですよ」
時々、斜め上あたりを見て思い出すようにしながら、彼は続ける。
「僕はちゃんと一人で気持ちの整理できたつもりだったのに、向こうが『どうしても最後に話したい』ってしつこいから仕方なく応じたんです。まあ、向こうの自分勝手な言い訳も当然ありましたけど。でも、自分でも気づいてなかったモヤモヤとか……そこで初めて気づけたことがあったんで」
隣にいる先輩も、興味深く一緒に聞いている。
「そこから気持ち切り替えて、今の彼女に出会って、すぐ付き合いました!」
後輩は少し照れくさそうに笑った後、すぐに「あっ、でも今、喧嘩してるけど……」と、思い出したようにシュンと肩を落とした。
「まあでも、『好きって言わなすぎ!』とか、可愛い痴話喧嘩じゃん。今日帰ったら一言『好き』って言えば解決じゃん」
先輩が笑いながらフォローすると、後輩は慌てて手を振った。
「いや、一緒に住んでて、日常のどのタイミングで唐突に言うんですか!? 改まってわざわざ言うとか、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないですか!」
顔を赤らめて言い訳をする彼は、残りのビールを勢いよく飲み干した。
「……ちょっと、お手洗い行ってきます」
その後しばらくして私は席を立ち、ガヤガヤとした個室を抜けた。
静かな廊下の隅に立ち止まり、しばらく画面を見つめて迷っていたあと、短いメッセージを打った。