面識のなかった同級生と名前のない関係になったら、隙間なく重なる相性で離れられなくなった

第一話:……続き、うちで飲む?

――遡ること、十時間ほど前。

「……で、五年記念日だったけど私は外せない仕事が入ってて。でも頑張って早く終わらせて彼の家に行ったの!」

少し照明の落ちたお洒落なダイニングバー。

お店に着いてから四杯目となる赤ワインの入ったグラスの脚を、怒りで強く握りしめないように気をつけながら声を張り上げる。

社会人二年目の春。
まだまだ覚えることがたくさんある毎日で、気を張っているせいで疲労も色濃く溜まっている金曜日の仕事終わり。

今日は高校の同級生たちと、初めてのメンバーで飲み会をしていた。
男二人、女二人。
クラスが同じだったわけではないけれど、私が仲の良い杏奈と、男子のうちの一人である藤崎くんが仕事先で偶然再会し、お互い友達を誘って飲もうという流れになって私が呼ばれたのだ。

テーブルに漂うアヒージョのニンニクとオリーブオイルの香ばしい匂いの中、みんなバゲットをかじったり追加の飲み物を注文したりしながらも、一応私の話に耳を傾けてくれている。

「そしたら、知らない女の子が出てきて……えっ? ってなって。彼氏は顔面蒼白だし、女の子も泣き始めるし、もう最悪で。その場で別れてきたわけ」

私はつい一か月前、高校卒業から五年間付き合った彼氏に浮気されて別れたばかりだ。
その惨めな顛末を、半ばヤケになりながら語っていた。

「そんな別れ方したわりに、あんまり落ち込んでなくない?」
向かいの席の藤崎くんが素朴な疑問を口にする。
彼とは高校時代は面識がなく、今日初めて会話を交わした。

「いやなんかもう、落ち込むってよりは、呆れと怒りというか。『そろそろ同棲とか結婚とか考えない?』って自分が言ってたのに、浮気って。意味がわからないし。ていうか、入社して間もない後輩に手を出すとか、倫理観どうなってんだって感じだし」
苛立ちに任せて、私は少し荒れた手つきでローストビーフを口に投げ込んだ。

噛みちぎるお肉の旨味も、今はどこか遠くに感じる。

「いやーもうね。澪がそんな最悪男と結婚しなくて済んで、私は心底ホッとしてるよ?」
この一か月、何度も私の愚痴を聞かされてきた杏奈が、眉を下げて笑って慰めてくれる。

背が高くてスラッとした美人なのに、お酒に弱いという最強のギャップを持つ彼女。
たぶんまだ二杯くらいしか飲んでいないはずだが、すでに頬を赤らめていた。

今日この飲み会を持ちかけた藤崎くんも、さっきからずっと彼女の方をニコニコと見つめている。

「てか、その元彼、河合? だっけ? 何組だったの? 顔が思い浮かばない」
藤崎くんと、もう一人の男子も斜め上を見つめながら記憶を探っている。
同じ高校だったのに、元彼の河合拓巳は、そこまで目立つタイプではなかったから思い出されないらしい。

まあ、目立たなかったのは、私も同じなんだけど。
同じバレー部で仲良くなった杏奈は学年でも一、二を争う人気っぷりだったので、男子から見れば私は「杏奈とその友達」くらいの認識だと思う。

「すみません! これと同じやつください!」
通りがかった店員さんを呼び止め、私はグラスを掲げておかわりを注文した。
「強いね」
「営業なんで!」
驚く男子たちにハキハキと答えると、藤崎くんが笑いながらなだめてきた。
「まあまあ、今日はイケメンも呼んでるんで。元彼のことは忘れて楽しもう!」
「ん? イケメンって?」
「史人だよ。仕事で遅くなるらしいけど誘ってある」

『ふみと』?
……あ。

「陸上部の芦田くん?」
「あーそうそう、やっぱりイケメンは覚えてるよな!」
からかうように言われ、たしかにと頷く。

同じクラスになったことはないけれど、女の子たちに騒がれていたし、私も遠くから眺めて「カッコいいな」と思っていたからよく覚えている。

そのあとしばらく、みんなの仕事の苦労話なんかを聞きながらグラスを傾けていると、入り口の方からカランカランとドアベルの鳴る音がした。

「おひとりさまですか?」
「……いや。待ち合わせで」

ガヤガヤとした店内に、少し低くて、聞き慣れない声が届く。

店員さんに案内されて私たちのテーブルに近づいてくる長身の姿に、男子たちが「おー、史人! おつ!」と手を上げて合図した。
彼は静かに目で返事をする。

ネイビーのシンプルなロンTに、皺のないベージュのチノパン。
高校時代はもっと短髪だった記憶があるけれど、今は少し髪が伸びていて、額の前で長めの前髪を分けていた。

「……どうも」
荷物入れのボックスに仕事用のリュックをドサッと入れながら、彼――芦田くんは杏奈と私に向かって短く挨拶した。

私たち二人も「どうもー……」と遠慮がちに返す。

私たちはソファ席、男子たちは通路側の椅子に座っていたのだが、彼はそのまま男子たちの隣、私の斜め前にあたる席に腰を下ろした。

「……あ、ビールで」
彼が注文を聞きにきた店員さんに短く告げると、隣の藤崎くんが「こちら、芦田史人くんでーす!」とやたらテンション高く自己紹介を代行した。
「三年の時一緒のクラスで仲良くなってさー」
そう付け加えられたが、当の芦田くんは何も言わず、無言のままおしぼりを開けてサッと手を拭いていた。
「……クールだけど怒ってるわけじゃないんで!」
藤崎くんが慌ててフォローを入れる。

「私たちのこと、覚えてる?」
少し眠そうな目で杏奈が尋ねると、彼は杏奈と私の顔を一目ずつ見て、「……顔はわかる」とだけ言った。
「坂本杏奈と、高梨澪でーす」という杏奈の紹介に合わせてペコッとお辞儀をすると、彼も軽く頭を下げた。

彼が運ばれてきたビールを手に持つ。
「じゃあ、改めて、カンパーイ!」
みんなで再びグラスを合わせた。

「仕事忙しいん?」
藤崎くんが、お皿やフォークを差し出しながら尋ねる。
「まあ、ぼちぼち」
それらを受け取りながら、無難な答えを返す芦田くん。
「何やってるの?」
「サービス開発のエンジニアだね」
杏奈の質問にも淡々と答えるその姿を見て、クールな彼がPCに向かって冷静にシステムを開発している姿が似合い過ぎていて、私は心の中でひそかに感心していた。

彼は疲れた喉を潤すように、あっという間にグラスのビールを空にした。

そして、ふと視線を下げ、同じく空になっていた私のグラスを見つめた。
「……なんかいる?」
「あっ! じゃあ……赤ワインで!」
唐突に声をかけられ、少し狼狽えながら答える。

彼は騒がしい店内で、通りがかった店員さんに私の注文もあわせて伝えてくれた。

なんだろう、この人。
色気がすごいな。
注文を受ける店員さんの女性も、心なしか少し頬を染めて照れているように見える。

運ばれてきた赤ワインを彼が受け取り、私に手渡してくれた。
その自然な流れを見ていた藤崎くんが目を丸くする。
「高梨さん、それ何杯目?」
「……六、です」
「すげーな、お酒強いと職業柄有利だよな」
同じ営業職である藤崎くんに羨ましがられる。

それを聞いていた芦田くんが、少し気怠そうな視線を私に向けた。
「……仕事なに?」
「あ、人材派遣の営業です!」
ハキハキと答えたものの、「へー」と短く返されただけだった。
(うっ……絶対興味ないでしょ、今の)
「高梨さんは今日は飲みたい気分なんだよな? 史人も聞いてやってくれよ」
藤崎くんが泣き真似をしながら余計なパスを出す。
いきなり彼に愚痴を聞かせる流れになってしまい、申し訳なさから口ごもる。
「いやっ……たいして面白くもない話なんだけど……」
そう言いかけた瞬間、芦田くんが自分のグラスを持ったまま立ち上がり、私の斜め前から、隣のソファ席へとドサッと移動してきた。

「声聞こえないから」

と、短い一言。

いや、たしかに金曜日の店内は相当ガヤガヤしているし、対面だと声は通りにくいかもしれない。

(でも……近い…………)

私の身体のすぐ右側に、彼の身体がある。

ソファが沈み込む感覚とともに、彼から漂う清潔な柔軟剤のような香りと、微かな体温が伝わってきた。

こんなイケメンが至近距離にいることに慣れていなくて、一瞬思考が停止しそうになる。
それでもなんとか気を取り直し、「あのね……」と、元彼との最悪な浮気発覚事件を話し始めた。



「それで! あいつ、玄関前で私に『ちがうっ、ちがうんだよ!!』しか言わなくて。『何が?』って聞いても、『なんでそんなに冷たいの……』しか言わなくて。意味わかんなくない?」
「……意味わかんねえな」
彼はフッと短く笑いながら、おかわりしたビールを喉に流し込んでいる。

最初は簡潔に済ませるつもりだったのに、気づけば細かいやり取りまでだらだらと話してしまっていた。
芦田くんは決して興味津々というわけではないし、相変わらずテンションも低い。
けれど、絶妙なタイミングで適度に頷き、短い共感の言葉を挟んでくれるものだから、つい饒舌になってしまったのだ。

最初に緊張で強張っていた身体の右側も、今ではすっかり彼の体温に馴染み、むしろ居心地がよく感じてしまうほどだった。

ふと左肩に重みを感じて見やると、杏奈が私の肩にもたれかかりながら夢の中へと旅立っていた。
向かいの席では男子二人が、身を乗り出して仕事の話か何かで熱く盛り上がっている。

私は元々お酒に強い方だし、そんなに酔っ払っているわけではない。
けれど、金曜の夜特有の疲労感と、元彼の浮気事件によるダメージと……。
そして何より右側から伝わる芦田くんの安定した体温で、いつもよりお酒が回ったのか、頭の中がふわふわとしてきた。

「すいません、白ワインください」
彼が軽く手を上げて店員さんを呼ぶ。

全く声を張っていないのに、低く透き通った声は不思議とよく通った。

(こんなにカッコよくて落ち着いているんだから、当然彼女がいるだろうな)

そう思いながら、私は横顔に向かって問いかけた。
「芦田くんは、彼女いるの?」
「いない」
「ふーん。モテそうなのに」
私がそう言うと、彼は何も答えずただ黙って前を向いたままだった。

そのまま、スッと通った鼻筋から顎にかけてのラインをじっと見つめていると、不意に高校時代の記憶の欠片が蘇ってきた。

――『あっ! ごめんなさい!』
――『…………』

「あ! 思い出した」
「ん?」
「高校のとき、友達とくだらない話で盛り上がってたら、廊下で芦田くんとぶつかっちゃって。謝ったら、無言で見下ろされたことある」
もちろん芦田くんは覚えてないだろうけど、と笑いながら付け加える。
「……ごめん、覚えてないわ」
「だよね」
「俺、目悪いから。睨んでたわけじゃなくて、ただ焦点合わせようとして見ただけだとは思うけど」
「あはは、そうなんだ」

少しの間の後、彼が不意に視線を宙に向けた。
「……俺も思い出した。高二の球技祭で、大活躍して優勝してなかった?」
(え!)
それはきっと、私が女子バレーに出て優勝した時のことだ。
あの時のチームはバレー部員が私一人しかいなくて、必死にチームを引っ張って頑張っていたから、おそらく私のことで間違いない。
「えー! 覚えてたの!? 嬉しい!」
思いがけない言葉に、懐かしさで自然と顔が綻ぶ。

「いやー、高校って楽しかったよねえ」
色々な思い出が頭の中を巡る。

そして最後に思い出したのは、卒業式の日。
顔を真っ赤にしながら照れくさそうに告白してきた、あの浮気者の元彼、拓巳の顔だった。

「…………」

(いやいや、忘れよう。今はもう関係ない)
頭を振って嫌な記憶を振り払い、コップに残っていたワインを一気に飲み干す。

ふと視線を感じて顔を上げると、芦田くんが私のことをじっと見つめていた。
「なに?」
「…………」
彼は黙ったまま、目を逸らさない。

鋭くて、どこか奥底に吸い込まれてしまいそうな、深い色の瞳。
頭で考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。

「……相変わらず、カッコいいね」

「…………は?」
突拍子もない私の言葉に、彼は心底気の抜けたような声を漏らす。
「あっ、いや、ごめん」
ハッとして慌てて謝る。

(でも、だってカッコいいんだもん、仕方ないじゃん)

内心でそう開き直りながら、次の一杯を頼もうと店員さんに声をかけようとした、その瞬間だった。

ふわりと柔軟剤の香りが近づき、耳元に微かな吐息がかかる。

「……続き、うちで飲む?」

しばらくその言葉の意味がわからなくて、フリーズしてしまった。
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