『サヤームの鈴 ―日本人村の軍師になった男―』~400年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~

第二章 八百万の神のいない国




1.一眼レフと雄鶏

 鼻腔を突くのは、泥の匂いと、獣の糞が陽光に焼かれたような噎(むせ)返る臭気だった。

 朦朧とした意識が戻り始めたころ、レックの視界を支配していたのは、現代のアユタヤ遺跡で見るような、角の取れた穏やかな赤レンガではなかった。

「……っ、熱い……」

 頬を押し付けている地面は、焼けた鉄板のように熱を帯びている。

 ハナに腕を強く引っ張られ、身を起こそうとして、レックは息を呑んだ。

 目の前にそびえ立つのは、巨大な三基の仏塔(チェディ)――ワット・プラシーサンペットだった。

 だが、それは資料写真や観光地として知る現代の姿とは、似て非なるものだった。

 崩落していたはずの尖塔は、一点の曇りもなく天を突き、表面を覆う金色の漆喰は眩い光を放っている。

 彫り込まれた仏像の指先、天衣の(ひだ)にいたるまでが鋭利な輪郭を保ち、その一部には、気が遠くなるほどの黄金が施されていた。

 仏塔の基部には、多孔質の赤い天然石「ラテライト石材」が堅牢に積み上げられ、熱帯の湿気を吸って赤黒く沈んでいる。

 それは信仰の場というよりは、王権の絶対的な不可侵性を示す、巨大な精神の壁のようだった。

「ここは……本当に、あの場所なのか?」

 顔を上げると、そこには「幻覚」では済まされない光景が広がっていた。

 王宮を望む川幅の狭いロッブリー川を、帆を掲げた朱印船が悠然と転針していく。

 河岸には、竹と椰子の葉で編まれた高床式の大きな家々が数キロにわたって連なり、その合間を、上半身を裸にしたタイの民が小舟を操って行き交っている。

「あんた、早く起きなさい、仏様に尻を向けて寝ていると、首を撥ねられるわよ!ลุกขึ้นเดี๋ยวนี้สิ!」

「それと、さっきから抱えている雄鶏、なんとかしなさいよ!」

 ハナの声に、レックは首から掛けていた一眼レフに触れようとした。

 だが、指先が触れたのは冷たい金属のボディではなく、生温かく、羽ばたく生き物の感触だった。

 一眼レフは、いつの間にか一羽の雄鶏へと姿を変えていた。

「売るの、売らないの? 売らないなら私が戴くわ!」

 ハナがさらに力を込めてレックの腕を引っ張ったその時、人混みの奥から、他の村民たちとは明らかに違う、絹の羽織をまとった恰幅のいい男が現れた。

 鋭い眼光を湛えたその男が口を開くと、周囲の空気が一変した。

「なんの騒ぎな。こん暑いさなかに、血ば流す気か?」

 男の名は、津田又左衛門。 

 肥後藩(長崎県)の商人で、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)の重鎮として、長政よりも早くアユタヤに渡り、日本人町の自治を預かる実力者である。

「これは、又左衛門様……」

 お付きの浪人たちが一斉に姿勢を正した。

 又左衛門は、レックの腰で力なく揺れるキティの鈴と、見たこともない細工の鍵束を凝視し、特有の長崎弁で問いかけた。

「ハナ、こん妙ちきりんな格好ばしとる男ば、あんたの知り合いなのか? ……どこばどがん見ても、真っ当な人間の風体(なり)じゃなか。その服の(ロゴ)は何な。天草の乱波(らっぱ)か、さもなくば異教伴天連の(まじない)か?」

「……いえ、この方は、遠い南方の村から参ったのです」

 ハナの咄嗟の嘘に、又左衛門は鼻で笑った。

「嘘ば言え。南方の村に、そがんおかしな言葉ば喋る奴はおらんと。……おい、お主。そん『きてぃ』とかいう鈴はどこの出だ? 吐かんとなれば、ここで首ばねじ切ってもよかぞ」

 レックは咄嗟に現代の、少し丁寧すぎる日本語で問いかけた。

「あの……日本人……の方、ですか?」

 だが、又左衛門の反応は氷のように冷ややかだった。

「にほん……じん? お主、何処の訛りだ。やはりキリシタンの呪か」

 傍らにいた浪人の一人が、レックのTシャツに描かれた英語のロゴを、忌々しそうに刀の鞘の先で突いた。

「いえ、僕は……僕はバンコクから来たんです。日本に留学していて……」

「ばんこく? 留学? ……また訳の分からぬ口を叩くな」

 男たちの表情から、余裕が消えた。

 彼らの目にあるのは殺気だ。

 レックは焦り、母国語である「タイ語」に切り替えた。

『私はタイ人です。道に迷って……警察はどこですか? 助けてください!』
(ผมเป็นคนไทยครับ ผมลงทาง... ตำรวจอยู่ไหนครับ โปรดช่วยผมด้วยครับ!)

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、周囲を歩いていた農民たちまでもが足を止め、怯えたような、あるいは蔑むような目でレックを見た。

 現代のタイ語は、400年の時を経て変質している。

 現代的なイントネーションや語彙は、17世紀のアユタヤの民には「タイ語に似た、不気味な言語」にしか聞こえないのだ。

「おのれ、やはりビルマの密偵か! さもなくば、南蛮の妖術使いか!」

 抜刀の音が響いた。

 白刃が午後の陽光を反射し、レックの鼻先に突きつけられる。

 鋼の冷たさと、微かな油の匂い。

 レックは悟った。

 自分が学んできた歴史も言語も、ここでは盾にはならない。

 むしろ自分を異形(いぎょう)の者として死へ追いやる鎖でしかないのだと。

「待ってください! その方は、私の知人です!本当です!」

 ハナは声を張り上げた。

 彼女は汚れた麻の着物を翻し、抜身の刀の前に身を投げ出した。

 その必死な瞳がレックを射抜く。

 彼女がなぜ嘘をついてまで自分を助けるのか、レックには分からなかった。

 ただ、彼女の肩越しに見える金色の巨大な仏像だけが、慈悲のかけらもない無表情で、この「八百万の神」さえいない異国の惨状を見下ろしていた。

 又左衛門は鼻で笑い、レックの胸元から雄鶏をひったくった。

「ふん、よか。……連れて行け。日本人町の牢にぶち込んで、干からびるまで素性を吐かすればよか。それとその雄鶏はわしがもろうとくばい」

 レックは屈強な浪人たちに両腕を捻り上げられ、土埃の舞う路地へと引き立てられた。

 背後でハナが何かを叫んでいたが、その声は熱を帯びた風にかき消された。

 時は西暦1627年、仏歴2170年の12月のことだった……。





2.牢屋の呪術


「さぁ入れ、大人しくしとれば、命までは取らん……たぶん、な」

 浪人に背中を蹴飛ばされ、レックは湿った床に転がった。

 重い鉄格子の扉が閉まり、鈍い金属音が響く。

 そこは、日本人町の外縁に位置する、半地下の牢屋だった。

 壁面には無骨なラテライトの石材が積み上げられ、熱帯の湿気を吸って赤黒く沈んでいる。

 レックは震える手で、ポケットの中を確認した。

 指先に触れるキティの鈴と、バイクの鍵束。

 この冷たい金属の感触だけが、自分を「2026年の人間」として繋ぎ止める唯一の錨(アンカー)だった。

「……落ち着け!落ち着くんだ!」

 通路には一人の牢番が座り、手持ち無沙汰に竹の棒を削っている。

 その傍らには、又左衛門が奪っていった「あの雄鶏」が、足を縛られて転がされていた。

 そこへ、軽い足音が響く。

 ハナだった。

 彼女は竹で編んだ籠を抱え、シャム人の若い牢番に小さな包みを渡すと、格子の隙間からレックを覗き込んだ。

「これ、食べなさい。死んだら、あんたを助けた私の嘘が、無駄になるじゃない」

 差し出されたのは、バナナの葉に包まれた黒ずんだ塊だった。

 レックが口に運ぶと、強烈な腐敗臭と、舌を刺すような辛味、そして喉の奥にへばりつく薬草の過酷な苦味が襲った。

「……っ、これは?」

「プラ・ラーปลาร้า(川魚の塩辛)の薬草和えよ。悪い霊が憑かないように、苦い木の実を混ぜてあるわ」

 あまりの不味さに涙が出るが、その刺激が、朦朧としていたレックの脳を覚醒させた。

「ええ、これがプラ・ラーなの?アユタヤ時代の味?不味くて食えないよ!」

「でしょうね、私の村の日本人も決して食べないわ、ははは!」

 ハナが白い歯を見せて大声で笑うと笑窪ができる。

 確かに有希も同じような笑窪ができて、本当に可愛らしかった。

 しかし、今のレックにとっては、この不条理な味こそが、今この時代の「現実」なのだと悟るのだった。

 レックは気を取り直し、ポケットからキティの鈴と、ホンダのロゴが入ったバイクの鍵を取り出した。

 暗い牢屋の中で、ホンダのロゴが刻まれたニッケルメッキの鍵が、鈍く、薄明かりの中で光を反射する。

(こいつは使えそうだな……)

 レックはわざと、有希との形見の鈴を「チリリン……」と軽く鳴らした。

「ちょっと、あんた、何おっぱじめる気なの?」

 驚きの目で耳元に囁くハナの声がくすぐったい。
 
 レックは、じわりと鍵の鋭いエッジを牢番へと向けた。

「ハナ、僕の言葉を訳してくれ。……『その鶏を今すぐ放せ。さもなくば、この“呪いの鍵”が封印を解く。お前の家系は三代先まで、この鈴の音とともに魂が削り取られることになるだろう』と」

 レックの発する低い声がハナの耳元に響く。

 彼女一瞬、呆気に取られたが、レックの話す現代の日本語を理解したのか、声色を変えて牢番へ語りかけた。

 ハナがアユタヤ時代のタイ語で、より呪術的なニュアンスを込めて翻訳する。

 シャム人の牢番の動きが止まった。

 彼は、レックが掲げた「銀色の物体」を凝視した。

 17世紀の技術では、これほどまでに歪みのない鏡面、これほどまでに鋭利で複雑な溝を掘り出すことは、神か悪魔にしか不可能だ。

 ましてや、その横で揺れる「奇妙な白い猫(キティ)」の無表情な顔が、彼には底知れぬ呪いの偶像に見えた。

「……そ、そんな呪いなど……だ、だれが信じるものか!」

 牢番の声が、ガチガチと震え始める。

 レックは追い打ちをかけるように、現代日本語で、あえて感情を殺した無機質な声を響かせた。

「システム起動……全回路、接続。ターゲット、ロック!」

 意味は通じない。

 だが、その「未知の言語」の響きは、牢番にとって致命的な死の宣告に聞こえた。

「さあ! 鈴が独りでに鳴り始める! この“呪いの鍵”が、お前の命を喰らおうとしているわ!」

 ハナが語尾を強くしていく。

 牢番は悲鳴を上げ、縛られていた雄鶏を放り投げると、尻餅をつきながら闇の中へと逃げ出した。

 「……ふん、案外(もろ)いわね」

 ハナは皮肉げに笑い、牢番が落としていった牢屋の鍵を拾い上げた。

 彼女の指先が、一瞬だけレックのバイクの鍵に触れる。

 そのとき、ハナの顔から嘲笑が消えた。

「これ……本当に、この世の物じゃないのね。冷たくて、滑らかで……まるで、月の欠片みたい」

 彼女の心の底で、何かが静かに変化した。

「これって……」

 そう言いかけて、彼女は鍵束をレックに返した。

 騒ぎを聞いて駆け付けた津田又左衛門に、ハナは冷静な落ち着いた口調で願い出た。
 
「津田様、この“呪いの鍵”は扱いを間違えると一族が滅びる恐ろしい代物です。私が預かり、長政様の前でこの男に説明をさせます。どうかこの者を牢屋から出してください」

 又左衛門は、ハナの強引な押しに根負けして、レックを一時釈放することにした。
 
 ただ、レックをハナの屋敷で暫く面倒を見ることを約束させた。

 泥だらけの道を行く途中、前方から数頭の象と、武装した兵士たちの行列が現れた。

 周囲の民たちが一斉に平伏する。

「伏せなさい! 御大将が通られるわ」

 ハナに腕を引かれ、レックも道端に膝をついた。

 行列の中心にいたのは、馬上に黒塗りの甲冑を身に纏い、南国の太陽を浴びてなお涼しげな眼光を放つ、一人の日本人だった。 

 山田仁左衛門(にざえもん)長政。

 アユタヤ王国の上級官職「オークヤー・セーナーピムック」に昇り詰め、日本人義勇軍を率いる英雄。

「……長政様だ。これから『日本人会評議(ひょうぎ)』へ向かわれるところよ。次の王位継承の件で、町中が殺気立っているわ」

 背の丈が六尺(約180センチ)もあるうえ、馬上の勇姿は大王の如く大きく見える。

 その視線が、異様な格好をしたレックと、その隣に立つハナに注がれる。

「ほぉ……又左衛門殿の言っていた『魔界の妖人』とは、お主のことか!」

 長政の声は低く、そして深い知性に満ちていた。

 歴史の教科書で見た英雄の姿ではない。

 レックは自嘲気味に、しかし確かな高揚感とともに、心の中で呟いた。

八百万(やおよろず)の神はこの国にはいない。……だけど、信じるに値する一人の『人間』なら、今、目の前にいる)

 王位継承という名の、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が渦巻く嵐が吹き荒れる直前のことだった。 

 時は西暦1627年、仏歴2170年も終わろうとしていた。 






3.鯰の蒲焼とラオ・カーウ


 ハナの屋敷は、日本人町の中心部に位置する、質素ながらも手入れの行き届いた高床式の建物だった。

 階下の軒先では母親のお滝が、炭火焼きの鯰の蒲焼を忙しなく売り捌いている――立ちのぼる香ばしい煙が路地に溶け、行き交う人々の足を自然と引き留めていた。

 高価な日本の鰻に代わり、タイの運河で獲れる鯰を工夫して調理したもので、現地の香辛料で作った甘辛いタレが絡んだ身は驚くほど柔らかく、町一番の繁盛店のようだった。

 夕刻になると、町人たちが足を止めては一串を頬張り、屋敷の帳場では奉公人が忙しく算盤を弾いていた。

 屋敷の土間には陶器や絹織物が整然と並び、香辛料や鹿皮、鮫皮が積み上げられている。

 商家でありながら屋台の活気を抱え込むその佇まいは、日本人町でも指折りの富を蓄えていることを物語っていた。

 ハナに連れられ、炭火の煙が立ち込める長屋の奥へ足を踏み入れたレックは、その光景に息を呑んだ。

 薄暗い広間、上座にどっしりと胡坐をかいているのは、紛れもない山田長政だった。

 脇には、抜き身の刀のような鋭さを放つ老狐、津田又左衛門が控えている。

(……本物だ。歴史の教科書が、目の前で呼吸している)

 レックの脳裏には、彼が知る「結末」が走馬灯のように駆け巡っていた。

 リゴールへの左遷、負傷、そしてカラーホームの放った刺客による毒殺――。

「……おめえ、名は、レックと言ったか。まあ、座れや。おめえの身なり、確かにこのシャムの都じゃ見ねえ代物だら。一体どっから来ただ?」

 少し「ラオ・カーウ」(白酒・焼酎)が回り始めた長政が、少し頬を紅潮させて、お国訛りの駿河弁になった。

 レックは拍子抜けし、長政の生の姿を暫し茫然としていた。

 しかし、長政の瞳は凄まじいオーラを秘めた眼差しで、レックの眼を見据えたままだ。

「私は……。長政様、単刀直入に申し上げます。リゴールへは行ってはなりません。パッタニー軍の討伐命令はカラホームの罠です」

 思わず口を突いて出た言葉に、一座が凍りついた。

 又左衛門が、盃のラオ・カーウをグイと飲み干した。

「な、なんば言いよっか、お主は! 長政様は、カラホーム、シーウォラウォン長官殿から直々に全権ば託されたったぞ。一気に蹴散らして、アユタヤに武名ば知らしむる絶好の機ばい。どこの馬の骨とも分からん男が、軍略に口ば出すな!ばってん、あの雄鶏は美味かったばい!」

 酔いが回って、又左衛門は気に障ったのか、声を荒げた。

だがレックには「雄鶏は美味かった」としか理解できなかった。

 レックは手酌で白酒を(あお)る又左衛門を一瞥し、長政に向き直った。

「軍略ではありません! これは、あなたの命に関わることなのです!そこへ行けば、あなたは二度とアユタヤへは……」

 長政は右手を振ってレックを制しながら、鯰の蒲焼を一口齧った。

「おめえの言いてえこたぁわしにもわかるだに。でもよ、こればっかりはお上のご命令だら、又左衛門さんの面子(メンツ)もあるでな……」 

―長政の声が上ずったように響いた。

 それは、あまりにも大きな自信に裏打ちされた、余裕すら滲む響きだった。

「シーウォラウォン長官殿は拙者を信じて、国の憂いを託してくれただ。武士が主君の言いつけ受けて戦場へ向かう、そりゃあ当たり前のことだら。何の疑いがあるだがや。おめえの言う『罠』とやらが何だろうと、拙者の剣で叩き斬るまでのことだに……」

 長政の飄々(ひょうひょう)とした言い方にレックは戦慄した。

 長政にとって、シーウォラウォンはまだ「共に王朝を支える戦友」なのだ。

 裏切りを予言するレックの方が、この場では「狂人」に過ぎない。

(言えない。……『彼は後にあなたを殺す男だ』なんて、今の彼に言っても届かない)

 レックは唇を噛み、黙り込んだ。

 現代の知識が、四百年前の「信頼」という名の不条理に完敗していく。

 そこへ、ハナが盆を持って入ってきた。

「はいはい、物騒なお話はおしまい。熱いうちに食べなさいよ」

 差し出されたのは、追加のラオ・カーウの徳利と、香ばしく焼けた鯰の蒲焼だった。

「ほら、レックさんも。あんた、さっきから顔色が真っ青よ。この酒でも飲んで、少しは正気に戻ったら?」

 ハナの差し出した盃を受け取ったレックの手は、小刻みに震えていた。

 長政は無造作に蒲焼を頬張り、豪快に笑った。

「はっはっは、うめえ! いいかレック、案ずるな。拙者が戻った暁にゃあ、おめえを正式に召し抱えてやるだ。……又左衛門殿、さっそく支度いたそうか」

合点(がてん)! 準備は万端ばい。こぎゃん不吉な事ば抜かす野郎は、放っておきんしゃい」

 そうして二人はほろ酔い気分で店を出て行った。

 後戻りのできない刻限が、静かに刻まれていく。

 レックは冷めた白酒を煽り、泥のような苦みを感じた。

 そして独り、裏庭へ出てチャオプラヤ河に沈みゆく夕陽を見つめた。 

 片付けを終えたハナが、柱に背を預けてレックを冷ややかに見つめていた。

「……あんた、長政様に何を吹き込んだの?」

「……ちょっと気になったことを話しただけだよ、でも、聞き入れてもらえなかったよ」

 ハナは、鼻で笑った。

「当たり前じゃない。あの方は、あんたの『まやかしの呪術』で動くような人じゃないわ」

 ハナの言葉は、レックの胸に鋭い棘のように刺さった。

「……あの方を救うつもりかもしれないけれど、下手をすれば、あんたが命を落とすわよ」

 ハナはそれだけ言うと、鯰の焼ける匂いが染み付いた暖簾(のれん)をくぐり玄関先へと消えた。

 アユタヤの湿った夜風が頬を撫でた。

 レックは腰の鈴に手をやった。

 キティの鈴は、もう鳴らなかった。

 その代わりに、運命の歯車が軋んだ音を立てて回り始めたのを、彼は確かに聞いた。

(第三章へつづく)
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