『サヤームの鈴 ―日本人村の軍師になった男―』~400年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~

第三章 丁稚奉公のレック



1. 商人(あきんど)のお滝

 アユタヤの朝は、水蒸気と腐葉土、そして何かが焦げる匂いから始まる。

 アユタヤ日本人町の片隅。

 高床式のハナの家の軒先で、レックは所在なげに立ち尽くしていた。

 昨夜、一人で客間に残され、供されたラオ・カーウ(白酒)をしこたま飲んだ挙句、そのまま板張りの床で泥のように眠りこけていたらしい。

 頭の芯に残る鈍い痛みと、南国の湿った熱気が、容赦なく現実を突きつけてくる。

 目の前を流れる、運河の濁った水面を見つめながら、レックは昨夜の光景を|反芻《はんすう
》した。

 馬上から射貫くような視線を投げかけてきた山田長政。

 あの圧倒的な威容は、歴史の教科書という薄っぺらい紙の上に閉じ込められるような代物ではなかった。

(あれが幻覚でないなら……俺は本当に、取り返しのつかない場所に来ちまったんだな)

 ほんの数日前までの自分なら、むさくるしいバンコクの安アパートでスマホのアラームに叩き起こされ、採用される見込みのないドキュメンタリーのプロットを書き散らし、唯一の生命線であるデリバリーアプリの配送依頼通知に一喜一憂する日々。

 交通渋滞の排気ガスと、液晶画面から流れる無機質な情報の洪水。

 それがレックの知る「世界」のすべてだった。

 しかし今、足元に触れるのはアスファルトではなく、ぬらりとした湿った土の感触だ。

 耳に届くのは自動車のエンジンの咆哮ではなく、名も知らぬ熱帯の鳥の鳴き声と、どこか遠くで響く木槌(きづち)の乾いた音。

 西暦1628年、仏歴2171年初頭。

 自分がその「過去」という名の異界に着地してしまったという事実が、未消化の酒とともに、重い鉛のように胃の底へ沈んでいた。

「……ちょっと!いつまで、死んだ魚みたいな目をして突っ立ってるんだい」

 背後から、甲高い、しかし芯の通った声が突き刺さった。

 レックが弾かれたように振り返ると、そこには立ち昇る白い煙を割って、一人の女が仁王立ちしていた。

 ――お滝。

 ハナの母親であり、日本人町で一際繁盛している「(なまず)蒲焼(かばやき)屋」を切り盛りする女主人だ。

 彼女が年季の入った団扇(うちわ)を大きく振るうたび、炭火の上で脂の乗った鯰がパチパチと音を立てる。

 甘辛い醤油が焦げる香りが、レックの空腹を暴力的なまでに刺激した。

「母さん、この人まだ寝ぼけてるのよ。

 牢屋でプラ・ラーを食べさせたときは、あんなに威勢がよかったのに……」
 
 奥からハナが、呆れたような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて顔を出した。
 
 レックはお滝の顔をまともに直視できなかった。
 
 ハナが亡き恋人・有希(ゆき)の面影を宿しているなら、このお滝は、有希がそのまま過酷な時を重ね、異国の泥にまみれて魂の骨格を太くしたような、圧倒的な存在感を放っていたからだ。

「あんた、名は?」

「あ、あの……レック、です」

 お滝は娘のハナから聞いている筈なのに…

 彼女は手を止めずに網の上の鯰を素早く裏返した。
 
 その無駄のない手つきには、長年この町で生き抜いてきた女の凄みが宿っている。

「レック? シャムの人かい? “小さい”って意味だね。似合わない体格(がたい)をしてるじゃないか。ハナから聞いたよ。又左衛門様の前で、妙な呪術を使ったんだって?」

「呪術なんて、そんな大層なものじゃ……。ただの、言葉のまやかしです」

 レックは、以前仕事の合間に携帯で観た、タイの時代劇の主人公を思い出し、あえて語尾を丁寧に、かつ古風な響きを持たせたタイ語で答えた。

 その瞬間、お滝の持つ団扇がぴたりと止まった。

 彼女の瞳に、言い知れぬ驚きと、深い霧の奥から何かを探り当てるような鋭い色が浮かぶ。

「……あんた。今、その言葉、どこで覚えた?」

 お滝の追及は、先ほどまでの世間話とは明らかに温度が違っていた。

「どこって……その、昔の伝承とか、その、あの……」

 “携帯の映画を観て覚えました” などと言ったら、あの脂ぎった大きな団扇で頭を叩かれるのは目に見えていた。

「ふん。はぐらかす気かい。だがね、その節回し、言葉の選び方……。単なる商人や野良犬の使う言葉じゃない。昔、この町を訪れ、流行り病に苦しむ民を救ったという日本人の仏僧の話を聞いたことがあるのさ」

 お滝は煙を振り払うように団扇を一度大きく仰ぎ、遠い空を見つめた。

「あのお方は、今の王位争いさえも悲しげな瞳で予見されていた。あんたの言葉には、あのお方と同じ、この時代の人間には持ち得ない『先を見通す響き』がある。まるで、未来の出来事を、ただの過去として語っているような不気味な響きだよ」

 お滝は団扇を置き、焼き上がったばかりの鯰の一串と、もち米の詰まった竹筒(ガティップ・カオ)をレックの前に突き出した。

「食いな。理屈はどうあれ、あんたのその言葉には、この村の連中を黙らせる不思議な“重み”があるようだね」 

 レックは差し出された串と竹筒を受け取った。

「いやぁ、あの、それは違うんです。そうじゃなくてあのぅ……」

「何をぶつぶつ言ってんだい。あのさ、うちはまだまだ働き手が足りなくてね、あんたのその図体、うちの“便利屋”として役立ててみるかい?」

 立ち昇る熱気とともに、口に含んだ鯰の脂は、昨夜の腐敗臭のするプラ・ラーとは対照的な、強烈で力強い生命の味がした。

「ああ……お、お願いします。何でもやります」

「よし。じゃあ、まずはその薄汚い格好をどうにかしな。今日からあんたは、うちの看板息子だ」

 お滝の不敵な笑みは、有希が時折見せた、勝気で眩しい表情そのものだった。

「それと最近はなんだか王宮周辺が物騒になってきて、町にもシャム人の武官や官吏が出入りするようになってきたんだよ。何かあった時の用心棒にもなって頂戴ね……」

 レックは何も言わず、ただただ首を上下に動かし頷くだけだった。

 1628年のアユタヤ—レックの異界での生活は、一軒の鯰の蒲焼屋の煙の中から、静かに、しかし抗いようのない勢いで動き出した。




2.雷魚獲りとガレオンの影

 お滝の店で(なまず)(さば)く生活が始まって数週間。

 レックの日常は、夜明け前の仕入れから始まった。

 アユタヤの湿った朝気が立ち込める中、レックは店先のあ炭床を整え、お滝の厳しい監修のもとでタレの煮詰め作業を手伝う。

「いいかい、レック。火加減は命だよ。焦がせばただの炭だし、弱ければ泥臭さが残る。あんたのその大きな体は、うちの団扇(うちわ)を仰ぐためでもあるんだからね」

 お滝の叱咤が飛ぶ。

 レックは、現代の仲間とキャンプで培った、バーベキューの炭の扱いとは次元の違う、職人的な火起こしに悪戦苦闘していた。

 しかし、ひとたび焼き上がれば、その香ばしさは日本人町の通りを支配した。

「母さん、レックにばっかり厳しくしちゃって。この人、これでも長政様からも一目置かれているのよ」

 ハナがくすくすと笑いながら、朝食のカオトム(タイのお粥)を運んでくる。

 しかし、具材には朱印船で運ばれてきた、日本の紀州の梅干しや、津田又左衛門の地元、肥後藩からのイワシの煮干しが入っている。 

「ふん、長政様がねぇ。うちじゃ、ただの“丁稚奉公(でっちぼうこう)”さ。ほら、レック、手が止まってる! 炭の声を聴きな!」

 お滝の勢いに押され、レックは「はい!」と裏返った声で答えるしかなかった。

 昼時になれば、ハナと並んで接客に追われる。

 二人は交互に忙しく狭い店先を動き回るが、すれ違うたび、レックの鼻腔をかすめるものがあった。

 それは、ハナが身にまとっている柔らかくも甘いお香の匂いだ。

 タイで古くから愛される「ジャスミン」の花のような、蜜の甘さと湿り気を帯びた香りが、レックの胸を不意に締め付ける。

(有希の匂いだ……いや、違うけれど)

 有希が好んでいたのは、デパートのカウンターで買った少し背伸びしたブランドの、柑橘系が混じる甘酸っぱい香水だった。

 ハナのお香はそれよりもずっと土着的で、この熱帯の空気に溶け込んでいる。

 そして彼女が笑った瞬間の、頬の曲線や目元の柔らかさまでもが有希を想起させ、レックは時折、自分がどの時代、どの世界に立っているのか分からなくなるほどの眩暈(めまい)を覚えた。

 レックは、色々と店の“改善”を思いつき、現代の飲食店では当たり前の「おしぼり」の提供を始め、さらには「松・竹・梅(まつ・たけ・うめ)」の価格設定を提案してみた。

 松・竹・梅……江戸時代の寿司屋や蕎麦屋で生まれたメニューのランク付けのことだ。

「ハナ、サイズを三段階に分けて、真ん中の『(たけ)』を一番お得に見せれば、客は自然とそれを選ぶ。これを(おとり)効果と言うんだ」

「おとり? またあんたは、詐欺師みたいなことばっかり言って。……でも、確かに真ん中の『竹』串が一番売れるようになったわね」

 ハナは感心したように、竹筒の売上金を数える。

「あんたのその不思議な知恵、本当はどこで教わったの? 長政様や又左衛門様が執心するのも分かる気がするわ」

 ふと見せたハナの真剣な眼差しに、レックは胸の鼓動が速まるのを感じた。


 ある晴れた休日――乾いた空気は何処までも澄んで、チャオプラヤ河を滑っていく。

 レックは、のんびりと一人で運河の奥へと舟を出していた。

 とはいうもの、お滝から命じられた「雷魚(らいぎょ)(プラー・チョン)」を獲るための“命令”でもあったのだ。

「日本村の町人には『極上の(うなぎ)』だと言い張り、シャムの衆には雷魚を”元気の出る魚”として売るのさ、この国では商いを巧くやんねぇと生きていけないのさ……」

 お滝の商売哲学を思い出し、レックは独りごちた。

 だが、泥抜きをした雷魚は、ハーブを詰め込んで炭火で焼けば、その白身の美味さは確かに絶品だ。

 運河の岸辺、張り出したマングローブの根元は絶好の雷魚の住処(すみか)だ。

 レックは舟を固定し、慎重に間合いを測る。

 水面に浮く睡蓮(すいれん)の葉の隙間で、親指ほどの稚魚が群れている。

 その下には必ず、鋭い歯を持つ凶暴な母魚が潜んでいるのだ。

 レックは手慣れた手つきで投網を打つ。

 網が円を描いて広がり、銀色の飛沫とともに水面へ吸い込まれた。

 手応えがある。

 網を引き揚げると、斑点模様の筋肉質な巨体が数匹のたうち回った。

 水面に広がる波紋と、静かな竹林のざわめき。

 このまま、この穏やかな時代で、一人の日本人として歳を重ねていくのも悪くない。

 有希に似たハナと、ぶっきらぼうだが気立てのいいお滝。

 この「家族」のような場所を守って生きていくのも――。

 そんな甘い考えが頭をよぎった、その時だった。

 腰に掛けていたキティの鈴が、微かな川風を受けたのか、不意に「チリン……」と乾いた音を立てた。

 小さな音なのに水鳥たちが一斉に飛び立ち、運河の底から泥が巻き上がった。

 河下から水面を押し潰すような轟音が響いてきた。

「……なんだ、あのでかいのは?」

 マングローブの影から姿を現したのは、アユタヤの風景にはおよそ不釣り合いな、巨大な浮遊要塞だった。

 三本のマストを高く掲げ、船体には無数の砲門が黒い口を開けている。

 マストの頂点に翻るのは、赤と白のブルゴーニュ十字旗――スペイン(イスパニア)帝国の軍旗だ。

 当時、スペインはフィリピンを拠点にシャム王国、アユタヤ王朝への圧力を強めていた。

 だが、これほど重武装のガレオン船が、検問のあるポンペットを突破する勢いで、日本人町の鼻先まで侵入してくるのは、明らかな宣戦布告に等しかった。

 甲板には、太陽を照り返す鉄の胸当てを着けた兵士たちが、マスケット銃を構えて並んでい
る。

 その銃口は、迷うことなく日本人町の方角、つまりハナやお滝がいる場所を向いていた。

「大変だ……知らせないと……!」

 レックが網を放り出し、泥を蹴って立ち上がろうとしたその瞬間。

 背後の茂みから、冷ややかな声が届いた。

「動くな!……そのまま、泥の中に伏せとれ」

 振り返ると、そこには編笠を深く被り、抜き身の刀を逆手に持った津田又左衛門がいた。

「スペインの狂犬どもが、ようやく牙ば剥きおったばい。……レック、お主の言う”未来の呪術”ちゅうもんは、あの大きか巨艦ば沈める役に立つとか?」
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