きみだけのぬくもり

あ 沈みはじめた温度

放課後の教室は静かだった。誰もいないはずなのに、机や椅子の気配だけが残っているみたいで、空気が重い。窓から差し込む夕焼けが床を長く染めている。その色はやわらかいのに、なぜか息苦しい。

隣から椅子を引く音がした。

「帰ろ」

その一言で張りつめていたものがふっと緩む。振り向くと、いつも通りの笑顔がある。それだけで救われる。この時間が好きなんだと思う。何気ない会話をして、同じ方向に歩いて、それだけで満たされる。特別なことなんて何もないのに、それが全部、少しだけ大事に思える。

なのに、その満たされる感じの奥に、薄く濁ったものが沈んでいる気がした。理由は分からない。ただ消えない。

廊下を並んで歩く。足音が重なるたびに距離が近づいて、また少し離れる。その繰り返しが妙に意識に引っかかる。ほんの少しだけ肩が触れた。それだけなのに呼吸が乱れる。

「寒い?」

そう言いながら手首を掴まれた。びくっと体が揺れる。強くはない、むしろ優しいくらいの力。でもその温度がやけに残る。すぐに離されると思ったのに、ほんの数秒が長く感じる。その間、何も言えなかった。

離れたあとも、そこだけがまだ触れられているみたいにじんわり熱を持つ。

「やっぱ冷たいね」

笑いながら言われて曖昧に笑い返す。何でもないはずの一言なのに胸の奥に引っかかる。冷たいのはどっちなんだろうと思った瞬間、自分でも分からない感情が浮かぶ。

このままずっと触れていてほしい。

すぐに打ち消す。おかしい、そんなこと思う必要なんてない。ただの幼なじみで、ただの帰り道で、それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。それなのにどうしてこんなにひとつひとつが重いのか。

靴音がやけに大きく響く。校門を出ると外の空気は少し冷たくて、さっきまでの熱をゆっくり冷ましていく。並んで歩く影が夕焼けの中で長く伸びる。その影が少しだけ重なった。それだけで胸の奥がざわつく。

「ねえ」

不意に呼ばれる。

「もしさ」

少し間があった。

「ずっと一緒にいられなかったら、どうする?」

冗談みたいな口調だった。軽く、何気なく、深い意味なんてないように聞こえる。でもその言葉だけが妙に重く落ちてくる。

「そんなの…」

否定しようとして言葉が止まる。「そんなことない」と言えばいいだけなのに、喉が詰まる。代わりに浮かんだのは言葉じゃなかった。

隣にいない景色、別の誰かと笑っている姿、知らない距離。

胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

嫌だ、と思った瞬間、自分で驚く。その感情は想像以上に強かった。

「考えたことない」

やっとそれだけ言う。嘘だった。今この瞬間にはっきり考えてしまった。そしてその続きも。

離れるくらいなら。

そこまで思考が進んで急に怖くなる。何を考えているのか分からなくなる。

「そっか」

軽く笑って、それ以上は何も言わなかった。その笑顔に少し安心する。同時にさっきの感情が消えきらずに残る。どこにも行き場のないまま胸の奥に沈んでいく。

帰り道の途中、いつもの分かれ道に近づく。ここで手を振ってまた明日、それがずっと続くはずだった。

ふと視線を感じた。横でも後ろでもない、斜め少し離れた場所。気づいた瞬間、背中が粟立つ。

ゆっくり目を向ける。

そこに人がいた。電柱の影に半分隠れるように立っている。顔はよく見えない。でも確実にこちらを見ている。

目が合った気がした。

その瞬間、口が動いた。

「壊れそう」

小さいのにはっきり聞こえた。

「え」

思わず声が漏れる。次の瞬間にはもういなかった。本当に消えたみたいに。

「どうしたの?」

隣の声で現実に戻る。

「なんでもない」

そう答えるしかなかった。でもさっきの言葉だけが耳の奥に残り続ける。壊れそう。何が、誰が、分からないのに、それが間違っていない気がした。

分かれ道に着く。

「また明日」
「うん、また明日」

そのやり取りがやけに遠い。背を向けて歩き出す。

数歩進んで違和感に気づく。指先が少し痛い。さっき触れられたところ。

視線を落とす。細く赤い線が入っていた。まるで爪でなぞられたみたいな傷。そんなことされた覚えはないのに、じんわり血が滲んでいる。

触れると少しだけ痛い。それ以上に妙な感覚がある。

触れられたままみたいな。

振り返る。もう誰もいない道。それでも確実に何かが始まってしまった気がした。

沈んでいく。ゆっくりと確実に。

まだ戻れるはずなのに、どこかで戻りたくないと思っている自分がいることに、この時はまだ気づいていなかった。
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