きみだけのぬくもり

か 甘い侵入

次の日、教室の空気はどこかざわついていた。理由はすぐに分かった。見慣れない姿がひとつ増えている。

「今日から来ました。よろしくお願いします」

静かな声だった。よく通るのに、なぜか耳の奥に残る。視線が自然と向く。整いすぎた顔立ち、柔らかい笑み、そのどれもが普通なのに、なぜか目を離せない。

その人は、ゆっくりとこちらを見た。

目が合う。

ほんの一瞬のはずなのに、逃げ場がないみたいに動けなくなる。

笑った。

優しい笑い方のはずなのに、ぞくっとする。

教師に指された席は、少し斜め後ろだった。近い。気配が届く距離。

授業が始まっても集中できなかった。背中に視線を感じる。気のせいだと思っても消えない。

ペンが机から転がる。拾おうとした瞬間、別の手がそれを先に掴んだ。

「はい」

顔を上げると、すぐ近くにいた。近すぎる。

「ありがとう」

受け取ると、指が触れる。ほんの一瞬なのに、その感触だけが残る。

普通ならすぐ離れる距離なのに、離れない。

視線がまっすぐ向けられる。

「昨日、見た」

小さく言われる。

「……え?」

意味が分からないふりをする。

「気づいてたでしょ?」

その言い方で理解してしまう。昨日の帰り道、あの影。

「……なんのこと?」

逃げるように言うと、少しだけ近づく。

「ねえ」

声が低くなる。

「無理してるでしょ」

息が近い。触れていないのに、逃げ場がない。

「してない」

すぐに否定する。

「嘘」

間髪入れずに返される。

心の奥を掴まれた気がした。

指先が、手の甲に触れる。今度ははっきりと。ゆっくりなぞるように。

「ここ」

昨日の傷の上をなぞられる。

体が反応する。

「ちゃんと残ってる」

見たのか、それとも最初から知っているのか。

「どうしてできたの?」

答えられない。

「分からないでしょ」

先に言われる。

全部見透かされているみたいで息が詰まる。

「でもね」

さらに少しだけ近づく。

「そういうの、嫌いじゃない」

意味は曖昧なのに、なぜか理解できる。

怖いのに、耳を離せない。

「壊れそうな人って、きれいだよ」

その言葉に、背筋が震える。

「ねえ」

距離が、さらに近づく。

「ちゃんと壊れる?」

心臓が跳ねる。拒否したいのに、言葉が出ない。

「……意味わかんない」

やっとそれだけ返す。

くすっと笑う。

「そっか」

ようやく離れる。

なのに、触れられた場所だけが残る。

授業が終わっても消えない。

放課後、いつもの声がかかる。

「帰ろ」

並んで歩く帰り道。昨日と同じはずなのに、違う。

無意識に後ろを気にしてしまう。

「どうしたの?」

「なんでもない」

そう答えながら、指先を触る。まだ少し痛い。

でもそれ以上に、触れられた感覚の方が残っている。

帰り道の途中、気配を感じる。

振り向かなくても分かる。

いる。

見ている。

そのまま歩き続ける。気づいていないふりをして。

でも心の奥では理解していた。

もう関わってしまった。

そしてそれを、どこかで拒めていない。

沈み始めている。

昨日よりも、少しだけ深く。

戻れる距離は、もう曖昧になっていた。
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