悪辣魔王の腕のなか
(よかった。タイミングよく川中島先生に呼び出しがかかって)

 そこでふと、思いつく。もしかして、今のは助けてくれたのだろうか?

(いや、ありえないか。柚木先生だもん)

 本人の言葉どおり、ただ篤之に用があったのだろう。あの響司の思考に、自分が入り込む瞬間など一秒だってないはずだ。
 まっすぐ伸びた響司の広い背中をあらためて見つめ、衣都は小首をかしげた。

(悪い男、ねぇ)
 彼につきまとう黒い噂の真偽は?

(バカね、真面目に考える話じゃない。ドラマや映画じゃあるまいし)

 病院は閉じた世界なので、根も葉もない憶測が広まりやすい。誰かと誰かが不倫しているとか、どこの病院でもそんな噂は聞く。響司のこれも同類だろう。
 くだらないことを考えるのはやめて、さっさと外科に行こう。そう思って、彼の後ろ姿から視線を動かそうとしたその刹那、ふいに響司がこちらを振り返った。
 結構な距離が空いていたにもかかわらず、しっかりと目が合い、強い眼差しに貫かれる。どのくらいの時間だったか、とても長かったように感じたのは自分だけだろうか。
 彼がまた前を向くのと、衣都がパッと顔を背けたのがほぼ同時だった。
 見つめられた余韻が全身に残っている気がして、それを意識している自分が嫌で、衣都は意味もなく早歩きになった。

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