ひとつの秩序

第二章

 
 
【今何してんの?】
【美容院だよ】

土曜日の十四時、大きな鏡の前でカラー剤が染み込むのを待っていた。
担当美容師も席を外していたので手持ち無沙汰だ。
スマホを触っていると、加瀬からメッセージが届いた。

【パーマ?】
【今回はカットカラートリートメントだけだよ】
【何色にすんの?】
【オリーブグレージュっていう感じかな】
【緑?】
【半分正解、半分不正解】
【見たい】
【え?なんで】
【何時に終わんの?】
【一時間後くらい?】

短文のやり取りが、チャットのようにリアルタイムで続く。
文字を送るとすぐに既読が付き、加瀬もトーク画面を開いていることが伝わる。
場所を聞かれ、送ると【OK】のスタンプが返ってきた。

え?来るの?美容院の後?なんで??

【何で?】と再度送るが、既読だけ付けられて返信は来ない。
どういう意図があるのか分からない。
たまたま近くにいたとか?見たいって、何を?

頭の中の疑問は処理しきれないままだったが、「流しますねー」と美容師が戻ってきて、会話をしているうちに少し薄れていった。耳にかけられたケープの端が、首筋に当たって少しだけくすぐったい。

会計を終え、美容院が入っているビルを出た。
髪を整えた後はなんとなく毎回自分の機嫌がいいのを感じる。

可愛い髪型にしてもらえて、視界に入る髪の毛の色や質感に、女としてレベルが一段上がったような気持ちになる。
ガラスに映る自分の横顔を、無意識に確認する。
髪が揺れるたび、いつもより軽く見える気がした。

加瀬に連絡を取ると、近くにいたのか、すぐにビルの前に現れた。
人の流れの中から、知っている背格好が切り取られる。声をかけられる前に、もう分かってしまった。

加瀬は開口一番にこう言った。

「緑じゃない」
「半分不正解って言ったじゃん」
「でも半分正解って言っただろ」
「概念は緑だけど!どんな色を想像してたの?こわい」
「緑って言ったから緑を想像するだろ」
「こわ」

この後どこ行くのかと聞かれ、服でも見てから帰るよと言うと、加瀬はふーんと相槌を打って隣を一緒に歩く。
そういえば、加瀬とショッピングしようって約束してたけど、このあたりにはメンズ服がたくさんあるところはないよなぁ。
そんなことを考えながら、莉子は自分が行く予定だった商業施設に向かった。

「いつもよりふわふわだな」
「ね、自分でもこんな感じでパーマ出せたら良いんだけどなぁ」
「可愛い」
「え」
「可愛い」
「…美容師さんだからね。プロはすごいよね」
「色も可愛い、緑じゃねーけど」
「…ありがとう」
「前髪も切った?」
「…切ったよ。目がしっかり出る感じが好きだから」
「へー、可愛い」

莉子は思わず、前に向けていた視線を加瀬に向ける。
加瀬はなんてことないような顔で、莉子の視線に合わせてこちらを向いた。
きっと自分は怪訝な顔をしているし、それは伝わっているはずなのに、何でそんな何でもないような顔ができるんだ。

「な、何なの?急に。変じゃん」
「そうか?」
「そうだよ、急に見たいとか言うし。近くにいたの?」
「んーまぁ、出て来てたよ」
「何してたの?」
「んー、友達と会ってた」
「なんか間があったじゃん。分かった、女の子でしょ!」

ライトグレーのダウンのポケットに手を突っ込んでいる加瀬を、ニヤニヤと笑いながら見つめた。どうだ、これで形勢逆転なんじゃない?そう思ったのも束の間、加瀬の表情はさっきと変わらない。

「…女子と会ってたらどうなの?」
「…え、いや、どうとかじゃないけど…自由だし…」

真面目に返されるとは思わず、自分から仕掛けたにも関わらず最後まで文章が言えない。言葉尻を濁してしまい、ゴニョゴニョと、言いたかった言葉たちは消えていった。
加瀬はふっと軽く噴き出すようにして笑った。

「っふ、気にしろよ」
「な、なに?さっきから変だって!可愛いとか、見たいとか言って」
「別に、いつも思ってるよ」
「え…?なに…」

冗談みたいな口調なのに、言葉だけが残る。
一拍遅れて、胸の奥がきゅっと縮む。反射的に、視線を逸らした。
何を考えているのか分からないまま、会話だけが先に進んでいく。

「…そんな怯えんなよ」
「おびえて、なんか…」

土曜の午後らしく、人の流れは途切れない。
立ち止まる余白がないのに、気持ちだけが取り残される。
ショーウィンドウのガラスに、二人並んだ姿が一瞬だけ映っては、すぐに人影にかき消されてしまう。

「…ちょっと、幸先悪そうな気がしてさ」
「なに…」

加瀬の手がこちらに伸びてきて、無意識に肩をすくめた。
一瞬止まった手がそのまままた伸びてきて、莉子の首に巻かれたマフラーを、キュ、と優しく結び直した。

「別に、南の顔見たかっただけ」
「…」
「じゃあな、気をつけて帰れよ」

そう言って、加瀬は手を振って去っていった。
肩の落ちたシルエットで、ダウンのポケットに手を入れて、黒に近いダークトーンのパンツ。目線だけでそれを追っていたが、あっという間に人混みに消えた。

視線を戻して、元の目的地に向かって再び歩く。

そりゃそうだ、まだ明るい時間で、周りは人に溢れていて、送ってもらう理由は一つもない。

何となく、このまま一緒に帰って、送ってもらえる気でいた自分が恥ずかしい。だって最近は、ずっと、そうしてくれていたから。

やだ、私、何で、

今更になって自分の顔が赤らむのが分かる。
加瀬の言葉が、爆弾のように心に降り注いでは各所で爆発していく。

か、可愛いってたくさん言われた。

さっきまで隣にあったはずの気配だけが、歩道に置き去りになっている。
もう今日は買い物はやめよう、余計なものを買ってしまいそうだ。

赤らむ頬と耳を、結び直してもらったマフラーに隠すようにして、改札へと足を進めた。


 
 
 
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