ひとつの秩序
あれから数日、自分が加瀬を避けている自覚ははっきりある。
なんとなく、メッセージの既読をつけるペースが遅くなり、返す頻度もそれに伴って落ちている。
けれど加瀬の返信のペースや調子は変わらない。
あの日、可愛いと、目を見てたくさん呟いて去っていった。
嵐のように感情だけをかき乱していった。
私の気持ちだけを引っ掻き回して、動揺させて、自分はなんでもないような顔をして今まで通りに振る舞うなんて、ずるくないか。
そんなことを考えながら揺られる、仕事終わり、何となく、何となく駅にいるわけないのに周囲を確認してしまう。いるわけない、加瀬の最寄駅はここではない。
駅から家までの道、歩きスマホは良くないと分かりつつも、手持ち無沙汰で開いてしまう。
昼に来ていたことは知っていたが、何となく悔しくて既読をつけずに読んでいたメッセージを開いて返信をする。
【そういえば、キムチを買ったんだけどさ】
冷たい空気の中、ささっと指を動かし、短文で返す。
【次のお鍋のやつね。ありがとう】
そのままトーク画面を閉じるつもりだったが、すぐに既読がついた。
何となく、トーク画面だけを戻してそのままスマホを見つめていると、数秒後に返信が来た。今度はすぐに開いて読んだ。
【ネットで本格キムチみたいなのを買ったら、よく見てなくて一キロ届いてやばい】
【え、待ってやばい】
思わぬメッセージに気負っていた気持ちが少し和らいで、口元が緩む。
いつものノリで返信をすると、またすぐ既読が付いたので、今度はトーク画面を閉じずに待つ。
【半玉の白菜キムチが俺の冷蔵庫を占領してる】
【ねぇ笑】
【他のものが何も入らなくてピンチ】
【放置していい?】
【キムチを見たくなくてフルーツ買ったら、それもキムチ臭くなった助けてくれ】
【助けてあげよう。魚介がいい?肉がいい?】
【キムチを消費したいから、キムチオンリーでもいい】
【それは嫌すぎ】
いつも通りのメッセージのやり取りが、チャットのように続く。
普段通りすぎて、構えていた自分が間抜けに思えてくる。何だったの。そんなに深く考えなくて良かったってこと?
加瀬の要望によって、また週末にお鍋の日が設定された。
前回から一週間後だ。何だか毎週会っているけど、まぁ、キムチを消費するためだししょうがない、と思っておこう。キムチってなると匂いがつきそうだから、服装も考えないとなー、そんなことを考えているうちに家に着き、莉子はクローゼットの中身を思い出しながら玄関を開けた。
「エビとホタテ、買っておいたよ」
「最高、サンキュ」
加瀬は、一回来ただけじゃ家覚えてないだろ、と言って莉子の家に迎えに来た。
莉子の家から加瀬の家は、自転車で十分ほどの距離。歩くと大体二十分。
確かに、そんなに覚えてはいなかったが、マップを送ってくれたら歩くのも苦ではない距離なのに。
前回の鍋のお野菜も加瀬が用意してくれたし、キムチも買ってくれたとのことなので手ぶらは流石にな、と思い、事前にスーパーで海鮮を用意しておいた。加瀬の反応を見るに、買っておいて良かったみたいだ。
「お邪魔します」
「どうぞー」
「こたつだー!」
「前回もあっただろ」
「こたつの魅力にハマってしまった」
「いいだろ、冬はこれだけで過ごせる」
一週間前にもここを訪れたのに、何だか新鮮な気持ちになる。
きっと莉子が来る前に、また掃除をしたんだろう、家具の配置やこたつ布団なども綺麗に整えられているのが伝わる。
今回は莉子もしっかり準備を手伝った。
冷蔵庫のキムチは半分以下になって、鍋はまた〆まで楽しんだことで空っぽになる。
「あー美味しかった」
「な、本格キムチだった」
「口がヒリヒリする」
「キムチ入れすぎだった」
「何となく分かってた」
「…コンビニ行く?アイス欲しくね?」
「行く!」
鍋の余熱がまだ体に残っているのに玄関を出た瞬間、夜の冷気が一気に頬に触れた。さっきまでこたつに入っていたせいか、空気がやけに鋭く感じる。
「さむっ」
「もう二月だからな」
そう言いながら歩き出すと、吐く息が白く消える。
さっきまでひりひりしていた舌の感覚と、冷たい空気が混ざって、妙に現実に引き戻される。
住宅街の夜は静かで、遠くを走る車の音と、コンビニの看板の光だけが浮いている。
アスファルトに落ちる街灯の白い色が、昼とは違う輪郭で道を照らしていた。
「奢るわ、キムチ減らしてくれたお礼に」
「わーい、じゃあハーゲンダッツ」
「ふ、いいけど」
自動ドアが開くと、コンビニ特有の明るさが目に飛び込んでくる。
急に現実的な空間に放り込まれたみたいで、さっきまでの鍋の時間が、少し前のことのように感じた。
「バニラモナカにするー」
「ハーゲンダッツじゃなくていいんだ?」
「いつものやつが食べたくなった」
「じゃあ俺ハーゲンダッツにする」
「えー」
レジで加瀬が精算してくれている間は何となく雑誌の表紙を見て過ごし、外に出ると、さっきよりも夜が深くなっている気がした。コンビニの明かりが背中で遠くなっていく。
「ごちそうさま、ありがと」
「どういたしまして」
また歩き出すと、冷たい空気の中でさっきよりも言葉が少なくなる。
舌にはまだぴりりとした感覚が残ったままで、ビニール袋の中身が恋しい。
玄関を閉めると、外の冷気が遮断されて、部屋の中のぬるい空気に包まれる。
さっきまで暖かかったはずなのに、一度外に出ただけで、こたつの存在がやけに恋しくなる。
「先に手洗って」
「はーい」
洗面所から戻ると、こたつの上には、さっき買ったアイスが並んでいる。
鍋はキッチンの流しの中で、水につけられたままで、カセットコンロだけが出しっぱなしになっている。
生活の途中、みたいな光景。
「溶けるぞ」
「今行く」
さっきまではローテーブルの上に置いてある鍋を挟む形で、対面に座って食べていた。前回来た時も、そうだった。
何も考えずに、自分の買ったモナカのアイスが置かれている位置に座った。
足を伸ばして気づく。
あ、となり。
テレビはついていない。
換気扇も止まっていて、さっきまでの鍋の匂いが、ほんのり残っている。
加瀬の隣に座ってしまったことに気づくも、今更立ち上がって座る場所を変えることもできず、そのまま、後ろにあるソファに背中をもたれる。
部屋の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
どうしよう、いますごく、こたつが熱く感じる。