ひとつの秩序
「ねぇ、土曜日、新宿のスタバいた?」
月曜日の昼休み終わり、デスクに戻ると背後から、軽い声がした。
振り向くより先に、その声のトーンで誰か分かってしまい、一瞬、思考が止まった。
「えっ、あ、いましたけど…」
振り返ると静がガラスにもたれながら莉子を見ていた。
自分の声が、少しだけ上ずったのが分かる。静は、莉子の反応を楽しむみたいに、ふっと口角を上げた。昼休み明けのフロアは、まだ少しだけざわついていた。静の赤いニットがガラスからの光を受けてキラキラと輝く。
「やっぱり。見たもん」
「静さんもいたんですね」
外の光を引きずったままのフロアは、まだ完全に仕事モードに切り替わっていない。椅子を引く音、キーボードを叩く前の一拍、誰かが蓋を開けるペットボトルの音。
「いい感じだったじゃーん」
「し、静さんっ」
慌てて声を落としたつもりが、思ったよりも響いてしまって自分でそれに驚き、一瞬、視線が泳ぐ。
左隣の静を見ているはずなのに、右隣を強烈に意識してしまっている。
静はデスクの縁に腰を預けるみたいに立って、莉子の反応を見下ろしていた。
「あの男の子、彼氏じゃないの?背高い子!」
「静さんっっ!!」
先ほどよりも大きな声が出たが、そんなことを気にしている場合ではない。
右隣で、椅子を引く音がして、画面に向かう気配がする。
これ以上は、聞かれたくない。
莉子は反射的に立ち上がって、静の腕を掴んだ。
なーにーよー、と完全に分かりきっている静の声が背後から聞こえたが、莉子はフロアの入り口、エレベーターの隣まで静を引っ張って行った。
今日は、髪を下ろしている。
別に会う予定はないけれど。
でも、今この赤い耳を隠せているだろうから大正解だ。
「静さんっ!なんで先輩が隣にいるの分かっててそんなこと言うんですか!絶対聞こえたじゃないですか」
「別に聞こえて良くない?」
あっけらかんと静が言う。思っていた返答と違い、莉子も面食らう。
「え?」
「だって、あいつには彼女がいるじゃん。結局それだと、どれだけ悩んだって状況変わんないでしょ」
「それは…」
「ずっと距離置いてんのか何なのか、まだあの家には住んでるっぽいけど」
でもリング嵌めてないもんねー、と静は壁に背を持たれさせながら言った。
静さんも気づいていたんだ。
その事実が、いつも莉子を惑わせる。
「あれからどうなの?」
「…こないだ、」
莉子は片倉に先日抱きしめられた話や、加瀬との話をした。静は黙ってそれを聞いてくれていた。
エレベーターがたまに到着すると、会話は一瞬だけ途切れる。その繰り返しの合間に、言葉だけが、ぽつりぽつりと落ちていく。
空調の風が、エレベーター前だけ少し強くて、スカートの裾や、髪の毛がわずかに揺れる。
「ふーん、なるほどねー」
「はい…」
足元の床は、昼の光を反射して、少し冷たく見えた。静は先程と変わらない姿勢のまま、横目で莉子を見ながら言った。
「南は今、どっちが好きなの?」
静の言葉が、莉子の中でうまく音にならなかった。
好き、とか。そんなの。
見ないようにしていた。考えないようにしていた。その言葉だけは、頭に過ぎらないように意識していた。
加瀬は、友達だから好きとかではない。
先輩は、好きだったけど彼女と同棲までしたから、もう好きでいてはいけない。
その前提があったから、私は今まで見ないふりをして来れた。
だって、二人とも、私に好きだと言わないから。だから私も、自分の感情に向き合わなくて良くてーー。
「まっ、余計なお世話だったらごめんねっ」
黙る莉子に、静は語尾にハートマークをつけたように、少しふざけた顔をしながら言った。
「…ちょっと余計なお世話だったかもですよ」
「おっ、言うようになったじゃーん!」
恨めしそうに静を見る莉子の頭を、静は優しく撫でた。励まされているのだと分かる手つきだ。
静は何事もなかったみたいにフロアへ戻っていった。莉子もそれに続いた。
まだ何も、自覚したくない。
十九時、片倉と莉子で担当している案件の最終調整が終わったところだった。
「お疲れ、ちょっと長くなっちゃったね」
「全然大丈夫です!」
オフィスの照明は半分ほどに落とされていた。
昼間の白い光とは違って、天井から落ちる灯りはやわらかく、机の影が長く伸びている。
キーボードを叩く音も、もうまばらだった。
「もう帰る?」
コートを腕に掛けた莉子に、片倉が声をかける。
「はい。今日はここまでで」
「送ってあげようか」
ただの世間話みたいに、軽い調子で片倉は言った。莉子は一瞬きょとんとしてから、すぐに笑う。
「…何言ってるんですか!全然、方向違うじゃないですか」
「いつも送ってくれる人はいるの?」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
「え…い、いないです」
莉子の視線が、一瞬だけ泳ぐ。間を置いて、そう答えた声は、少しだけ硬かった。あれから、加瀬は莉子の帰りの時間を確認してくるようになった。莉子はそれに対して律儀に返す日もあれば、さらりと流す日もある。
「…そっか、おつかれ」
「…はい、お疲れ様です」
「うん。気をつけて」
エレベーターの方向へ向かう莉子の背中を、片倉は見送った。白いマフラーが揺れて、あの時のことが脳裏によぎる。
「南…」
無意識に呼び止めかけて、言葉は途中で止まった。
「はい?」
振り返った莉子の表情は、さっきと変わらない。自分は、引き止めて一体何を言おうとしていたのか、
「いや、何でもない。お疲れ」
莉子は軽く会釈をして、今度こそその場を離れた。エレベーターの到着を知らせる音が、遠くで鳴る。オフィスには、また静けさが戻った。
片倉はゆっくり椅子に座り直し、机の上に置いてあったスマートフォンを手に取る。
画面を見つめたまま、しばらく動かない。
そろそろ、自分の気持ちに、片をつけないといけないな。
そう思いながら、親指を動かす。
望実へのメッセージを打ち終えて、送信した。
そのまましばらく画面を見続け、暗くなるのを見届けてから、片倉は背中を椅子に預けた。
深く、息を吐く。
天井の照明が、静かに瞬いていた。