ひとつの秩序
「…加瀬」
「ああ、おはよ」
土曜日、大きい駅の商業施設にて、待ち合わせることにしていた。
加瀬は、改札から少し外れた場所で、柱に寄るほどでもなく、通路を塞ぐほどでもない、ちょうどいいところに立っていた。片手はポケットに入れたまま、もう片方は力なく下がっている。
今日の加瀬は、厚みのある黒のダウンを着ていた。無骨にも見えるはずなのに、インナーの淡いグレーのフードがその印象を和らげている。
チャコールグレーのパンツは細すぎず、太すぎず。立ち姿を静かに整えていた。
別に、私が服を選ぶまでもなさそうじゃん。そんなことを思いながら、莉子は加瀬に近づく。
「おはよ」
加瀬は莉子をじっと見下ろし、少し笑う。
視線を感じて莉子がそちらを見ると、加瀬は真顔でぽつりと言った。
「ワンピースじゃん」
「え?あー、うん」
莉子が着ているアイボリーのモコモコした素材のロングコートは、肩からすとんと落ちている。ノーカラーコートだが前は閉じきらず、中は黒の足首まであるタートルネックのロングワンピースだ。
「可愛い」
「…また、そうやって」
「デートだからワンピース着てきた?」
「デートじゃない!」
加瀬はくつくつと口を抑えて笑った。またこうやって、この男は私を乱すのか。サラッと流せばよかった。
「むしろ、加瀬が髪を触れないようにまとめてきた」
コートもワンピースも長いので、重くならないようにと髪は後ろの中間くらいの位置でお団子にした。後れ毛もほとんどない。別に加瀬を何か意識してこのようにした訳ではなかったが、加瀬がそういう態度ならばと咄嗟にそう言った。
「いや、むしろありがとう」
「はっ?」
「お団子もいいな、首出てて非常に良い」
加瀬はさらりと、怪訝な顔をしている莉子の耳を撫でた。なんの予兆もなく、身構える暇もなく、さらっと撫でて元の位置に戻った。
耳につけた大ぶりのパールのピアスが熱を持っている気がする。
「なっ…!」
「別に、何したって可愛いから関係ねーな」
「は、早く行こう!!!」
改札のアナウンスが一度鳴って、すぐに別の音にかき消される。誰かの笑い声が通り過ぎて、雑踏にまたすぐに消えていく。
やり返さなければよかった。
余計恥ずかしい思いをした。莉子は商業施設の方に足を進めた。加瀬はすぐ追いついて隣より少し前を歩き出した。その顔が笑っているのは気のせいではない。
自分の顔が少し赤いのも、きっと、気のせいではない。
その後は、買い物をして、適当にランチを済ませて、コーヒーチェーンで一息ついた。
通りに面したガラス張りの店は、外より少しだけ静かで、でも落ち着くほどでもない。席はほとんど埋まっている。
足疲れた?休憩でもする?
加瀬のその言葉に、確かに少し疲れたなと思って頷いたが、こんな気遣いが出来るってことは、加瀬はそれなりに恋愛経験も積んできたんだろうか、などとふと考える。
そういえば、加瀬の恋愛についてはほとんど知らないな。
莉子は、目の前の背の高い透明なカップに視線を落とした。淡い抹茶色で、細かく砕かれた氷が層になっている。少しだけ抵抗があって、それから静かに沈んだ。吸うたびに、甘さの奥から苦みが遅れてくる。
今が夜ではないこと、アルコールを入れないことが、関係の健全さを証明してしまっているような気がして、少しだけそれに戸惑う。
「…疲れたろ。そろそろ帰る?」
「…あ、うん」
莉子が飲み物を飲み干して暫くすると、加瀬がゆっくりとそう言った。考え事をしていた莉子は返事が遅れる。
加瀬は飲み物のゴミを二つ持って、ゴミ箱に捨てに行った。
人が多い。
コーヒーショップを出て駅に近づくにつれて、空気の密度が変わっていく。
土曜のこの駅は、歩くというより流されるに近い。視界の端を、買い物袋と色の違うコートと、知らない会話がひっきりなしに横切っていく。
人の肩が触れるたびに、わずかに体が揺れ、立ち止まると、後ろから押される。
「すごいね、人」
思わずそう言うと、加瀬が少しだけこちらを見た。
「手、繋ぐ?」
「…繋がない」
「えー」
一瞬止まりかけた足を気合いで前に進める。
声も顔も、全然残念そうでもなんでもない。
むしろ、冗談を言ってみただけ、みたいな軽さで、加瀬はそれ以上何も言わなかった。
加瀬は少し前に出て歩いた。手を出すわけでも、引っ張るわけでもない。ただ、人の流れを見て、タイミングを測って、さっと進路を変えてくれている。
たまに振り返って、私の歩幅に合わせて、速度を落とす。距離は保たれている。
歩きやすいようにしてくれているんだな。
そういえば、こうなる前も、ずっとそうしてくれていた気がする。
人の波に押されながら、加瀬の背中を目で追う。今はまだこの距離が心地良かった。
帰りの電車はとても混雑していた。
前も横も、知らない人のコートと鞄と肩。
加瀬が半歩分だけ位置を変えて、莉子の空間を少し空けてくれた。それはそれで有難かったが狭い車内で向き合う形になり、目の前の光景が加瀬でいっぱいになる。
人の体温と、暖房の空気、柔軟剤、冬物の匂いが混ざる。
「……っ」
足を踏み替えた瞬間、急に車体が揺れた。
急ブレーキです。ご注意ください。無機質なアナウンスが流れるも、もう遅い。
「あっ、」
思わず前に倒れそうになり、反射的に、加瀬の胸元に手をついた。
コート越しの硬さ。思ったよりしっかりした胸板。
「ご、ごめ——」
離れようとした、置いたままの手の上から、加瀬の手が、ぱっと重なった。指先が触れて、迷う間もなく、ぎゅっと握られる。
一瞬、息が止まる。
顔が、熱い。手が、熱い。
頬が熱を持っているのが分かる。
大変申し訳ございません、とまたアナウンスが流れる。車内は静かだ。ざわざわしているのに誰も喋っていないような、でも電車の唸るような音と振動が大きく響いている。
ゴトン、ゴトン、と継ぎ目を越えるたび、車体がわずかに上下する。
ちらっと視線を上げる。
加瀬の耳も、少し赤い。
暖房のせい?人が多いから?
再び振動が規則的になって、停車駅についても、そのままだった。莉子が降りる駅まで、まだ少しある。
離そうと思えば、いつでも離せた。
でも、何となく、そのままだった。
「…次は髪、下ろしてきて」
「……気が、向いたらね……」
他の誰にも聞こえないような声が、上から降ってきた。
どんな顔をしているかは分からない。
だから、もういいかと思ってそう返した。
加瀬の体に少しだけ体重を乗せる。
電車の揺れがさっきよりも心地いい。
スマホの通知音が一瞬鳴って、すぐに消える。
アナウンスが流れ、人のざわめきに溶けて、駅名だけが耳に残った。