ひとつの秩序
「南って、彼氏、出来た?」
月曜日、唐突すぎる問いだった。
たまたまミーティングがそこら中で開かれていて、少しだけいつもよりザワザワしたオフィス。
天気は曇りで、いつもなら差し込む日差しはなく、朝から電気がついていた。
今日は雨が降るかもしれないと朝の天気予報で見て、足元は水たまりが跳ねてもいいように、足首までのデニムに、皮のローファーを履いていた。
「…出来てないですよ」
「そっかー」
それだけで会話は終了した。
片倉の方を見るも、片倉はもうモニターを見つめていた。
長い前髪で、横からでは表情が読み取れない。
莉子は少し首を傾げながら仕事に戻る。
どうして、それを聞いたんだろう。
付箋が机の端でめくれかけていて、無意識に指で押さえた。
この間の静の言葉を聞いて、真に受けた?
なにかの確認?
いや、でも、先輩には彼女がいるんだし。
今更何かが、あるわけでもない。
考えない。大丈夫。もう揺れない、はず。
土曜の夜に会ったばかりで、来週の土曜も約束したというのに、加瀬に夕飯に誘われた。
仕事終わり、莉子は駅の近くのファミレスに来ていた。
駅の近くなだけあってそこまで広くはない。ビルの二階のワンフロアがそのまま店舗としてあてがわれていて、広い席と、一人か二人用の席が同じくらいだ。
加瀬とは、前より会う頻度が格段に増えている。
もしかしたら、そのうち、これが当たり前になっていくのかもしれない。
そんなことを思いながら、窓際に立てかけてあるタッチパネルを操作し、加瀬の分と一緒に夕飯を注文した。
「今週、俺早いんだよね」
「私も大きいのないなー」
「南は、明日も早い?」
「多分ねー。加瀬も?」
手持ち無沙汰に店内を見渡しながら莉子は何気なしに問いかけた。
「うん、早い。…明日も会える?」
そうして返ってきた言葉に一瞬動きを止め、加瀬のことは見ないまま、目の前のグラスの水を飲んだ。
「…そんな毎日外食ばっかしてられないよ」
「……俺ん家で、飯食う?」
「……」
月曜日の夜だと言うのに店内はそれなりに賑わっている。
家族もいるが、どちらかと言うと若者が多い。学生やカップル、ひとりで利用している客の割合が高かった。
「…なんもしないよ」
「別に…そんなこと考えてないよ」
「そう?していいって言われたら、するよ」
「ダメだよっ」
「嘘だよ」
一瞬、間が空く。
先ほどの冗談っぽい声色とは違って、否定したその声は落ち着いていて、真剣に聞こえた。嘘なことくらい、わかるよ。
行かない方がいい、それも分かっているのに。
黙る莉子を見て、加瀬は少し諦めたように笑って言った。
「…本当に、何もしねーよ」
「…」
加瀬は一度、視線を落とした。
ネコ型のロボットが隣の通路を通過していく。
「幻滅されんのが一番、怖いからな」
「幻滅なんて、」
しないのに。
加瀬が、私が嫌がることをしないってことくらい、分かっているし伝わっている。
ピンポーン、という機械音が定期的に流れては消えていく。昼でも夜でも変わらない、安心するほど無機質な明るさ。窓際の席からは、反対側のビルの壁しか見えない。
「…ただ俺が、明日も会いたいだけ」
ファミリーレストランを謳っているだけあって、テーブルは使いやすいように広い。前に手を伸ばしても触れられないような距離。
ライトが煌々と隙間なく照らされ、小さな子どもの声、グラスが触れる音、どこかのテーブルで鳴る笑い声。
隣でネコ型ロボットが陽気な声をかけながら配膳する、ムードも何もないようなこの空間で、そんな顔をしないでよ。
これ以上距離が近くなったら、加瀬の家に行ってしまったら、前みたいにはもう戻れない。
分かって、いるはずなのに。
「…食べたらすぐ帰るよ」
自分に言い訳をするみたいにポツリと漏れた言葉。加瀬は手元にあった目線をこちらに寄越した。
「…うん」
それ以上、何も言わない。
この返事が優しいのか、ずるいのか、私にはもう分からない。
「何も準備手伝わないよっ」
「いいよ、コタツいれば」
「…そんなこと言ってると、材料費すら払わない女になるよ」
「別にいいよ」
「良いわけないじゃん!」
「ほんとに良いよ、何でも」
会えれば。
ぼそりと聞こえてきたそれは、一瞬でファミレスのざわめきに溶けていく。
「…やめてよ…」
どうしてそれが、私の耳に届いてしまうんだ。
なんで、見ないふり、聞こえないふり、させてくれないの。
自分の耳が熱い。
ネコ型ロボットの配膳がこうも待ち遠しいのは、初めてだ。
加瀬に伝わらないように少し俯いた。
同じように俯いていた加瀬はきっと、気づいていない。
そう思わないと、きっと、私は顔をあげられない。