ひとつの秩序
次の日。
定時を少し過ぎた頃には、フロアの空気がゆっくりと緩みはじめていた。
照明はまだ全部点いているけれど、席を立つ人が増えて、モニターの光が白く主張し始める。
椅子の背に掛けられたコート、引き出しを閉める音、「お先に失礼します」の声が、あちこちで重なっている。
莉子はパソコンをシャットダウンして、トートバッグを肩に掛けた。
今日は、定時に近い時間で帰れる。
足元のヒールが床に軽く鳴って、椅子を引いた。通路へ出ようとした、その時。
「南」
背後から、落ち着いた声がした。
振り返ると、片倉が自分のデスクの横に立っていた。ジャケットはまだ着たままで、カバンは足元に置かれている。
「今度また、南に任せようと思ってることがあって」
フロアのざわめきに溶けるくらいの声量だった。
「…はい、嬉しいです」
即答してから、少し間を置いて、改めて言う。片倉は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「今度、ちゃんと話すね」
「はい」
「ごめん、帰り際に呼び止めて」
「全然大丈夫ですよ」
片倉は一歩、通路の端に寄ってくれる。
奥でコピー機が動き出す音が聞こえて、エレベーターの到着音が響いた。
「今日は、なんか予定あるの?」
「あ、はい、ちょっと…友達とご飯に」
「そう、…渋谷?」
一瞬だけ、間が空く。
莉子が意図的に空けたものではない。
自分の中で言葉に詰まったものが、そのまま空間に落ちた。
昨日ファミレスで約束した、加瀬の家で夜ご飯を作って一緒に食べる。
それだけ。当然友達でも成立するし、変なことではない。
ただ、加瀬を友達と一瞬の今、定義したことが自分の中で違和感として残っただけだ。
「…いや…友達の家で」
「そう」
片倉はそれ以上、聞かなかった。
「ごめんね、呼び止めて」
「いえ」
吹き抜けの上に見える会議室の照明が落とされて、一瞬だけフロアも暗くなったような気がしてそちらに視線をやった。誰かがしていた会議が終わったようだ。
昼間より影が増えて、机の輪郭が少しだけ曖昧になる。
「行ってらっしゃい」
「お疲れさまです」
莉子はそう言って、片倉に軽く頭を下げる。
エレベーターが外の冷たい空気を運んできたかのように、ホールは少しだけ冷たい風に満ちていた。
莉子はそのまま、ビルの外へと足を進めた。
電車で加瀬と連絡を取りながら、先ほどの片倉との会話がぼんやりと思い出される。
電車の中は乾燥した暖かい空気と、駅に到着する度に開かれるドアからの冷たい冷気が混在していた。
やっぱり、友達、ではないよな。
明らかに加瀬の態度は今までと違っていて、私も意識している。
けど、関係としては、「友達」のままだ。
土日に会って、平日に会って、二日連続で、今日は加瀬の家でご飯を食べる。
けれど私は、前みたいに、気軽に軽口を叩くことはできなくなってて、それはそれで、少し悲しい。今の加瀬との距離が嫌なわけではなく、二人でふざけて笑っていた空間は、とても好きで楽しかったから。
「寒いから駅の中いろって言ったじゃん」
「…ううん、来てくれてありがと」
「?いいけど。スーパー寄ろ」
加瀬は自転車を引いてやってきた。コートの下はきっとスーツのままだ。
十八時過ぎ、駅前は様々な人たちが様々な服ですれ違っていく。
「肉でいい?」
「うん、加瀬が作ってくれるの?」
「男飯で良ければ」
人が行き交う。
隣同士で、一人は自転車となると幅を取り、自然と隣を歩く加瀬との距離が近くなる。加瀬は両手で自転車を引いている。もし手が降りていたら、当たりそうな距離。
「払うよっ!」
「いいって」
「昨日も奢ってくれたじゃん!」
「それはそれ、これは俺んちの食材だから」
「いーやーだー」
「俺もなんかいやだー」
夕方のレジは少し混んでいた。
住宅街の真ん中にある、それなりの大きさのスーパー。
マンションの一階に入っていて、初めて来たところだったが意外と品揃えもよく、野菜も安い。聞いたことの名前のスーパーなので、地元密着型なのだろう。
そこのレジに並んでいる中でカゴを持つ加瀬と押し問答になる。
「なんでよ」
「なんかダサいじゃん」
「ダサくないし、今までも加瀬がダサい時沢山あったじゃん」
「そういうこと言うな恥ずかしいから」
加瀬はいいんだよ、とカゴを強引にレジの棚に置き、店員に電子決済で。と言った。スマホを出して払う気満々な加瀬に、莉子も少し諦める。
「…じゃあコンビニでアイス買う」
「アイス欲しかったら、今取ってきたら」
「そういうことじゃないじゃん」
店員の女性は、こちらの会話など気にも留めず、スムーズにバーコードを読み取っていく。
加瀬はチラリと莉子の顔を見て、不満げなその様子に少しため息をこぼした。
わかったよ、じゃあアイス買って。仕方なさそうに言われたその声で、莉子は財布を渋々仕舞った。
前も来たな、と思い出しそうになるコンビニでアイスを買い、加瀬の家に行った。
何度も手伝おうとする莉子に、加瀬は座ってていいからと譲らず、莉子はコタツから加瀬のその様子を見守った。
「手際いいな…」
「それなりに自炊するしな」
聞かせるつもりのなかった呟きだったが、加瀬には聞こえていたらしい。
こたつのお陰で足元がポカポカする。
加瀬はその後も手際よく夕食を作り、だんだんと米が炊ける匂いと、甘辛い匂いが漂ってくる。
仕事帰りのシャツのまま、袖だけを肘までまくっている。できた。とコタツテーブルの上に置かれた皿を見て莉子は声をあげた。
「美味しそう!」
「味、ちょっと濃いかも。しょうが焼き」
白い皿の真ん中に、生姜焼き。
照りのあるタレがざっくりと切られた玉ねぎと豚肉に絡んで、焼き目のついた端が少しだけ反っている。
横には千切りキャベツが盛られ、ところどころに生姜焼きのタレが跳ねて、馴染んでいる。こんもり盛られたツヤっとした白米と、隣の味噌汁には、湯気の向こうにわかめが揺れていた。
「すごい」
「いや、キャベツは切ってあるの買ってきただけだよ。男飯」
いただきます、と手を合わせて食べ始めた。今日は隣に座らない。
向かい合わせて、莉子がソファ側、加瀬がテレビ側に座っている。
「美味しい…」
「よかった」
「待って本当に美味しくて美味しい」
「珍しく南の語彙がバカじゃん」
口の中に染み込んでいく甘辛いタレが幸せを感じさせてくれる。
「嬉しいもんだな、食べてもらえるの」
「?食べるよ」
「うん、嬉しい」
改まって再度言われた言葉に、莉子は皿から目をあげて加瀬をみた。
こちらを見て、幸せそうな顔で笑う加瀬に、どこに目線を向けていいのか分からない。
莉子の顔を感じ取ったのか、加瀬は少し気まずそうにして目を逸らした。
「あーごめん、今日は変な感じにしないでおこうって思ったのに」
「え?」
「俺がこういう感じになると、南、困るじゃん」
「困って、なんか…」
加瀬は髪の毛をグシャリとかきあげた。手が降りた後の髪が、上でぴょんとはねたままだ。
「意識はして欲しいけど、困らせたいわけじゃない」
俺も、前みたいにふざけたこと言って楽しく笑ってるのが好きなんだよ。
窓の外に目線をやりながら、頬杖をついてポツリと言葉を落とす加瀬。それを見て、莉子も、胸からするりと言葉が漏れた。
「意識は、してるよ」
だって、あまりにも加瀬が何かを、諦めたような顔をしているから、
「…意識してんの?」
「……してない」
「今してるって言ったよな?」
「…」
「なぁ、俺のこと、ちゃんと意識してんの?」
認めたくはない。
でももう、認めざるを得ない。
私、加瀬を意識している。
加瀬の言う言葉に頬は赤くなるし、心臓もぎゅっとなる。
でも、同時に、片倉先輩のことも、まだ、意識している。
なんで、私、こんな、二人のこと。
自分の気持ちがこんなにも分からなくて、こんな揺れている自分、知らない、怖い、私、どうなってしまうんだろう。
黙っている莉子の髪を、加瀬がふわりと触った。
予告のないそれに、莉子の身体が少しだけ反応する。
加瀬の手は、柔らかい手つきで、ゆっくりと上から下へ、たまに引っかかる部分を、優しくほどきながら触れていった。
まるで、壊れてしまうものを触るように、
「…何もしないって、言った」
「…そうだった」
そう言って、するりと離された。
エアコンから吹き出される暖かい風が、部屋を循環して、まるで二人を包んでいるみたいだった。
「…帰る?」
「…うん」
「……また、うち来る?」
「…今日買ったアイス食べに、行く」
そう言って莉子は立ち上がった。これが今の、精一杯の気持ちだ。
加瀬は何も言わなかった。
莉子を送るいつもの帰り道、なんとなく、二人の距離は空いていた。
加瀬は何も喋らなかった。
莉子も、何も、喋らなかった。
ぽつぽつと、規則的にアスファルトを照らしている街灯だけが、二人を見ていた。
自転車のタイヤに巻かれたチェーンが、たまにカラカラと鳴った。