ひとつの秩序
 
  

 
 
雨足が、強くなっている。
今日は、やまないかもしれない。



「友達、やめよって、どういう…」


加瀬は、莉子の手を取ったまま、視線を上げない。
ああ、いつも加瀬って、すごく目を見て話してくれていたんだな、と莉子は場違いなことを思う。こんなにも、目が合わないことが不安になるなんて。

「もう…分かってると思うけど、…言っていい?」

なにを。莉子の頭に浮かんだ言葉は、きっともう答えが出ていた。

「…だ、め」
「なんで?」

咄嗟に口から出た言葉に、加瀬が食い入るように返事をする。
私、間違ってた?
少し距離を置いて、ゆっくり考えようなんて、自分だけの都合でしかなかった?分かった気でいたのは、とんでもない間違いだった?


「だって、戻れなく、なっちゃう」


脳を通らないでぽつりと漏れ出た言葉。
莉子自身が、自覚していなかった気持ちが、するりと出てきた言葉に驚く。

私、こんなこと、思ってたの。


「…もう、とっくに戻れねーよ」


加瀬は莉子の腕を優しく引いた。
人一人分も空いていなかった距離がなくなり、莉子の顔は加瀬の胸板に触れる。
莉子が履いているスリッパがフローリングを蹴る音がして、湿った匂いから、ウッディーな匂いに変わる。

肩口に、少し湿った加瀬のニットが触れる。
一瞬、息の仕方が分からなくなる。


「か、せ」
「好きだよ」


喉の奥が、ひゅうっと息を吸い込む音がした。
瞬きをするたびに、まつ毛と加瀬のニットが触れる。
ふわふわとした感触の奥には、厚い胸板を感じる。
温度がすぐには伝わってこなくて、それに一瞬だけ不安を感じてしまう。


「…好きだよ」
「まって、」
「待たない」
「かせ、」

二回目は、確かめるように言葉が落とされた。


加瀬に、抱きしめられるのは、何度目か。
初めては、先輩が指輪をしてた時に、泣けよって、優しく肩を抱かれた。
あれから、もう四ヶ月が経ったのか。雨と外気の匂いが、近すぎる距離で混ざって分からなくなりそうだ。


「俺と、付き合って」


あの時、ゆっくりと莉子の肩を柔らかく包んでいた腕は、今は背中に、強く回されている。遠慮がちだったあの時とは違う。この間、先輩とのことを聞かれた時とも、違う。

「なんで、そんな、」
「…何でって、分かってただろ」
「ちがう、なんで今日、急に」
「急か?充分、待ったと思うけど」
「それは、そうかも、だけど」

いつもより、ゆっくりと話す加瀬の声が、莉子の頭上で響いては落ちてくる。
するりと片方の手が上がって、莉子の頭をふわりと撫でてそこに落ち着いた。

「…もう、俺が、待てなくなったのかも」

加瀬が話す度、莉子の髪の毛に少しの熱が籠る。
頭皮に染み込むみたいにゆっくりと、じわりと、広がっていく。
さっきまで濡れていたはずなのに、熱い。

「え?」
「南が、したいようにするのが一番いいと思ってたけど」
「う、うん」
「俺がもう、我慢できなくて」

莉子は加瀬のニットを少しだけ掴む。
コートに覆われていたはずなのに、それは少し冷えている。

「もうさ、毎日会いてーし、顔も見てーし、他の男は見て欲しくない」
「…」

今日、私が、気づかなかったら、どうするつもりだったんだろう。

こんな大雨の中、どうして家を出たの?
私が、断ったから?不安に、なった?
それで、わざわざ、確かめに来て、でも、電話では知らせずに、一つだけのメッセージで、私が気づくのを、雨の中、一人で待ってたの?


「…理由も口実もなく、これからも南に会いたい」
「かせ、」


この、優しい人に返せる言葉が、どうして、「私も」じゃないんだろう。
気持ちを掬い上げて、こぼさずに全て受け取りたいと思ってしまうのに、どうして私はまだ動けないままなんだろう。


「なんも考えないで、笑って、ふざけて、ご飯食べて、」
「…」
「友達の時と、変わんねーか。じゃあ、なんで俺はこんなこと言ってんだろうな」
「…」

会話の合間に、外の雨音だけが浮き上がる。
テレビと雨の音しか聞こえてこなくて、まるで、他のどこにも人がいないみたいだ。

「…あー、そのまま、一緒に寝たり、次の日も過ごしたり、それが当たり前になればいいと思ったんだった」
「…」

加瀬は先ほどより力を込めて、莉子の背中に手を回した。
南の、ふわりとした感触の部屋着が手に当たるとそれは暖かくて、俺の冷たい指先が体温を奪ってしまうんじゃないかと思うと、少し怖い。

縛りつけたいわけじゃないのに、自分の手は、南がどこかに行くことを拒否している。


その当たり前を、南もそう思ってくれていればいいのにと思ったのは、いつからだったか。


「なぁ」
「…なに…?」
「これからは、俺のことも、ちゃんと考えて」
「…分かった…」

考えてるよ。
とっくに、加瀬のことでも頭はいっぱいになってる。
でも、もう私も、どの熱がどこから来てるのか、分からないの。


「…好きだよ」


三回目は、じわりと溶けていくみたいな声だった。
心臓の音が、加瀬にも聞こえている気がする。


「うん…」


ドア一枚隔てた向こうに、外が存在していることを忘れそうになる。
加瀬は、莉子の頭に置いていた手を動かして、ふわりと髪の毛を絡め取った。
そのまま指先を軽く動かして、揉むように柔らかく莉子の頭を撫でる。


「…俺を、選んでよ」
「……うん…」

くぐもった自分の声が、加瀬のニットにほどけていく。
一歩下がるだけで終わるのに、それができない。
だって私、嫌じゃないから。

「…そろそろ帰るわ」

加瀬が莉子を抱きしめたまま、そう言った。
玄関のタイルから上がってくる冷気が、この空間を包んでいるのに二人だけは暖かかった。

「…気をつけて、」
「ん。急にごめんな。あったかくして寝ろよ」

加瀬は莉子から離れた。名残惜しそうに最後まで髪の毛に触れて、ハンガーにかけたコートを再度着た。ずしりと見えるそれは、まだ水分を含んでいるんだろう。

「…加瀬こそ」
「ごめんな、またな」

加瀬が軽く笑って玄関から出ていくのを、莉子は動かずに見ていた。
濡れたままだった自分の足が、冷え切っているのに上半身は暖かい。

先ほどの温もりが、まだそこにある気がする。
雨のせいにできるなら、全部そうしたかった。

莉子はリビングに戻り、テレビを消した。
ようやく訪れた静寂に落ち着いて、そのまま、ソファで目を閉じた。


 
 
 
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