ひとつの秩序
 
 
 
 
月曜日。出勤すると、片倉は外出の日だった。
こないだから、ずっと天気が悪い。
後ろのガラス窓は太陽ではなく自分の姿を写している。

片倉に会えないことに、ホッとしてしまう自分がいる。今の気持ちみたいだ。

加瀬の気持ちは、先輩よりも重い。
優しく「選んでほしい」と待ってくれる加瀬よりも、強引に腕を引いて「俺を見て」と、選択肢を奪ってくれる先輩の方が何も考えなくてよくて、それに流されてしまいたいような気持ちになる。

そんな考えが頭に浮かぶ時点で、どうしようもない。
そういえば、あれから加瀬とは連絡を取っていない。

「月曜から顔が暗すぎる」
「静さん〜」
「今日片倉いないね、よかったじゃんその暗い顔見られなくて」

ついでにここで仕事しちゃおー、とパソコンを持った静が、片倉の席に座った。
静が画面を開くと、以前静に連れて行ってもらった、フラワーベースの会場資料が映っていた。花屋に発注かけたから、続きを見せようと思って。と静が言った。

「見たいです!静さんがあの後、どう配置したのかも!」
「今回は花も入るし難しかったと思うけど、シンプルなやつが来たら、次は一緒にやろっか」
「はい!」

静はにこりと笑って、画面を莉子に見せた。スクロールしていると思い出したかのように言った。

「あ、そういえば、近々コンペ入るかも。最大手の国内電機メーカーのグループ会社」
「そんな大手から!」
「そう、片倉が前に関連会社と組んだことがあって、そこから」

静の話ぶりから、正式決定ではないがほとんど決まっているような様子が伺えた。
上ではそこそこ話が進んでいることなのだろう。

「結構短期で、多分二週間後くらいには一次。一旦三社に絞られる感じかな」
「わぁ、ハードですね…」
「正式に降りてきたら片倉が入るだろうから、一緒に南も入るかもよ」

のんびりと世間話のようなつもりで聞いていた莉子は、静の言葉で思わず目を丸くする。ええ!と声を上げた莉子に、静は呆れたように足を組み替えて莉子を見る。

「なんで今正式決定前の話をあんたにしたと思ってんのよ」
「いやだって、私コンペ入ったことなかったですし…」
「そろそろ入ってもいい時期じゃない?まぁ、まだ分かんないけどねー片倉が断るかもだしぃ」

先日のランチの時間に、片倉と起きたことの全てを把握している静は急にニヤリと口元を歪めて声を潜めて言った。

「なんでですか?」
「まだ早いって過保護になるかもねーあいつのことだから」
「そうかなぁ?」
「可愛いあんたが傷つくところ見たくないとか思いそう」

多分だけど、片倉と付き合ったら楽だと思うよ、と静は莉子に近づき、耳元で囁いた。
莉子も同じようにして、なんでですかと返す。

「先が見通せるし、よく気がつくから、きっと付き合ってく上での障害は全部除いてくれるよ。溺愛してくれると思う」
「それは…」

そう言われると、そんな気もしてくる。それがいいのか悪いのか、その楽さに流れてしまいそうな自分を思い出して少しだけ自分に嫌悪感を抱く。

「ま、とりあえずそんな感じだから、どう転ぶか分かんないけど過去のコンペの内容とか見ておきなね」
「わかり、ました」

莉子の気持ちは重くなるばかりだ。
静がいなくなった後も、その日の天気はどんよりしていた。









「私から何か送るのも変かな…」

最寄駅から家までの帰り道、周りに誰もいないのをいいことに脳内に流れた考えを口にする。とっくに陽は沈んでいて、辺りは暗い。

今までは、毎日連絡を取っていたからこそ、気にしないようにしようと思えば思うほど、逆に気になった。

どうしたんだろう。遠慮してる?後悔してる?
それとも、私が加瀬の気持ちを受け取れなかったから?

こんなこと、なかった。
もしかして、風邪ひいたんじゃないか。
あの日、あんな大雨の中にいたし、ずぶ濡れだったし。

そう思うと、居た堪れなくなって、家に入るなり電話をかけた。仕事はもう終わっているはずだ。

『もしもし』
「あ、加瀬…」
『ん?…どうした?』

加瀬の声は電話越しで、いつもの声とは違うのに、それだけで少し安心した気持ちになってしまう。

「あ、いや、えっと…」

私の考えすぎだったかもしれない。風邪を引いてるかもと思って心配になって電話した、この言葉がなかなか出てこず、言い淀む莉子に、加瀬が落ち着いた声で言った。

『もう家?今から、会いに行っていい?』
「…うん」






加瀬は今日は自転車で来たようだった。
着いたと連絡が来て、外に出ると、この間と同じ電柱のところに加瀬が立っていた。
いやでも先日の記憶を思い出してしまう。抱き寄せられた腕の力、好きだよと三回、念押しのように呟かれた声の熱。

「…ごめん、また来てもらって…」
「俺は全然いいけど。どうした?」
「…なんか、あれから連絡とってなかったし、変な感じがして、…何してるかなって、思って」

莉子がそういうと、加瀬はふっと軽く笑った。
加瀬を見ると、口元に手を当てたまま、電柱に背中をつけて、莉子を見下ろしていた。空は重たくて、湿った風が吹いていた。

「なに?どうしたの?…なんか、あった?」
「なんもないよ」
「…風邪、引いてない?こないだの雨、すごかったし…」
「大丈夫」
「なら、いいけど…」

加瀬は口元に少しだけ笑みを浮かべている。
いつもと変わらない様子に見えるのに、どこか変に見えて、先日の雨の中での様子が頭に過ぎる。

「…それで、連絡くれたんだ?サンキュ」
「……加瀬、なんか、…どうしたの?」
「どうしたって…」

加瀬は言葉を少し切った。
合っていた視線が外され、加瀬は視線を上げた。
遠くの空を見つめるようにして、言った。間には、人一人分の距離が空いている。

「俺が、こないだ、好きとか言ったから…悩んでるかなって思ったから」
「…わたし、が?」
「今俺が会ったり連絡したりしたら、困るかなって」
「私の、ために?」

先日の黒のコートではなく、今日は白いダウンを着ていた。
胸元には有名なスポーツメーカーのロゴが入っていて、暖かそうなそのダウンのポケットには両手が突っ込まれている。

「そりゃ、俺は会いたいけど。無理してほしいわけじゃねーし…まぁ、予定が合えばでいいよ」

なんで、こんなにも、優しいんだろう。
そこで、どうして私のことを思って、引けるんだ。

優しくなんかしないでほしい。
加瀬の気持ちを知っていながら、私は連絡がないくらいで不安に思って呼び出してまでして、先輩のことも加瀬のことも、選べないまま、今こうやって加瀬に甘えているのに。

私のことだけを考えてくれているのに、私は、まだ、先輩を切れない。

ずっと好きだった影が、まだ消えないの。
そんなふうに、私の気持ちだけを優先されると、罪悪感で消えてしまいたくなる。

この優しい人を、これ以上傷つけたくないのに。
私の選択は、どこまでも逆をいく。そんな自分がとても腹立たしくて、

「…っ」

なんで、私が、泣くんだ。


「…ごめんって」

加瀬が優しく、消え入るような声で言った。

「なんでっ、加瀬が、謝るの」
「泣くなよ」


少し掠れた声で、加瀬が言った。

「俺は今日、会えて嬉しかったよ。だからもう今日は、それでいいんだよ」
「…っ」
「メッセージ、していいの?」

莉子は頷く。
溢れた涙を指で拭って、加瀬を見上げた。

「じゃあ、連絡するよ」

加瀬は莉子が泣き止むまでそこにいた。
あの時みたいに、抱き寄せたりはしない。
頭を撫でたりもしない。

ポケットにずっと手を入れたまま、優しく莉子だけを見ていた。

今日は、加瀬は、一度も私に近づかなかった。


 

 
 
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