サインしたなら君のもの~年下配信者のダミーボディーマイクになっちゃいました~
track01 なんでもシていい女の子
「由美~、お前に頼みあんだけど」
それはまるで買い出しでも頼むような、同期の軽い一言から始まった。
その日の私は、自分の担当ライバーの新曲再生数の伸びに気分が良くて、よく考えないまま頷いてしまったのだ。
それが全ての始まりだった。
「うん、いいよ。どうしたの?」
「うちのサイドブルーの有栖川リオって、知ってるか?俺の担当の」
「うーん、ブルーなら男性ライバーでしょう?ごめん、私レッドのことしかあんまり……」
「いや、大丈夫。俺もレッドのこと知らないし。っていうか、リオはブルーの中でも全然活動してないしな」
私の勤める会社は、近年急成長しているジャンル、ライバー……いわゆる“配信者”の所属するマンモス事務所だ。
少しでも才能のある若者を捕まえては契約を結び、青田買いを目指す。その経営方針がたまたま成功して、今では何百人というライバーが所属している。
「プラチナフレーバー」なんて社名は名ばかりで、その中身は玉石混交。
その膨大な人数を、女性が所属する「サイドレッド」、男性が所属する「サイドブルー」の二種に分けて運営している。
私がマネージャーとして所属しているのは「サイドレッド」だから、はっきり言って著名でもない男性のことは知らなかった。
「で、その有栖川さん…?がどうしたの」
「リオはここ一年ほとんど配信してないんだが……実は案件が来た。しかも百万円」
「え!?」
ライバーの収入源のほとんどは、投げ銭か案件報酬だ。一年もろくに活動していない人にそんな大金の話、飛びつかないわけがない。
「すごい!!」
「ああ。でも、受けたくないんだってよ」
「は、はぁ!?なんで!?」
「そこはいろいろ。で、俺ら同期でも一番優秀な由美……いや七瀬由美様にお願いしたいなぁ!って」
「優秀って……」
「事実だろ?担当したユニットがメジャーデビューしてんだからさ。敏腕マネージャーさん」
同期のなかでも良く言えば明るく、悪く言えば適当な男────木村駿くんは芝居がかった声でウインクを寄越す。調子のいい褒め言葉のまま茶封筒をひらひらと振った。
「案件の詳細は説明したんだが、俺じゃダメだった。なんとか会社に呼ぶことには成功したから、会議室C行ってくんねぇ?契約書にサイン貰えばオッケーだから」
「えっ!もう来てるの!?」
「そう、でも────」
「ちょっと、マネージャーが担当待たせてどうするの!?私行ってくるから!」
のんびり話し続けようとする駿くんから資料を引ったくって、私は急いで立ち上がった。細かな事情は知らないが、そこまでやる気のないライバーを待たせるなんて、余計に本人の心は離れていくだろう。
ライバーとマネージャーにとって、最も大事なのは信頼関係だ。ライバーのささいな要望、悩み、そして時には秘密にしたいくらいの、最大の夢。それを全て教えて貰えるような関係にならない限り、本人にもマネージャーにも成功はない。
何百人も抱えてはサポートしきれず卒業していく、この会社の方針にはうんざりしていた。せめて私と縁のある人だけでも、この事務所に入って良かったと思ってほしい。駿くんの思うつぼだと分かっていても、私は放っておけず執務室を飛び出した。
「あーあ。真面目も行きすぎは毒だよなぁ」
その後ろで呑気に手を振る駿くんの、無責任な一言に気付かないまま。
***
「お待たせしました……っ、だ、代理の七瀬です……!」
息も絶え絶えで会議室に走り込んできた私を、その人は気怠げに出迎えた。
「へぇ。あんたよく来たね」
およそ第一声として不適切なセリフを吐きながら、その人は不躾な目線を寄越す。男性にしては長めのウルフカットにシルバーのインナーカラー、指先に光る数々の指輪。顔立ちは甘く少年のようなのに、その装飾品達が彼を近付き難い大人に見せている。
一年もほぼ無活動の人が、こんなに華のある容姿だとは予想外だった。ここまで美形なら、ただにこりと笑うだけで登録者が増えるだろう。いつでも若い世代のファンを増やせそうなビジュアルに、うちの会社が採用したくなるようなキャラクターだなと思いながら、私は彼の隣まで歩みを進めた。
「失礼します。改めまして、七瀬由美と申します」
ジャケットのポケットから名刺入れを探り当てて、慣れた動作で彼へ渡す。片手で受け取ったそれを弄ぶようにひらひらと裏返しては、つまらなそうな声で彼が口を開いた。
「ふーん。普段は女の子のマネージャー?」
「そうですね。うちは基本、トラブル防止のためにも同性のマネージャーを担当しますから。ですが、サイドレッドでの経験を活かして、今回は有栖川さんのお役に────」
「なに、あんたすげぇ真面目じゃん。面接みたい」
座ったままの有栖川さんが、私の言葉を遮る。
ここへ来る前になんとかプロフィールだけは確認して、経歴と簡単な活動内容くらいは把握したはずのその人は、情報が正しければ二十四歳。
私より年下なのに失礼な人だな。心の端で思うのは止められない。
ライバーは尖った才能ゆえか、性格や価値観も独特な人が多い。ビジネスの空気など無視する人のほうが多いし、予測不能なコミュニケーションには慣れているつもりだ。
「……失礼します」
それでも一筋縄ではいかないことを察した私は、有栖川さんの目の前の椅子へ座る。ここで流れに飲まれているようでは、交渉も何もない。
「あんたその“トラブル”に堂々と首突っ込んでる癖によく言うよ。断れなかったの?」
「……え、……はい?」
有栖川さんの言わんとしていることを察せず、つい素の声が出る。有栖川さんは机の端に置いた資料を包む茶封筒にちらりと目をやって、口の端で笑みを見せた。
「いいよ、そういうの。まさかマジで寄越すと思わなかったけど」
「……ごめんなさい、仰ってることが……」
「いやいや、言ったでしょ?口が堅い女の子なら別に誰でも良いって」
「あはは、私、女の子っていう歳では……」
「あんたでいいから、普通にして。何も事情を知らない人にとか、そういう趣味ないから」
「あの!すみません、本当に………………」
話が見えないまま有栖川さんが話し続けるのを、私はようやく制止した。
有栖川さんが担当────つまり駿くんに何かリクエストしていたのであれば、それを私が知らないのは問題だ。伝言すらできない事務所だと思われたくはない。でも、この誤解は何よりまずいというマネージャーの勘が勝って、私は申し訳なく眉毛を下げた。
「……本当に、知らないんです。駿く……あなたの担当マネージャーからは、実は先程話を聞きまして」
「………………マジ?」
「ま、マジです……」
有栖川さんは驚きを隠さない。ようやくその目から面倒ごとを片付けてしまいたいという色が消えて、だらりと投げ出していた長い足は急に勢いづいて立ち上がる。
「マジで何も知らないでここへ!?あんた、その……やっぱりこの会社、最低だな」
「えっ!?ど、どうしたんですか」
「言わないよ。あーあ、金が稼げればなんでもいいんだ、ここは」
「そ、そんなことは無いです!」
足元に置いた小さな鞄を取ろうとする有栖川さんを、慌てて引き止める。このままじゃ交渉が始まる前に帰られてしまう。入社から六年、二十八歳。新事業すぎるこのライバー業界で生き抜いてきた経験と、成績は同期トップを走ってきたプライドが、彼をこのまま帰すわけにいかないと叫んで、私は彼に合わせて立ち上がった。
「もちろん[[rb:プラフレ> 弊社]]にはまだ行き届かない所があると思います。でも案件は貴重なあなたのチャンスです!」
彼にとってうち────プラチナフレーバーは信用に値しない。それなら、彼を信じてくれる別の存在に訴えるしかない。
「あなたにこのお金を支払う価値があると……そう思っているクライアントがいるんです。それは、あなたの活躍を望んでいるファンのためにもなるんです!」
「ファン?俺の?いないよ、そんなの」
「います!登録者だって……」
彼はうちで活動し始めて二年ほどになる。そのうち最初の一年はゲーム実況や雑談など配信頻度も多く、そこで女性ファンを多く増やした。初速はうちに数いるライバーの中でも、成功しそうな部類に入っていたと言っていい。最近の一年はまともな理由も告げずほとんど配信をやめてしまっているのに、それでも登録者で居続けてくれているファンだって多い。彼を待っている人を思えば、ますます私がこの場で引き下がるわけにはいかなかった。
「あんなのただの冷やかしだよ。こんなつまんねぇ配信垂れ流してるやつにわざわざ……」
「ひど……」
思わず反論してしまいそうになるのをぐっと堪える。ファンあってのライバーなのに、それを馬鹿にするような言葉は自己卑下だとしても許せなかった。
私の担当するアイドルユニットは、もっともっと少ないファンでも大切にし続けた。毎日見たくなるライバーを目指して、私だって彼女たちだって努力し続けた。その努力が報われるまでに、何年かかっただろう。一年で諦めてしまうような目の前の男に、同じことができるだろうか。
「…………ファンなら、私がいます!」
いや、私がさせなきゃだめなんだ。思い直して、なるべくはっきりと声を出した。
何人だろうと、ファンを大切にする心に、私が変えなきゃだめなんだ。
「あんた、俺の配信見た事あんの」
「無いです!」
「…………よく言うな、それ……」
「関係ありません!」
呆れ顔の男に、私は詰め寄る。
この人に小細工は無駄だ。どうせ私は思っていることが顔に出るとよく言われるくらいで、嘘ついて相手のやる気を出させるなんてことは向いていない。
「だって、あなたの配信つまらないんでしょ?なら見なくていい」
「…………ふぅん」
有栖川さんが機嫌を悪くしたのが、その細めた目で分かった。この人も顔に出るタイプらしい。その不愉快そうな視線は、裏を返せば誇りの表れにもとれる。
この人は本当は諦めていないし、まだ希望を持っているんだ。自分はこんなものじゃないとぎらつくハングリー精神は、きっとこの人を変える。
「見なくても分かる。会ってすぐ分かった。私はあなたの声が好き」
「……声?顔じゃなくて?」
大した自信家がにっこり笑う。そう言われるとは思わなくて、私はつい眉をひそめそうになった。こんな生意気な年下、仕事相手でもなければ文句のひとつも言いたい。
「ええ。もちろん、ビジュアルも素敵だと思いますよ。でも私は声に魅力を感じました」
中性的なビジュアルとは少しギャップのあるその声は、少し吐息が混ざるような、端々にざらついた音を含む。他の誰かに例えようと思っても難しいその独特な魅力は、それと反するような言葉遣いの粗さも相まって、時折どきりとするような男性的な香りをまとっていた。
「唯一無二の声です。あなたをここで帰らせたくない」
「…………あんた、どっち?案件のこと知ってんの?」
「知りませんよ。私が知っているのは、有栖川リオさんという才能をもっと見たいっていう、会社の意向だけです」
「そう」
有栖川さんが私の了解も得ず、机の茶封筒を手に取った。何もかもを明かしてしまった私をじっと見つめたまま、細い指先で製本された契約書を引き出す。
「……確認するけど、俺はこの案件を受ける条件をプラフレに出した。俺の収録に協力してくれる、口の堅い女の子を貸してくれって」
私を見透かすような瞳は、ところどころグレーに輝く。カラーコンタクトだろうかと思いながら、私はその煌めきから目が離せない。
「でもあんたはやめたほうがいい。俺はプロを呼んで欲しいって言ったつもりだった」
「────!」
こちらが何も言わずとも契約書まで手を伸ばしたはずの男から、思いがけない言葉が飛び出す。
「……お言葉ですが」
驚きと悲しみと、ほんの少しの怒りが私を支配して、サインまであと一歩の道のりをぐらぐらと揺らしていた。
「私はプロです。誇りがあります。ここへ入った時は私でいいと言ったはずです」
「……そういう事じゃないんだって」
「はっきり言うと、マネージャー部署は成果主義です。有栖川さんを他へ渡したくない。あなたはきっと成功する」
「だからさぁ、俺はあんたに……」
「確かに年齢は頼りないように思えるでしょうが、できたばかりのこの業界では、ベテランと言えると思います。あなたの才能のためなら、私は努力を惜しみません!」
いつの間にか同期からの厄介な頼み事から、次第に私のプライドと経験を掛けた交渉へ変わっている。
それほどまでにこの場で引き下がりたくない、もはや意地のようなものが私を突き動かして、有栖川さんの会話を横取りしてまで私は話し続けた。
「あなたの配信のための全てを、なんだって揃えてみせます。口が堅い人がご希望ということは、マネージャーによるプライベートの心配ですか?なら私用スマホは捨てます」
「ちょ、ちょっと、俺そこまで────」
どうせ、休みの日にも電話一本で呼ばれる身だ。仕事漬けの私にとって、自身のプライベートなど大した価値もない。今ここでこの人を競り落とすことに比べれば尚更だ。
「有栖川さん、私にしてください。私があなたを変えます。絶対に後悔させません!」
「……………………はぁ……」
長い沈黙の後、有栖川さんがため息をついた。
「あんた真面目だけど、バカだね」
「なっ…………」
「いいの?サインするよ」
有栖川さんが鞄からペンを取り出す。ちゃんと持ってきているのだから、この人だって本当は挑戦してみたい案件だったのだろう。その意気を壊したくなくて、私は真っ向から悪口を言われたことにも黙ったまま首を縦に振った。
「条件は、あんたが俺を手伝う。あの使いものになんない駿を剥がして、あんたが俺のサポートをする」
「はい!」
「本名書くから、あっち向いて」
「はい!」
思わずほころんだ私の顔を、座りなおした有栖川さんが訝し気に見上げる。署名欄にペン先を当てながら、あと少しのところで踏みとどまってしまった。
「ねぇ、しつこく聞いて悪いけど……無理やりこの仕事を押し付けられたわけじゃない?」
「……違います。さっきも言いましたけど、私プラフレだと歴は長いほうなんです。もう二十八ですし、仕事は選べます」
「はは、すごいね」
乾いた笑いを寄越して、有栖川さんがようやく契約書に筆を走らせはじめたので、慌てて目を瞑った。仰々しい約束事を並びたてたその紙束はようやく拘束力を持って、この気まぐれな男を縛りつけたのだ。まだなにも始まっていないのに一仕事やりきったような達成感すら覚える私に、有栖川さんは契約書を封筒ごと突き返した。
「はい。そんじゃおねーさん、自分の言葉には責任を持ってね」
「……?はい、これからどうぞよろしくお願い────」
「早速だけど、納期来週らしいんで、この後録るから。ここ、上の階にいくつかレコーディングスタジオあるでしょ?小さい部屋でいいから、一時間後に抑えといて。俺昼飯行ってくる」
「は、はい」
切り替えたようにてきぱきと話す姿に少し驚く。やる気がなかった割には行動が早い。納期がギリギリなのはいつものことで、こんなことで戸惑うほど経験不足でもない。
「あと、その中の資料ちゃんと読んどいて、ナナちゃん」
「ナナ………」
「俺のことはリオで。じゃ、一時間後に」
「分かりました、リオさん」
「あんたが自分でやるって言ったんだからね。約束は守ってよ?」
私がその意味深な言葉の意味を理解したのは、リオさんが会議室を出ていって、さらに数分後のことだった。
駿くんに勝利の笑みを見せつけながら、法務部に契約書を渡した後、残された茶封筒に入っていた、あまりに簡素なA4用紙一枚の企画書。
目に飛び込んできたその一文は、どこにでもあるゴシック体で、私に想定外の事実を告げた。
『成人女性向けアダルトシチュエーションボイス ご出演のご相談』
***
「う、うちでもけっこう珍しい部類の案件ですね……!」
「そうだね。俺も正直びっくりした」
「あの、こういうジャンル、最近流行りですから。こういったその、えっ……あ、アダルトな音声を投稿できるサービスを運営しているクライアントが、ライバーとのコラボプロジェクトとして、ぜひリオさんを、というお話で……」
一時間後、なんとか平静を装いながらレコーディングルームへ案内する私に、リオさんは先ほどと変わらないテンションで中身のない企画書を読み直していた。「女性が心まで濡れる、有栖川リオさんらしい素敵な音声を納品していただきたいです。シチュエーション等はお任せいたします。」なんて、もはや企画でもなんでもない。それでいてクライアント側の監修スタッフもつけないというのだから、はっきり言って丸投げすぎて憤りすら覚える。そもそもこんな話なら、せめて収録の案内は駿くんに代わってもらいたかった。あいつ、私が企画書の仔細を聞こうとしたときには、分かっていたかのように消えていたし。
「俺、別にエロ売りしてないし、普通のボイスも出してないし……」
「でも、ほら、こ、声がいいですから、リオさん。それよりその、急だったのでレコーディング用の機材スタッフが抑えられなくて……」
「あ、それは大丈夫。俺大体分かるから」
「へっ、あ、そ、そうなんですか」
「それに聞こえ方は都度ナナが確認してくれればいい」
「えっ、わ、私ですか……!?」
「あはは、さっきからどもりすぎ。他に誰がいるの」
部屋の前まで案内したら頃合いを見て撤収しようと思っていた私の背中を、リオさんがぐいと押す。防音室特有の重い二重扉を涼しい顔で押し開けるその勢いに逆らえなくて、私はおずおずとスタジオへ足を踏み入れた。
いくら相手がライバーで、私はそれが仕事だからって、初対面の人間の “心まで濡れる音声”なんて、さすがに気まずくて聞いていたくない。サイドレッドは対象年齢の上がる仕事は本人の意志だけでなく、ユニットの方向性やファンの反応など、様々な要素を何度も話し合って慎重に決める。肌の露出ひとつとっても大きな会議が必要になるこれまでの経験からは縁遠い現状に、何度も入ったことのある部屋の中で、私の目は意味もなく泳いだ。
「じゃ、じゃあ……あっちの部屋から電源入れますから、こちらでお待ちください」
スタジオの中は、正確には演者が声を吹き込むレコーディングルームと、スタッフが機材を操作するコントロールルームに分かれる。気まずさを隠すためにとにかく手を動かしたくて、私はコントロールルームで機材の調整に時間をかけていた。
「ナナ、まだ?っていうかさ、勘違いしてない?」
「え……?」
しばらくガラス窓の向こうのレコーディングルームから見守っていたリオさんが、マイク越しに話しかけてくる。
「あ、すみません!急ぐので、このまま少し発声テストしてお待ちいただいて……」
「そうじゃなくて」
少し大きく調整しすぎた音量のせいで、リオさんの声はコントロールルームを包み込むように鳴る。
「俺さ、演技本当にできないんだよね。ここに入った時も、一応舞台とか声優とかの仕事をこなせるか、っていう面談あったんだけど……俺はあまりにも演技がダメすぎて、そういうレッスンつける気にもならないって言われた」
「そ、そうなんですね、では……」
「だから、演技が必須のシチュエーションボイスなんてできない。プラフレが俺を見限ったんだろ、って言ってやった」
「…………」
「それで、どうしても百万円稼がせたいなら、演技させるんじゃなくて、本物寄越せって伝えた」
ようやく、ようやく────私はすべてを理解する。
駿くんがどうしてこの人を待たせて、ろくな事前共有もなく私を交渉の場へ放り込んだのか。
この人がどうして私に何度も、引き返す道をくれたのか。
「口が堅くて、何でもしていい女の子用意しろって」
心臓がうるさい。詳しい使い方も知らないくせに、数えきれないボタンが並ぶ機材から目線を上げられない。
「で、あんたが来た。……もう分かった?」
分かりたくないのに、リオさんは私の言葉なんて待たずに、その一瞬で私を魅了した声で続けた。
「あんたはこれから俺の言いなりになって、俺の演技《《じゃない》》声を録るためのお人形になるってこと。女の子を口説いて脱がして、抱いて、その様子をリアルに録る、それが今回の案件の条件」
顔を上げた先、ガラス越しのその人は、どんな顔で私を見ているんだろう。
「ねぇ、約束は守れる?」
勢いで書かせたサインが縛ったのは、私のほうだった。
***
「わ、私、その……」
「あはは!」
なんと答えるのが正解か分からなくて、言いよどんでしまう。戸惑う私の耳に、マイクが増幅させた軽快な笑い声が降ってきた。
「いいよ別に。やめよ、俺だって騙し討ちに加わったようなもんだし」
「え……?」
「ほんとはさ、そういうお仕事してる女優さんを探して、って言ったつもりだったの。まさか自社のマネつけてくるなんてね」
「それで、さっきプロがいいって……」
「そうそう。でもさ、やっぱりそういう女優さんでも、俺無理かもなって今思った。あっちこそ演技なわけでしょ?接客されてるみたいで、なんか申し訳なくなるっていうか……。あんまりその気になれないかな」
「で、でも……それじゃ収録が……」
「うん。だから悪いけど、断っといて。もし他に案件が来たら、また連絡くれたらいいから。」
来ないだろうけど、と続けた声が虚しく響く。そんなことないですとは言えなかった。
「それじゃあ、担当を私に変えた意味が無いじゃないですか……」
「別にいいでしょ、あんただって無駄に仕事増えなくて楽だよ」
「いえ、リオさんにとっての意味のほうです!」
「んー、どうでもいいじゃん、そんなの」
リオさんが会議室でしていた、自虐的な態度が顔を出しているのを察する。こんなに近くにいるのに、なぜか分厚いガラス窓に仕切られたスペースでマイクを通して話しているのがいけないのだ。設定途中の機材をそのままにして、私は立ち上がった。
「それに私、契約書もう出しちゃったんです、はやくクライアントにお返ししたくて……今頃もうバイク便が持って行ったあとです」
「…………は、はぁ!?あんた仕事できるんだか、バカなんだか……」
一人用の少し狭いレコーディングルームに押しかけた私に、リオさんは驚きを隠さない。
そもそも、私がしっかり企画書に目を通していれば、こんなことにはならなかった。百万円という成果につられたのは、会社も私も同罪。だとすれば、その責任をこの人に押し付けたくなかった。
「私、プロのマネージャーです。約束の守れない、今まであなたを傷つけてきた人と一緒にしないで」
「ちょ、何してんの……」
「あなたの才能のために何でも揃えるって、言ったのは私ですから」
私は自らのジャケットに手をかけた。これが、都合のいいことを言って女を食いたいだけのライバーなら、私だって正しく断っている。でも散々咎められた言葉を、ろくに聞かずにここまで来たのは私なのに、リオさんはやめようと言ってくれた。自分に舞い込んできた貴重なチャンスを諦めてまで。
「いいですよ。……しましょう、収録」
肩からずるりと落ちていくジャケットを受け止めて、扉の覗き窓を隠すように掛ける。動くと音が鳴ってしまいそうな腕時計も外してしまおうと留め具に触れたら、金属製のそれが思ったよりも冷たく感じた。焦りと緊張が、私の体温を急激に上げていることに気付く。きっと私は顔まで真っ赤で、声だって気を抜けば震えてしまいそうだ。
「あの……」
勢いで近付いたはいいものの、無言のリオさんの反応が怖くて、私まで押し黙る。見上げた瞳の中には、不安そうな私が映っていた。
オフィスカジュアルという社内規定通りの、飾り気のないブラウスに、色気のないネイビーのスカート。マネージャーに装飾は不要と、アクセサリーすらろくに着けていない、地味な女。
その道のプロである女優すら無理そうだと言っていた人の、“リアルな声”を引き出すなんて、こんな私にできるだろうか。
「それとも私じゃ、その気にならないですかね……」
「……いや、今なった」
「あっ……」
「いい?本当に無理だなと思ったら、いつでも言って」
リオさんの指が私の頬に触れる。白くて長い指先が私の輪郭をなぞって、男の人であることを意識せずにはいられない。まだ覚悟すらできていない私がびくりと反射的に反応してしまったのを、リオさんが様子を窺うように覗き込んだ。
「俺だって、ここまで俺のためにしてくれる人、手離したくない」
「だ、大丈夫です……好きにして、ください……」
「……そっか。向こうの部屋、どのくらい弄った?」
「電源入れて、主音量をちょっと……」
「そのくらいなら、編集の時に調整できるか。じゃあもう始めるね」
「は、はい……」
距離が近すぎる。初対面の人にここまで近付かれるだけでも緊張は許容量を振り切れているのに、その声が私のそばで鳴るたび、思考が削がれていく。本来マネージャーがセッティングすべき録音環境がリオさんによって整えられていくのを他人事のように見ていたら、その指が最後にマイクのスイッチを入れた。
「……こっちおいで。そう」
録音中を示す赤いランプが灯って、私はリオさんに手を引かれるまま、レコーディングルームの机に腰掛けた。椅子より少し高さのあるそこは、後ろを振り向けばプラフレが購入した高級スピーカーやらモニターやらが並んでいる。一介のマネージャーが簡単に弁償できるもので無いのは明らかだ。小心者の私がその札束の圧力に身動きできないでいたら、立ったままのリオさんが何でもないかのように、私のブラウスのボタンに手をかけた。
「……っ!」
反射的に制止したくなるのを、なんとかこらえる。私は今ただの人形、マイクの一部なんだから、音を出すことは許されていない。それでもまだ曖昧だった覚悟を急に迫られて、デスクに置いた手のひらを握りしめた。
もう少し段階を踏むと勝手に思っていたのに、リオさんは私の反応も見ずに容易くボタンを外していく。
一つ目は首元が緩まるくらいで済んで、二つ目は鎖骨が見えた。躊躇いなく三つ目に進んでいくそれを、仕事として受け入れなければと思うのに、どうしても我慢できなくて私は口を開く。
「や、待っ……────」
「ん?ごめんね、くすぐったい?」
緩めたブラウスを少し引っ張って、リオさんが私の下着の肩紐に触れる。あまりにも予想外だった私の沈黙を別の意味に受け取ったのか、リオさんがいつの間にか手にしていた小さな機械を見せてくれた。
「あぁこれ?最近買ったの。クリップ式で服につけるワイヤレスマイクなんだけど、ここにつけちゃうね」
「は……はい……」
「俺の声はスタジオの機材で拾うけど、ナナの服が擦れる音とか、そういう女の子側の環境音も録りたいからさ」
百円玉ほどの大きさしかないそれを私の下着に挟んで、レオさんは手早く私の衣服を正していく。律儀に一番上までボタンを留めなおしたあと、口の端で少し笑った。
「なに、もしかして期待してた?」
「し、してません……!」
「はは、もう脱がされると思ったって、顔に出てるよ」
「……最低……っ」
からかう視線が図星なのが恥ずかしくて、ついマネージャーらしからぬ言葉が出る。
「んー……まぁ、結局脱がす前提であんなとこにマイク着けてるんだから、最低っちゃ最低か」
「な……っ」
リオさんは楽しそうに服の上から私の肩を撫でる。仕込まれたマイクの上を滑る指を意識せずにいられなくて、私は行き場のない声をしまい込んだ。
「でもそんなに怖がらなくて大丈夫。俺、じっくり楽しみたいタイプだからさ」
遊ぶような指が閉めたばかりのボタンを弄んで、そして首筋から頬に触れる。
次第に近付いてくるその瞳を見つめ返す勇気がなくて精一杯視線を逸らすと、私の背中越しに機材の何かを操作しているのが分かった。
満足がいったのか、機材から離れた手が私の背に触れる。たったそれだけのことで動揺が隠せない。反射的にますます目を逸らした私の頬を、リオさんが撫でた。
「…………ねぇ、こっち向いてよ」
────その声は私の身体を駆け巡るようで、これまでのどんな触れ合いよりも明確に、私の心臓を跳ねさせた。
生意気で気分屋な性格とは全く違う、爽やかな王子様みたいな透き通る声に、少しだけ掠れた吐息が混ざる。はじめての会話から分かっていたその魅力が収録という場で最大限に発揮されて、マネージャーとしてではなく、女として抗えない何かが私を素直にさせた。
「そんなに緊張してるの?……かわいい」
「…………っ」
ようやく見つめ返したその瞳がすぐに近付いてきて、私の了解も待たずに唇を塞がれる。背中に回された腕が私から逃げ場を奪って、わざと音を立てる短い口付けを受け入れることしか出来ない。
「…………はぁ、かわいい」
囁くような声は普段より少し低くて、ため息が堪えきれない欲望を表す。何度も愛おしむように言われれば、かわいいなんてたった四文字の常套句にも、恥ずかしさが込み上げてきた。なんだ、リオさん演技できるじゃん。
「んっ………」
短いキスが次第に長くなって、リオさんの舌が私の唇をぺろりと舐める。促されるように薄く開いた唇から舌が入り込んできて、私のそれにそっと絡めてきたとき、思わずくぐもった声が出てしまった。
謝ろうか、キスシーンから録りなおしてもらおうか。悩む私が反応を伺いたくて薄目を開けたら、じっとこちらを見つめるリオさんと目が合った。長めの前髪から覗くその瞳は欲望の色を孕んで、これから起こることを否応なしに想起してしまう。
「────っ!」
目を閉じている間は非現実的だったのに、見慣れたレコーディングルームに引き戻された私が、現実感を取り戻す。それでも止める勇気もなければ、キスする時に目を閉じるのはマナーだと抗議したくとも出来ない。そうして黙ったまま目を見開く私を気にも留めず、リオさんはその甘い声で私を支配する。
「……あんたも、舌出して?……そう」
またその声だ。こんなこと間違っているのに、掠れた声に促されて素直に従ってしまう。少し開いた口を、またリオさんが塞いだ。マイクで拾えるんだろうかと不安になるほど囁くような声と、うるさいくらいに響くリップ音。
「っ…………」
深さを増すキスが私の身体で遊ぶみたいに、上唇を舐めたり軽く舌を吸われたりする度に、堪えきれない吐息が漏れる。せっかくここまで文字通り体を張って録っているのに、私のせいで使い物にならないなんてことは何とか避けたかった。これ以上長く続けられては本当にごまかしようがなくなりそうで、抱きしめられた腕の中で何とかもがく。
「……ん……キス、長かった?」
「…………っ」
私が答えて良いのか迷っていると、リオさんが髪に触れてくる。長い指で梳くように遊ぶ仕草はまるで気まぐれな猫だ。
「こういう時は鼻で息するんだよ。あんた俺より年上なのに、知らなかったの?」
「ん……っ」
そのくらい知ってるのに、抗議する間もなく、リオさんがキスを再開する。唇を合わせる度に身体まで溶けるように熱くて、吐息をどこまで堪えられているか分からない。無理やり自分で口を塞ごうにも、キスしてるんだからそんなことは出来なくて、いっそ他の所を触られるほうがいいと思った頃、ようやくリオさんが唇を離した。
「…………あんたの苦しそうな顔、ちょっとそそる」
「────!」
人を散々物言わぬ玩具にしておいて、こんなこと言うのだから怒りたくもなる。誰のせいで呼吸すら堪えて苦しんでると思ってるんだ。
「ふふ、怒った?ごめんごめん」
無言で睨みつける私にますます気を良くして、リオさんが頬に口付ける。ちゅ、ちゅ、とままごとのような音が響いたあと、抱きしめられる腕に力がこもった。
「ごめん、俺浮かれてるな……。だってずっとしたかったから。あんたを初めて見た時から、こうしたかった」
笑ったり謝ったりでころころと変わる声音は、そのどれもが私を絆すのに十分だ。彼の口から紡がれる嘘のストーリーが、この行為が紛い物であることを知らしめるのに、どうしても心は平静でいられない。マネージャーとしての最善の行動を考える余裕もないまま、耳元で私にだけ聞かせるための言葉が鳴った。
「ナナ。声出してもいいよ」
「え、でも…………」
「俺の声に被ってなきゃ、編集でどうにかなるって。それに、ほんとにマグロだったら俺だってその気になんない」
「マ、マグロって…………」
「俺頑張るからさ。気持ちよかったら、ちょっとくらい反応してよ、ね?」
私たちしかいないのに小声の会話は、リオさんのキスで終わりを告げる。短いそれは唇から首筋に下りて、リオさんは一度身を離して私の瞳を見つめた。
「……ごめん。会ったばっかりだし、今日はキスだけって思ったんだけど……あんたが可愛くて我慢できない」
「…………っ」
今リオさんは私の身体のどこにも触れていないのに、その声は今までの深いキスと同じくらい、私の心を揺さぶる。熱に浮かされた思考で私が小さく首を縦に振ると、またリオさんの唇が近付いてきた。
「…………あんたも、したかった?」
キスされると身構えた瞬間、リオさんの声で私はびくりと反応する。ひた隠していたはずのそれを見透かされて、最早言い訳もできない私がもう一度頷いたら、自分が訊ねたくせにリオさんが驚いたように、少し目を見開いた。
「かわいい……」
それは何度目の常套句だろう。こんなにイケメンと言われ慣れていそうな子に言われても、素直に受け取れる歳でもない私は、微妙な気持ちで口付けを受け入れる。
「あ……っ」
深いキスに溺れる思考の端で、リオさんの指が私のブラウスに伸びていることに気付いた。それはゆっくりと私に触れて、もどかしいほどに時間をかけてボタンを外す。一つ目、二つ目がぷちぷちと小さな音を立てて、さっき外されなかった三つ目も、今度は正しく脱がされてしまう。そうして全てのボタンが開け放たれてから、ようやく自分の下着が全くこの場に相応しくないことに気付いた。
「ふふ、なんで隠すの。見せてよ」
「……駄目です……っ」
つるりとした真っ黒の下着は、装飾品を一切取り去った機能性にオールベットの代物だ。ワイヤーなし、レースなし、色気なしのそれは、リオさんをその気にさせるという今の私の役割に相応しくない。
「なんで?かわいいよ、すごくかわいい」
「いや、こんな地味なので、その、すみません……っ」
ましてリオさんは若い世代に人気のあるライバーで、それは彼の私生活も同様のはず。可愛い年下を選び放題の彼に、女として枯れてるとか思われるのだろうかと恥ずかしくて、私は小声で首を振った。
「恥ずかしがってるところが一番かわいい」
「……っあ、……」
「それに俺、今日はあんまり下着とか見てあげられる余裕ないし」
リオさんの手が私のブラウスを肩から下ろして、するりと脱がす。隠すものをひとつ失った私の、精一杯胸元を抑える手すら、難なくどけられてしまった。
「勝負下着とかあんの?それは今度見せてね」
「あ……っ」
鎖骨あたりへ軽く口付けられ、手のひらが下着の上から私の胸を撫でる。サイズに自信がある訳でもないそれを楽しむように揉まれた後、後ろのホックに手が伸びる。
「……こっちも脱がすよ」
「あ……っ」
片手で容易く外されて、遊び慣れているなと思考の端で思う。マイクの近くの肌にちゅ、と軽くキスを落としてから、リオさんが肩紐に手をかけて私の胸を守るものが無くなっていく。
「ん……んん、っ」
その細い指が触れる度、堪えきれないくぐもった声が漏れる。肝心なところを避ける指が遊ぶようにその周りをなぞっては離れて、焦らされていると悟った。期待する心を悟られたくなくて咳払いのようにごまかした声を、リオさんが小さく笑う。
「はは、やらしー顔してる。……ちゃんと触って欲しい?」
「っ、……」
「いいよ、触ってあげる」
「あっ……ん、っ、すみませ、ん……っ!」
ようやくその先端をリオさんの指先が撫でる。期待に膨れた欲望で思ったよりも大きな声を出してしまって、謝ったところでもう遅い。
「もう一回やろっか、触るね?」
「はい、……っあ、あぁっ」
「……ナナ?」
「ご、めんなさ、……っ、んんっ」
仕切り直して触れられた指が与えるゆるい刺激で、私はまた声を上げてしまう。
「そんなに我慢できない?感度いいんだね」
「ち、が……っ」
「違わないでしょ?ここだけでそんな顔しちゃうんだから」
「あ、あぁっ、だめ……」
「嘘つき。もっとされたい癖に」
「や、っあ、だめ、だめ……っ」
声なんて抑えられないまま、その指が私の胸を弄ぶ。気持ちいい所に触れられる度に自分が自分でなくなっていくようで、ひたすら首を横に振って自身の欲望に抵抗した。何より、目の前の男に心を見透かされている、その事実が恥ずかしくてたまらない。
「あー、かわいい……」
こんなの私じゃない。本当だったら今頃は、担当している女性ユニットの新衣装を確認する時間だった。ふわふわと甘い女の子をもっとかわいくする、そんなデザインの最終チェックをする私は、色気のない仕事着で遅くまで残業するしがないOL。かわいいものを世に送り出せても、自分自身がそうなはずがない。なのに今の私は仕事をほとんど放棄して、目の前の男の与える刺激に溺れてばかりで、甘い声が我慢できない。
「リオさ、っいったん、とめて、……っ」
「んー?やだ」
「っ声、出ちゃ、うから……っ」
「……ねぇ、こっちも触っていい?」
降参を認めるように声を絞り出したのに、リオさんはそれに答えない。胸から離れた指先がお腹を辿ってからスカートの上をなぞって、思わずびくりと身構えた身体すら、見ぬふりで芝居は続く。
「……いいの?嬉しい……」
そんなこと言っていないのに、サイドのジッパーが下ろされていくのを止めることが出来ない。いつかこの音声を聞く女の子達と同じように、私はこの場の甘い言葉に溺れて、続きを拒めないでいた。
「……っん、……」
深いキスを重ねながら、腰を浮かすように促され、私は素直にそれに従う。これも仕事だからと自分に言い訳をして、デスクに座ったままの足をリオさんがそっとなぞるのにあわせて、少しだけ脚を開いた。下着までまとめて片足から引き抜かれれば、あっさりとそれらは床にぱさりと落ちる。
「あの、見ないで、ください……」
明るい所で、しかも私だけこんな格好。恥ずかしさはとっくに限界だと思っていたのに、じっと見つめてくるリオさんと目が合えばかっと顔が熱くなる。
「……あんまりかわいいこと、しないでよ……」
「あ、あぁっ、ん」
「…………すごい濡れてる……」
そっと添えられた指が私の敏感な所に触れて、びりびりと身体を走るような刺激に思わず反応する。ぐちゅぐちゅとわざと音を立てるように指で擦られて、もうやめてと叫びたいくらいだ。
「ねぇ、聞こえる?この音……」
「あっ、ん……っ」
「……ナナ、ちょっと我慢して。音録るから」
「ん、んんっ、……ごめんなさ、っ……」
「我慢できない?」
「でき、ます、……っ、んんっ」
「あはは、もう出来てないじゃん。仕方ないなぁ」
「ん……っ、」
呆れたような声と濡れた瞳が近付いてきて、口付けが私の言葉を奪う。さっきまでと違う、リップ音もない静かなキスの裏で、身体に触れる指は激しく音を立てて、ますます遠慮を失っていく。
「ん、もういいよ。息辛くない?」
「だいじょ、ぶ、です……っ」
濡れたそこは容易くその刺激を受け入れて、ぬるりと私の中に指が入ってくる。反応を伺うようにゆっくり奥まで進んでは、じれったいくらいのスピードで抜かれて、その度に身体が快感を拾ってしまう。
「……感じてるあんたの顔、すごいかわいい……」
時折落とされる録音用の口説き文句ですら、私の身体を支配する。
「あ、今ちょっと締まった……ドキドキしちゃった?」
「……違い、ますっ、気持ち、よくて……」
「…………なに、こういうの、慣れてるの」
「え……?」
「さっきからずっと、俺のこと煽ってきてさ……そんなに物足りない?」
「な、なに言ってるん、で…………」
思わず普通に声を出してしまう私を瞳で黙らせて、リオさんは話し続けた。
「……本当はもっと、余裕あるとこ見せたかったんだけど……」
ベルトをゆるめる金属音がやけに響いて、私はその意味にようやく気付いていく。
「……あんたも物足りないなら、もういいよね」
「────!」
だめだ。だめに決まってる。仕事として許される範囲はとっくに越えていても、さすがにこれ以上は本当に良くない。反射的に脚を閉じようとする私を、リオさんは逃がさなかった。
「リオさ────」
声を出さずにできる抵抗はやすやすと跳ね除けられるなら、もう声を出すしか道はない。開いた私の唇に、リオさんはそっと指を添える。
まるで聞き分けのない子どもを静かにさせる時のように、シーッとジェスチャーを寄越した目の前の人を、私は困惑しながら見つめた。
「…………じゃあ、入れるね?力抜いて」
うちのライバー契約に、人格の審査はない。過去には不祥事を起こした人だっている。この収録だって、ただセックスしたいだけの口実と考えるほうがまともだ。
「…………」
私という人間が試されているのを感じながら、そっと力を抜く。
どうあれこの人の声は本物だ。才能とその持ち主を信じなければ、信頼されるマネージャーにはなれない。覚悟を決めて腕をリオさんの背へ回す。その気にさせる、それが仕事だから。
「…………っはぁ……」
リオさんは私に身体を密着させる。ほとんど抱き合った状態で、服越しにもその熱が伝わってきて心臓が跳ねた。
「…………ん、入ったよ……痛くない……?」
気遣うように頬にキスされて、ようやく事態を理解する。リオさんは自身に触れているけれど、私の中に入っているのは指のままだ。整った顔立ちの二つの瞳が、熱っぽい眼差しで甘く囁く。
「大丈夫?動くね……」
「……っん……」
まるで二つの刺激をリンクするように、私の中で指が動く。抑えられない吐息が漏れるのを懸命に堪えても、耳元で鳴る声が私をおかしくしていく。
「……はぁ、……中、すごく狭い……」
「ん……っあ……っ」
「熱くて、うねってて……気持ちいい……あんたも?」
「あ、っ……ん、んん……っ」
鮮明に語られるとまるで辱められているようで、こくこくと頷きながら快感に耐えるので精一杯だ。敏感な所ばかり刺激されて、私は気持ちよくなる必要なんてないのに、勝手に身体が欲に溺れていく。
「あ、……ん、ッあ、だめ、だめ……っ」
「…………すごくかわいい。大好きだよ」
セリフすら私の身体を愛撫して、私の中へ入り込む指の形を、嫌でも意識してしまう。
「…………んっ……」
散々弄られた私のそこは、期待するように疼く。声を出してしまいそうになるのを堪えたくて私のほうから顔を近付けたら、リオさんが少し目を見開いてからすぐにキスしてくれる。
「ん、んんっ……」
縋り付くように腕を回して、深いキスで塞ぐのに、それでもくぐもった声が出てしまう。絡める舌も、中で私を刺激する指先も、どっちも酷く気持ちよくて、逃げたいのに逃げられない。
「だめ、リオさ、もう、……っ」
「イッちゃいそう?」
「ごめんなさ、……っ、」
「なんで謝るの。ナナのかわいいとこ見せてよ、……ここが好き?」
「あ、あぁっ、だめ、そこだめ……っ」
「いいよ、声我慢しないで」
「リオさん、リオさん、だめ、……っ」
「……ん、いいよ、俺も、もう我慢できないから……一緒にいこ……っ」
不安定なデスクで我を失った身体が、リオさんにしがみつきながら達した。私の荒い呼吸が少し収まったのを見てから、リオさんが録音用のセリフと一緒に甘いため息を吐く。
「好き、大好きだよ……」
こんなのお芝居だと分かっていて、その声は私を捕らえて離さない。
「っ、……出る、……」
小さく震えた身体が、私のお腹の上にそれを放った。
「……っ、はぁ……大丈夫?」
私を見上げる瞳にはまだ欲望が揺らめいて、それだけでごくりと唾を飲み込む。答えられない私に甘く口付けしながら、背中の向こうのマイクスイッチに手が伸びていく。
「……ん、俺も大好き。またしようね?」
カチリと音を立てて、録音中の表示は録音完了に切り替わる。ようやく全てから解放されたのに、お腹をティッシュで拭ってくれるリオさんを前に、私は身動きすらできない。こんなことまでされたことを怒るべきなのか、それともドライに、撮影お疲れ様でしたとでも言うべきだろうか。
そうして黙ったままの私を勘違いしたリオさんが、また私の足に手を伸ばした。
「どうしたの?あ、テイク2いる?もっかい録ろうか?」
「い、いりません!!」
「あはは、声でっか」
慌ててぎゅっと身体を縮める私に、リオさんは陽気に笑いながら私の服を返してくれる。
「別人みたいだね。……さっきまであんなにあまーい声出してたのに」
収録の熱を引きずったままのその艶のある声と言葉は、一介のマネージャーに戻ったはずの私を容易く翻弄する。
「…………こんなこと、もうしませんから……!」
私の気も知らないで。
そう言いたいのを堪えて、目の前の生意気な男をきっと睨みつけたのに、返ってきたのはまた笑い声だった。
それはまるで買い出しでも頼むような、同期の軽い一言から始まった。
その日の私は、自分の担当ライバーの新曲再生数の伸びに気分が良くて、よく考えないまま頷いてしまったのだ。
それが全ての始まりだった。
「うん、いいよ。どうしたの?」
「うちのサイドブルーの有栖川リオって、知ってるか?俺の担当の」
「うーん、ブルーなら男性ライバーでしょう?ごめん、私レッドのことしかあんまり……」
「いや、大丈夫。俺もレッドのこと知らないし。っていうか、リオはブルーの中でも全然活動してないしな」
私の勤める会社は、近年急成長しているジャンル、ライバー……いわゆる“配信者”の所属するマンモス事務所だ。
少しでも才能のある若者を捕まえては契約を結び、青田買いを目指す。その経営方針がたまたま成功して、今では何百人というライバーが所属している。
「プラチナフレーバー」なんて社名は名ばかりで、その中身は玉石混交。
その膨大な人数を、女性が所属する「サイドレッド」、男性が所属する「サイドブルー」の二種に分けて運営している。
私がマネージャーとして所属しているのは「サイドレッド」だから、はっきり言って著名でもない男性のことは知らなかった。
「で、その有栖川さん…?がどうしたの」
「リオはここ一年ほとんど配信してないんだが……実は案件が来た。しかも百万円」
「え!?」
ライバーの収入源のほとんどは、投げ銭か案件報酬だ。一年もろくに活動していない人にそんな大金の話、飛びつかないわけがない。
「すごい!!」
「ああ。でも、受けたくないんだってよ」
「は、はぁ!?なんで!?」
「そこはいろいろ。で、俺ら同期でも一番優秀な由美……いや七瀬由美様にお願いしたいなぁ!って」
「優秀って……」
「事実だろ?担当したユニットがメジャーデビューしてんだからさ。敏腕マネージャーさん」
同期のなかでも良く言えば明るく、悪く言えば適当な男────木村駿くんは芝居がかった声でウインクを寄越す。調子のいい褒め言葉のまま茶封筒をひらひらと振った。
「案件の詳細は説明したんだが、俺じゃダメだった。なんとか会社に呼ぶことには成功したから、会議室C行ってくんねぇ?契約書にサイン貰えばオッケーだから」
「えっ!もう来てるの!?」
「そう、でも────」
「ちょっと、マネージャーが担当待たせてどうするの!?私行ってくるから!」
のんびり話し続けようとする駿くんから資料を引ったくって、私は急いで立ち上がった。細かな事情は知らないが、そこまでやる気のないライバーを待たせるなんて、余計に本人の心は離れていくだろう。
ライバーとマネージャーにとって、最も大事なのは信頼関係だ。ライバーのささいな要望、悩み、そして時には秘密にしたいくらいの、最大の夢。それを全て教えて貰えるような関係にならない限り、本人にもマネージャーにも成功はない。
何百人も抱えてはサポートしきれず卒業していく、この会社の方針にはうんざりしていた。せめて私と縁のある人だけでも、この事務所に入って良かったと思ってほしい。駿くんの思うつぼだと分かっていても、私は放っておけず執務室を飛び出した。
「あーあ。真面目も行きすぎは毒だよなぁ」
その後ろで呑気に手を振る駿くんの、無責任な一言に気付かないまま。
***
「お待たせしました……っ、だ、代理の七瀬です……!」
息も絶え絶えで会議室に走り込んできた私を、その人は気怠げに出迎えた。
「へぇ。あんたよく来たね」
およそ第一声として不適切なセリフを吐きながら、その人は不躾な目線を寄越す。男性にしては長めのウルフカットにシルバーのインナーカラー、指先に光る数々の指輪。顔立ちは甘く少年のようなのに、その装飾品達が彼を近付き難い大人に見せている。
一年もほぼ無活動の人が、こんなに華のある容姿だとは予想外だった。ここまで美形なら、ただにこりと笑うだけで登録者が増えるだろう。いつでも若い世代のファンを増やせそうなビジュアルに、うちの会社が採用したくなるようなキャラクターだなと思いながら、私は彼の隣まで歩みを進めた。
「失礼します。改めまして、七瀬由美と申します」
ジャケットのポケットから名刺入れを探り当てて、慣れた動作で彼へ渡す。片手で受け取ったそれを弄ぶようにひらひらと裏返しては、つまらなそうな声で彼が口を開いた。
「ふーん。普段は女の子のマネージャー?」
「そうですね。うちは基本、トラブル防止のためにも同性のマネージャーを担当しますから。ですが、サイドレッドでの経験を活かして、今回は有栖川さんのお役に────」
「なに、あんたすげぇ真面目じゃん。面接みたい」
座ったままの有栖川さんが、私の言葉を遮る。
ここへ来る前になんとかプロフィールだけは確認して、経歴と簡単な活動内容くらいは把握したはずのその人は、情報が正しければ二十四歳。
私より年下なのに失礼な人だな。心の端で思うのは止められない。
ライバーは尖った才能ゆえか、性格や価値観も独特な人が多い。ビジネスの空気など無視する人のほうが多いし、予測不能なコミュニケーションには慣れているつもりだ。
「……失礼します」
それでも一筋縄ではいかないことを察した私は、有栖川さんの目の前の椅子へ座る。ここで流れに飲まれているようでは、交渉も何もない。
「あんたその“トラブル”に堂々と首突っ込んでる癖によく言うよ。断れなかったの?」
「……え、……はい?」
有栖川さんの言わんとしていることを察せず、つい素の声が出る。有栖川さんは机の端に置いた資料を包む茶封筒にちらりと目をやって、口の端で笑みを見せた。
「いいよ、そういうの。まさかマジで寄越すと思わなかったけど」
「……ごめんなさい、仰ってることが……」
「いやいや、言ったでしょ?口が堅い女の子なら別に誰でも良いって」
「あはは、私、女の子っていう歳では……」
「あんたでいいから、普通にして。何も事情を知らない人にとか、そういう趣味ないから」
「あの!すみません、本当に………………」
話が見えないまま有栖川さんが話し続けるのを、私はようやく制止した。
有栖川さんが担当────つまり駿くんに何かリクエストしていたのであれば、それを私が知らないのは問題だ。伝言すらできない事務所だと思われたくはない。でも、この誤解は何よりまずいというマネージャーの勘が勝って、私は申し訳なく眉毛を下げた。
「……本当に、知らないんです。駿く……あなたの担当マネージャーからは、実は先程話を聞きまして」
「………………マジ?」
「ま、マジです……」
有栖川さんは驚きを隠さない。ようやくその目から面倒ごとを片付けてしまいたいという色が消えて、だらりと投げ出していた長い足は急に勢いづいて立ち上がる。
「マジで何も知らないでここへ!?あんた、その……やっぱりこの会社、最低だな」
「えっ!?ど、どうしたんですか」
「言わないよ。あーあ、金が稼げればなんでもいいんだ、ここは」
「そ、そんなことは無いです!」
足元に置いた小さな鞄を取ろうとする有栖川さんを、慌てて引き止める。このままじゃ交渉が始まる前に帰られてしまう。入社から六年、二十八歳。新事業すぎるこのライバー業界で生き抜いてきた経験と、成績は同期トップを走ってきたプライドが、彼をこのまま帰すわけにいかないと叫んで、私は彼に合わせて立ち上がった。
「もちろん[[rb:プラフレ> 弊社]]にはまだ行き届かない所があると思います。でも案件は貴重なあなたのチャンスです!」
彼にとってうち────プラチナフレーバーは信用に値しない。それなら、彼を信じてくれる別の存在に訴えるしかない。
「あなたにこのお金を支払う価値があると……そう思っているクライアントがいるんです。それは、あなたの活躍を望んでいるファンのためにもなるんです!」
「ファン?俺の?いないよ、そんなの」
「います!登録者だって……」
彼はうちで活動し始めて二年ほどになる。そのうち最初の一年はゲーム実況や雑談など配信頻度も多く、そこで女性ファンを多く増やした。初速はうちに数いるライバーの中でも、成功しそうな部類に入っていたと言っていい。最近の一年はまともな理由も告げずほとんど配信をやめてしまっているのに、それでも登録者で居続けてくれているファンだって多い。彼を待っている人を思えば、ますます私がこの場で引き下がるわけにはいかなかった。
「あんなのただの冷やかしだよ。こんなつまんねぇ配信垂れ流してるやつにわざわざ……」
「ひど……」
思わず反論してしまいそうになるのをぐっと堪える。ファンあってのライバーなのに、それを馬鹿にするような言葉は自己卑下だとしても許せなかった。
私の担当するアイドルユニットは、もっともっと少ないファンでも大切にし続けた。毎日見たくなるライバーを目指して、私だって彼女たちだって努力し続けた。その努力が報われるまでに、何年かかっただろう。一年で諦めてしまうような目の前の男に、同じことができるだろうか。
「…………ファンなら、私がいます!」
いや、私がさせなきゃだめなんだ。思い直して、なるべくはっきりと声を出した。
何人だろうと、ファンを大切にする心に、私が変えなきゃだめなんだ。
「あんた、俺の配信見た事あんの」
「無いです!」
「…………よく言うな、それ……」
「関係ありません!」
呆れ顔の男に、私は詰め寄る。
この人に小細工は無駄だ。どうせ私は思っていることが顔に出るとよく言われるくらいで、嘘ついて相手のやる気を出させるなんてことは向いていない。
「だって、あなたの配信つまらないんでしょ?なら見なくていい」
「…………ふぅん」
有栖川さんが機嫌を悪くしたのが、その細めた目で分かった。この人も顔に出るタイプらしい。その不愉快そうな視線は、裏を返せば誇りの表れにもとれる。
この人は本当は諦めていないし、まだ希望を持っているんだ。自分はこんなものじゃないとぎらつくハングリー精神は、きっとこの人を変える。
「見なくても分かる。会ってすぐ分かった。私はあなたの声が好き」
「……声?顔じゃなくて?」
大した自信家がにっこり笑う。そう言われるとは思わなくて、私はつい眉をひそめそうになった。こんな生意気な年下、仕事相手でもなければ文句のひとつも言いたい。
「ええ。もちろん、ビジュアルも素敵だと思いますよ。でも私は声に魅力を感じました」
中性的なビジュアルとは少しギャップのあるその声は、少し吐息が混ざるような、端々にざらついた音を含む。他の誰かに例えようと思っても難しいその独特な魅力は、それと反するような言葉遣いの粗さも相まって、時折どきりとするような男性的な香りをまとっていた。
「唯一無二の声です。あなたをここで帰らせたくない」
「…………あんた、どっち?案件のこと知ってんの?」
「知りませんよ。私が知っているのは、有栖川リオさんという才能をもっと見たいっていう、会社の意向だけです」
「そう」
有栖川さんが私の了解も得ず、机の茶封筒を手に取った。何もかもを明かしてしまった私をじっと見つめたまま、細い指先で製本された契約書を引き出す。
「……確認するけど、俺はこの案件を受ける条件をプラフレに出した。俺の収録に協力してくれる、口の堅い女の子を貸してくれって」
私を見透かすような瞳は、ところどころグレーに輝く。カラーコンタクトだろうかと思いながら、私はその煌めきから目が離せない。
「でもあんたはやめたほうがいい。俺はプロを呼んで欲しいって言ったつもりだった」
「────!」
こちらが何も言わずとも契約書まで手を伸ばしたはずの男から、思いがけない言葉が飛び出す。
「……お言葉ですが」
驚きと悲しみと、ほんの少しの怒りが私を支配して、サインまであと一歩の道のりをぐらぐらと揺らしていた。
「私はプロです。誇りがあります。ここへ入った時は私でいいと言ったはずです」
「……そういう事じゃないんだって」
「はっきり言うと、マネージャー部署は成果主義です。有栖川さんを他へ渡したくない。あなたはきっと成功する」
「だからさぁ、俺はあんたに……」
「確かに年齢は頼りないように思えるでしょうが、できたばかりのこの業界では、ベテランと言えると思います。あなたの才能のためなら、私は努力を惜しみません!」
いつの間にか同期からの厄介な頼み事から、次第に私のプライドと経験を掛けた交渉へ変わっている。
それほどまでにこの場で引き下がりたくない、もはや意地のようなものが私を突き動かして、有栖川さんの会話を横取りしてまで私は話し続けた。
「あなたの配信のための全てを、なんだって揃えてみせます。口が堅い人がご希望ということは、マネージャーによるプライベートの心配ですか?なら私用スマホは捨てます」
「ちょ、ちょっと、俺そこまで────」
どうせ、休みの日にも電話一本で呼ばれる身だ。仕事漬けの私にとって、自身のプライベートなど大した価値もない。今ここでこの人を競り落とすことに比べれば尚更だ。
「有栖川さん、私にしてください。私があなたを変えます。絶対に後悔させません!」
「……………………はぁ……」
長い沈黙の後、有栖川さんがため息をついた。
「あんた真面目だけど、バカだね」
「なっ…………」
「いいの?サインするよ」
有栖川さんが鞄からペンを取り出す。ちゃんと持ってきているのだから、この人だって本当は挑戦してみたい案件だったのだろう。その意気を壊したくなくて、私は真っ向から悪口を言われたことにも黙ったまま首を縦に振った。
「条件は、あんたが俺を手伝う。あの使いものになんない駿を剥がして、あんたが俺のサポートをする」
「はい!」
「本名書くから、あっち向いて」
「はい!」
思わずほころんだ私の顔を、座りなおした有栖川さんが訝し気に見上げる。署名欄にペン先を当てながら、あと少しのところで踏みとどまってしまった。
「ねぇ、しつこく聞いて悪いけど……無理やりこの仕事を押し付けられたわけじゃない?」
「……違います。さっきも言いましたけど、私プラフレだと歴は長いほうなんです。もう二十八ですし、仕事は選べます」
「はは、すごいね」
乾いた笑いを寄越して、有栖川さんがようやく契約書に筆を走らせはじめたので、慌てて目を瞑った。仰々しい約束事を並びたてたその紙束はようやく拘束力を持って、この気まぐれな男を縛りつけたのだ。まだなにも始まっていないのに一仕事やりきったような達成感すら覚える私に、有栖川さんは契約書を封筒ごと突き返した。
「はい。そんじゃおねーさん、自分の言葉には責任を持ってね」
「……?はい、これからどうぞよろしくお願い────」
「早速だけど、納期来週らしいんで、この後録るから。ここ、上の階にいくつかレコーディングスタジオあるでしょ?小さい部屋でいいから、一時間後に抑えといて。俺昼飯行ってくる」
「は、はい」
切り替えたようにてきぱきと話す姿に少し驚く。やる気がなかった割には行動が早い。納期がギリギリなのはいつものことで、こんなことで戸惑うほど経験不足でもない。
「あと、その中の資料ちゃんと読んどいて、ナナちゃん」
「ナナ………」
「俺のことはリオで。じゃ、一時間後に」
「分かりました、リオさん」
「あんたが自分でやるって言ったんだからね。約束は守ってよ?」
私がその意味深な言葉の意味を理解したのは、リオさんが会議室を出ていって、さらに数分後のことだった。
駿くんに勝利の笑みを見せつけながら、法務部に契約書を渡した後、残された茶封筒に入っていた、あまりに簡素なA4用紙一枚の企画書。
目に飛び込んできたその一文は、どこにでもあるゴシック体で、私に想定外の事実を告げた。
『成人女性向けアダルトシチュエーションボイス ご出演のご相談』
***
「う、うちでもけっこう珍しい部類の案件ですね……!」
「そうだね。俺も正直びっくりした」
「あの、こういうジャンル、最近流行りですから。こういったその、えっ……あ、アダルトな音声を投稿できるサービスを運営しているクライアントが、ライバーとのコラボプロジェクトとして、ぜひリオさんを、というお話で……」
一時間後、なんとか平静を装いながらレコーディングルームへ案内する私に、リオさんは先ほどと変わらないテンションで中身のない企画書を読み直していた。「女性が心まで濡れる、有栖川リオさんらしい素敵な音声を納品していただきたいです。シチュエーション等はお任せいたします。」なんて、もはや企画でもなんでもない。それでいてクライアント側の監修スタッフもつけないというのだから、はっきり言って丸投げすぎて憤りすら覚える。そもそもこんな話なら、せめて収録の案内は駿くんに代わってもらいたかった。あいつ、私が企画書の仔細を聞こうとしたときには、分かっていたかのように消えていたし。
「俺、別にエロ売りしてないし、普通のボイスも出してないし……」
「でも、ほら、こ、声がいいですから、リオさん。それよりその、急だったのでレコーディング用の機材スタッフが抑えられなくて……」
「あ、それは大丈夫。俺大体分かるから」
「へっ、あ、そ、そうなんですか」
「それに聞こえ方は都度ナナが確認してくれればいい」
「えっ、わ、私ですか……!?」
「あはは、さっきからどもりすぎ。他に誰がいるの」
部屋の前まで案内したら頃合いを見て撤収しようと思っていた私の背中を、リオさんがぐいと押す。防音室特有の重い二重扉を涼しい顔で押し開けるその勢いに逆らえなくて、私はおずおずとスタジオへ足を踏み入れた。
いくら相手がライバーで、私はそれが仕事だからって、初対面の人間の “心まで濡れる音声”なんて、さすがに気まずくて聞いていたくない。サイドレッドは対象年齢の上がる仕事は本人の意志だけでなく、ユニットの方向性やファンの反応など、様々な要素を何度も話し合って慎重に決める。肌の露出ひとつとっても大きな会議が必要になるこれまでの経験からは縁遠い現状に、何度も入ったことのある部屋の中で、私の目は意味もなく泳いだ。
「じゃ、じゃあ……あっちの部屋から電源入れますから、こちらでお待ちください」
スタジオの中は、正確には演者が声を吹き込むレコーディングルームと、スタッフが機材を操作するコントロールルームに分かれる。気まずさを隠すためにとにかく手を動かしたくて、私はコントロールルームで機材の調整に時間をかけていた。
「ナナ、まだ?っていうかさ、勘違いしてない?」
「え……?」
しばらくガラス窓の向こうのレコーディングルームから見守っていたリオさんが、マイク越しに話しかけてくる。
「あ、すみません!急ぐので、このまま少し発声テストしてお待ちいただいて……」
「そうじゃなくて」
少し大きく調整しすぎた音量のせいで、リオさんの声はコントロールルームを包み込むように鳴る。
「俺さ、演技本当にできないんだよね。ここに入った時も、一応舞台とか声優とかの仕事をこなせるか、っていう面談あったんだけど……俺はあまりにも演技がダメすぎて、そういうレッスンつける気にもならないって言われた」
「そ、そうなんですね、では……」
「だから、演技が必須のシチュエーションボイスなんてできない。プラフレが俺を見限ったんだろ、って言ってやった」
「…………」
「それで、どうしても百万円稼がせたいなら、演技させるんじゃなくて、本物寄越せって伝えた」
ようやく、ようやく────私はすべてを理解する。
駿くんがどうしてこの人を待たせて、ろくな事前共有もなく私を交渉の場へ放り込んだのか。
この人がどうして私に何度も、引き返す道をくれたのか。
「口が堅くて、何でもしていい女の子用意しろって」
心臓がうるさい。詳しい使い方も知らないくせに、数えきれないボタンが並ぶ機材から目線を上げられない。
「で、あんたが来た。……もう分かった?」
分かりたくないのに、リオさんは私の言葉なんて待たずに、その一瞬で私を魅了した声で続けた。
「あんたはこれから俺の言いなりになって、俺の演技《《じゃない》》声を録るためのお人形になるってこと。女の子を口説いて脱がして、抱いて、その様子をリアルに録る、それが今回の案件の条件」
顔を上げた先、ガラス越しのその人は、どんな顔で私を見ているんだろう。
「ねぇ、約束は守れる?」
勢いで書かせたサインが縛ったのは、私のほうだった。
***
「わ、私、その……」
「あはは!」
なんと答えるのが正解か分からなくて、言いよどんでしまう。戸惑う私の耳に、マイクが増幅させた軽快な笑い声が降ってきた。
「いいよ別に。やめよ、俺だって騙し討ちに加わったようなもんだし」
「え……?」
「ほんとはさ、そういうお仕事してる女優さんを探して、って言ったつもりだったの。まさか自社のマネつけてくるなんてね」
「それで、さっきプロがいいって……」
「そうそう。でもさ、やっぱりそういう女優さんでも、俺無理かもなって今思った。あっちこそ演技なわけでしょ?接客されてるみたいで、なんか申し訳なくなるっていうか……。あんまりその気になれないかな」
「で、でも……それじゃ収録が……」
「うん。だから悪いけど、断っといて。もし他に案件が来たら、また連絡くれたらいいから。」
来ないだろうけど、と続けた声が虚しく響く。そんなことないですとは言えなかった。
「それじゃあ、担当を私に変えた意味が無いじゃないですか……」
「別にいいでしょ、あんただって無駄に仕事増えなくて楽だよ」
「いえ、リオさんにとっての意味のほうです!」
「んー、どうでもいいじゃん、そんなの」
リオさんが会議室でしていた、自虐的な態度が顔を出しているのを察する。こんなに近くにいるのに、なぜか分厚いガラス窓に仕切られたスペースでマイクを通して話しているのがいけないのだ。設定途中の機材をそのままにして、私は立ち上がった。
「それに私、契約書もう出しちゃったんです、はやくクライアントにお返ししたくて……今頃もうバイク便が持って行ったあとです」
「…………は、はぁ!?あんた仕事できるんだか、バカなんだか……」
一人用の少し狭いレコーディングルームに押しかけた私に、リオさんは驚きを隠さない。
そもそも、私がしっかり企画書に目を通していれば、こんなことにはならなかった。百万円という成果につられたのは、会社も私も同罪。だとすれば、その責任をこの人に押し付けたくなかった。
「私、プロのマネージャーです。約束の守れない、今まであなたを傷つけてきた人と一緒にしないで」
「ちょ、何してんの……」
「あなたの才能のために何でも揃えるって、言ったのは私ですから」
私は自らのジャケットに手をかけた。これが、都合のいいことを言って女を食いたいだけのライバーなら、私だって正しく断っている。でも散々咎められた言葉を、ろくに聞かずにここまで来たのは私なのに、リオさんはやめようと言ってくれた。自分に舞い込んできた貴重なチャンスを諦めてまで。
「いいですよ。……しましょう、収録」
肩からずるりと落ちていくジャケットを受け止めて、扉の覗き窓を隠すように掛ける。動くと音が鳴ってしまいそうな腕時計も外してしまおうと留め具に触れたら、金属製のそれが思ったよりも冷たく感じた。焦りと緊張が、私の体温を急激に上げていることに気付く。きっと私は顔まで真っ赤で、声だって気を抜けば震えてしまいそうだ。
「あの……」
勢いで近付いたはいいものの、無言のリオさんの反応が怖くて、私まで押し黙る。見上げた瞳の中には、不安そうな私が映っていた。
オフィスカジュアルという社内規定通りの、飾り気のないブラウスに、色気のないネイビーのスカート。マネージャーに装飾は不要と、アクセサリーすらろくに着けていない、地味な女。
その道のプロである女優すら無理そうだと言っていた人の、“リアルな声”を引き出すなんて、こんな私にできるだろうか。
「それとも私じゃ、その気にならないですかね……」
「……いや、今なった」
「あっ……」
「いい?本当に無理だなと思ったら、いつでも言って」
リオさんの指が私の頬に触れる。白くて長い指先が私の輪郭をなぞって、男の人であることを意識せずにはいられない。まだ覚悟すらできていない私がびくりと反射的に反応してしまったのを、リオさんが様子を窺うように覗き込んだ。
「俺だって、ここまで俺のためにしてくれる人、手離したくない」
「だ、大丈夫です……好きにして、ください……」
「……そっか。向こうの部屋、どのくらい弄った?」
「電源入れて、主音量をちょっと……」
「そのくらいなら、編集の時に調整できるか。じゃあもう始めるね」
「は、はい……」
距離が近すぎる。初対面の人にここまで近付かれるだけでも緊張は許容量を振り切れているのに、その声が私のそばで鳴るたび、思考が削がれていく。本来マネージャーがセッティングすべき録音環境がリオさんによって整えられていくのを他人事のように見ていたら、その指が最後にマイクのスイッチを入れた。
「……こっちおいで。そう」
録音中を示す赤いランプが灯って、私はリオさんに手を引かれるまま、レコーディングルームの机に腰掛けた。椅子より少し高さのあるそこは、後ろを振り向けばプラフレが購入した高級スピーカーやらモニターやらが並んでいる。一介のマネージャーが簡単に弁償できるもので無いのは明らかだ。小心者の私がその札束の圧力に身動きできないでいたら、立ったままのリオさんが何でもないかのように、私のブラウスのボタンに手をかけた。
「……っ!」
反射的に制止したくなるのを、なんとかこらえる。私は今ただの人形、マイクの一部なんだから、音を出すことは許されていない。それでもまだ曖昧だった覚悟を急に迫られて、デスクに置いた手のひらを握りしめた。
もう少し段階を踏むと勝手に思っていたのに、リオさんは私の反応も見ずに容易くボタンを外していく。
一つ目は首元が緩まるくらいで済んで、二つ目は鎖骨が見えた。躊躇いなく三つ目に進んでいくそれを、仕事として受け入れなければと思うのに、どうしても我慢できなくて私は口を開く。
「や、待っ……────」
「ん?ごめんね、くすぐったい?」
緩めたブラウスを少し引っ張って、リオさんが私の下着の肩紐に触れる。あまりにも予想外だった私の沈黙を別の意味に受け取ったのか、リオさんがいつの間にか手にしていた小さな機械を見せてくれた。
「あぁこれ?最近買ったの。クリップ式で服につけるワイヤレスマイクなんだけど、ここにつけちゃうね」
「は……はい……」
「俺の声はスタジオの機材で拾うけど、ナナの服が擦れる音とか、そういう女の子側の環境音も録りたいからさ」
百円玉ほどの大きさしかないそれを私の下着に挟んで、レオさんは手早く私の衣服を正していく。律儀に一番上までボタンを留めなおしたあと、口の端で少し笑った。
「なに、もしかして期待してた?」
「し、してません……!」
「はは、もう脱がされると思ったって、顔に出てるよ」
「……最低……っ」
からかう視線が図星なのが恥ずかしくて、ついマネージャーらしからぬ言葉が出る。
「んー……まぁ、結局脱がす前提であんなとこにマイク着けてるんだから、最低っちゃ最低か」
「な……っ」
リオさんは楽しそうに服の上から私の肩を撫でる。仕込まれたマイクの上を滑る指を意識せずにいられなくて、私は行き場のない声をしまい込んだ。
「でもそんなに怖がらなくて大丈夫。俺、じっくり楽しみたいタイプだからさ」
遊ぶような指が閉めたばかりのボタンを弄んで、そして首筋から頬に触れる。
次第に近付いてくるその瞳を見つめ返す勇気がなくて精一杯視線を逸らすと、私の背中越しに機材の何かを操作しているのが分かった。
満足がいったのか、機材から離れた手が私の背に触れる。たったそれだけのことで動揺が隠せない。反射的にますます目を逸らした私の頬を、リオさんが撫でた。
「…………ねぇ、こっち向いてよ」
────その声は私の身体を駆け巡るようで、これまでのどんな触れ合いよりも明確に、私の心臓を跳ねさせた。
生意気で気分屋な性格とは全く違う、爽やかな王子様みたいな透き通る声に、少しだけ掠れた吐息が混ざる。はじめての会話から分かっていたその魅力が収録という場で最大限に発揮されて、マネージャーとしてではなく、女として抗えない何かが私を素直にさせた。
「そんなに緊張してるの?……かわいい」
「…………っ」
ようやく見つめ返したその瞳がすぐに近付いてきて、私の了解も待たずに唇を塞がれる。背中に回された腕が私から逃げ場を奪って、わざと音を立てる短い口付けを受け入れることしか出来ない。
「…………はぁ、かわいい」
囁くような声は普段より少し低くて、ため息が堪えきれない欲望を表す。何度も愛おしむように言われれば、かわいいなんてたった四文字の常套句にも、恥ずかしさが込み上げてきた。なんだ、リオさん演技できるじゃん。
「んっ………」
短いキスが次第に長くなって、リオさんの舌が私の唇をぺろりと舐める。促されるように薄く開いた唇から舌が入り込んできて、私のそれにそっと絡めてきたとき、思わずくぐもった声が出てしまった。
謝ろうか、キスシーンから録りなおしてもらおうか。悩む私が反応を伺いたくて薄目を開けたら、じっとこちらを見つめるリオさんと目が合った。長めの前髪から覗くその瞳は欲望の色を孕んで、これから起こることを否応なしに想起してしまう。
「────っ!」
目を閉じている間は非現実的だったのに、見慣れたレコーディングルームに引き戻された私が、現実感を取り戻す。それでも止める勇気もなければ、キスする時に目を閉じるのはマナーだと抗議したくとも出来ない。そうして黙ったまま目を見開く私を気にも留めず、リオさんはその甘い声で私を支配する。
「……あんたも、舌出して?……そう」
またその声だ。こんなこと間違っているのに、掠れた声に促されて素直に従ってしまう。少し開いた口を、またリオさんが塞いだ。マイクで拾えるんだろうかと不安になるほど囁くような声と、うるさいくらいに響くリップ音。
「っ…………」
深さを増すキスが私の身体で遊ぶみたいに、上唇を舐めたり軽く舌を吸われたりする度に、堪えきれない吐息が漏れる。せっかくここまで文字通り体を張って録っているのに、私のせいで使い物にならないなんてことは何とか避けたかった。これ以上長く続けられては本当にごまかしようがなくなりそうで、抱きしめられた腕の中で何とかもがく。
「……ん……キス、長かった?」
「…………っ」
私が答えて良いのか迷っていると、リオさんが髪に触れてくる。長い指で梳くように遊ぶ仕草はまるで気まぐれな猫だ。
「こういう時は鼻で息するんだよ。あんた俺より年上なのに、知らなかったの?」
「ん……っ」
そのくらい知ってるのに、抗議する間もなく、リオさんがキスを再開する。唇を合わせる度に身体まで溶けるように熱くて、吐息をどこまで堪えられているか分からない。無理やり自分で口を塞ごうにも、キスしてるんだからそんなことは出来なくて、いっそ他の所を触られるほうがいいと思った頃、ようやくリオさんが唇を離した。
「…………あんたの苦しそうな顔、ちょっとそそる」
「────!」
人を散々物言わぬ玩具にしておいて、こんなこと言うのだから怒りたくもなる。誰のせいで呼吸すら堪えて苦しんでると思ってるんだ。
「ふふ、怒った?ごめんごめん」
無言で睨みつける私にますます気を良くして、リオさんが頬に口付ける。ちゅ、ちゅ、とままごとのような音が響いたあと、抱きしめられる腕に力がこもった。
「ごめん、俺浮かれてるな……。だってずっとしたかったから。あんたを初めて見た時から、こうしたかった」
笑ったり謝ったりでころころと変わる声音は、そのどれもが私を絆すのに十分だ。彼の口から紡がれる嘘のストーリーが、この行為が紛い物であることを知らしめるのに、どうしても心は平静でいられない。マネージャーとしての最善の行動を考える余裕もないまま、耳元で私にだけ聞かせるための言葉が鳴った。
「ナナ。声出してもいいよ」
「え、でも…………」
「俺の声に被ってなきゃ、編集でどうにかなるって。それに、ほんとにマグロだったら俺だってその気になんない」
「マ、マグロって…………」
「俺頑張るからさ。気持ちよかったら、ちょっとくらい反応してよ、ね?」
私たちしかいないのに小声の会話は、リオさんのキスで終わりを告げる。短いそれは唇から首筋に下りて、リオさんは一度身を離して私の瞳を見つめた。
「……ごめん。会ったばっかりだし、今日はキスだけって思ったんだけど……あんたが可愛くて我慢できない」
「…………っ」
今リオさんは私の身体のどこにも触れていないのに、その声は今までの深いキスと同じくらい、私の心を揺さぶる。熱に浮かされた思考で私が小さく首を縦に振ると、またリオさんの唇が近付いてきた。
「…………あんたも、したかった?」
キスされると身構えた瞬間、リオさんの声で私はびくりと反応する。ひた隠していたはずのそれを見透かされて、最早言い訳もできない私がもう一度頷いたら、自分が訊ねたくせにリオさんが驚いたように、少し目を見開いた。
「かわいい……」
それは何度目の常套句だろう。こんなにイケメンと言われ慣れていそうな子に言われても、素直に受け取れる歳でもない私は、微妙な気持ちで口付けを受け入れる。
「あ……っ」
深いキスに溺れる思考の端で、リオさんの指が私のブラウスに伸びていることに気付いた。それはゆっくりと私に触れて、もどかしいほどに時間をかけてボタンを外す。一つ目、二つ目がぷちぷちと小さな音を立てて、さっき外されなかった三つ目も、今度は正しく脱がされてしまう。そうして全てのボタンが開け放たれてから、ようやく自分の下着が全くこの場に相応しくないことに気付いた。
「ふふ、なんで隠すの。見せてよ」
「……駄目です……っ」
つるりとした真っ黒の下着は、装飾品を一切取り去った機能性にオールベットの代物だ。ワイヤーなし、レースなし、色気なしのそれは、リオさんをその気にさせるという今の私の役割に相応しくない。
「なんで?かわいいよ、すごくかわいい」
「いや、こんな地味なので、その、すみません……っ」
ましてリオさんは若い世代に人気のあるライバーで、それは彼の私生活も同様のはず。可愛い年下を選び放題の彼に、女として枯れてるとか思われるのだろうかと恥ずかしくて、私は小声で首を振った。
「恥ずかしがってるところが一番かわいい」
「……っあ、……」
「それに俺、今日はあんまり下着とか見てあげられる余裕ないし」
リオさんの手が私のブラウスを肩から下ろして、するりと脱がす。隠すものをひとつ失った私の、精一杯胸元を抑える手すら、難なくどけられてしまった。
「勝負下着とかあんの?それは今度見せてね」
「あ……っ」
鎖骨あたりへ軽く口付けられ、手のひらが下着の上から私の胸を撫でる。サイズに自信がある訳でもないそれを楽しむように揉まれた後、後ろのホックに手が伸びる。
「……こっちも脱がすよ」
「あ……っ」
片手で容易く外されて、遊び慣れているなと思考の端で思う。マイクの近くの肌にちゅ、と軽くキスを落としてから、リオさんが肩紐に手をかけて私の胸を守るものが無くなっていく。
「ん……んん、っ」
その細い指が触れる度、堪えきれないくぐもった声が漏れる。肝心なところを避ける指が遊ぶようにその周りをなぞっては離れて、焦らされていると悟った。期待する心を悟られたくなくて咳払いのようにごまかした声を、リオさんが小さく笑う。
「はは、やらしー顔してる。……ちゃんと触って欲しい?」
「っ、……」
「いいよ、触ってあげる」
「あっ……ん、っ、すみませ、ん……っ!」
ようやくその先端をリオさんの指先が撫でる。期待に膨れた欲望で思ったよりも大きな声を出してしまって、謝ったところでもう遅い。
「もう一回やろっか、触るね?」
「はい、……っあ、あぁっ」
「……ナナ?」
「ご、めんなさ、……っ、んんっ」
仕切り直して触れられた指が与えるゆるい刺激で、私はまた声を上げてしまう。
「そんなに我慢できない?感度いいんだね」
「ち、が……っ」
「違わないでしょ?ここだけでそんな顔しちゃうんだから」
「あ、あぁっ、だめ……」
「嘘つき。もっとされたい癖に」
「や、っあ、だめ、だめ……っ」
声なんて抑えられないまま、その指が私の胸を弄ぶ。気持ちいい所に触れられる度に自分が自分でなくなっていくようで、ひたすら首を横に振って自身の欲望に抵抗した。何より、目の前の男に心を見透かされている、その事実が恥ずかしくてたまらない。
「あー、かわいい……」
こんなの私じゃない。本当だったら今頃は、担当している女性ユニットの新衣装を確認する時間だった。ふわふわと甘い女の子をもっとかわいくする、そんなデザインの最終チェックをする私は、色気のない仕事着で遅くまで残業するしがないOL。かわいいものを世に送り出せても、自分自身がそうなはずがない。なのに今の私は仕事をほとんど放棄して、目の前の男の与える刺激に溺れてばかりで、甘い声が我慢できない。
「リオさ、っいったん、とめて、……っ」
「んー?やだ」
「っ声、出ちゃ、うから……っ」
「……ねぇ、こっちも触っていい?」
降参を認めるように声を絞り出したのに、リオさんはそれに答えない。胸から離れた指先がお腹を辿ってからスカートの上をなぞって、思わずびくりと身構えた身体すら、見ぬふりで芝居は続く。
「……いいの?嬉しい……」
そんなこと言っていないのに、サイドのジッパーが下ろされていくのを止めることが出来ない。いつかこの音声を聞く女の子達と同じように、私はこの場の甘い言葉に溺れて、続きを拒めないでいた。
「……っん、……」
深いキスを重ねながら、腰を浮かすように促され、私は素直にそれに従う。これも仕事だからと自分に言い訳をして、デスクに座ったままの足をリオさんがそっとなぞるのにあわせて、少しだけ脚を開いた。下着までまとめて片足から引き抜かれれば、あっさりとそれらは床にぱさりと落ちる。
「あの、見ないで、ください……」
明るい所で、しかも私だけこんな格好。恥ずかしさはとっくに限界だと思っていたのに、じっと見つめてくるリオさんと目が合えばかっと顔が熱くなる。
「……あんまりかわいいこと、しないでよ……」
「あ、あぁっ、ん」
「…………すごい濡れてる……」
そっと添えられた指が私の敏感な所に触れて、びりびりと身体を走るような刺激に思わず反応する。ぐちゅぐちゅとわざと音を立てるように指で擦られて、もうやめてと叫びたいくらいだ。
「ねぇ、聞こえる?この音……」
「あっ、ん……っ」
「……ナナ、ちょっと我慢して。音録るから」
「ん、んんっ、……ごめんなさ、っ……」
「我慢できない?」
「でき、ます、……っ、んんっ」
「あはは、もう出来てないじゃん。仕方ないなぁ」
「ん……っ、」
呆れたような声と濡れた瞳が近付いてきて、口付けが私の言葉を奪う。さっきまでと違う、リップ音もない静かなキスの裏で、身体に触れる指は激しく音を立てて、ますます遠慮を失っていく。
「ん、もういいよ。息辛くない?」
「だいじょ、ぶ、です……っ」
濡れたそこは容易くその刺激を受け入れて、ぬるりと私の中に指が入ってくる。反応を伺うようにゆっくり奥まで進んでは、じれったいくらいのスピードで抜かれて、その度に身体が快感を拾ってしまう。
「……感じてるあんたの顔、すごいかわいい……」
時折落とされる録音用の口説き文句ですら、私の身体を支配する。
「あ、今ちょっと締まった……ドキドキしちゃった?」
「……違い、ますっ、気持ち、よくて……」
「…………なに、こういうの、慣れてるの」
「え……?」
「さっきからずっと、俺のこと煽ってきてさ……そんなに物足りない?」
「な、なに言ってるん、で…………」
思わず普通に声を出してしまう私を瞳で黙らせて、リオさんは話し続けた。
「……本当はもっと、余裕あるとこ見せたかったんだけど……」
ベルトをゆるめる金属音がやけに響いて、私はその意味にようやく気付いていく。
「……あんたも物足りないなら、もういいよね」
「────!」
だめだ。だめに決まってる。仕事として許される範囲はとっくに越えていても、さすがにこれ以上は本当に良くない。反射的に脚を閉じようとする私を、リオさんは逃がさなかった。
「リオさ────」
声を出さずにできる抵抗はやすやすと跳ね除けられるなら、もう声を出すしか道はない。開いた私の唇に、リオさんはそっと指を添える。
まるで聞き分けのない子どもを静かにさせる時のように、シーッとジェスチャーを寄越した目の前の人を、私は困惑しながら見つめた。
「…………じゃあ、入れるね?力抜いて」
うちのライバー契約に、人格の審査はない。過去には不祥事を起こした人だっている。この収録だって、ただセックスしたいだけの口実と考えるほうがまともだ。
「…………」
私という人間が試されているのを感じながら、そっと力を抜く。
どうあれこの人の声は本物だ。才能とその持ち主を信じなければ、信頼されるマネージャーにはなれない。覚悟を決めて腕をリオさんの背へ回す。その気にさせる、それが仕事だから。
「…………っはぁ……」
リオさんは私に身体を密着させる。ほとんど抱き合った状態で、服越しにもその熱が伝わってきて心臓が跳ねた。
「…………ん、入ったよ……痛くない……?」
気遣うように頬にキスされて、ようやく事態を理解する。リオさんは自身に触れているけれど、私の中に入っているのは指のままだ。整った顔立ちの二つの瞳が、熱っぽい眼差しで甘く囁く。
「大丈夫?動くね……」
「……っん……」
まるで二つの刺激をリンクするように、私の中で指が動く。抑えられない吐息が漏れるのを懸命に堪えても、耳元で鳴る声が私をおかしくしていく。
「……はぁ、……中、すごく狭い……」
「ん……っあ……っ」
「熱くて、うねってて……気持ちいい……あんたも?」
「あ、っ……ん、んん……っ」
鮮明に語られるとまるで辱められているようで、こくこくと頷きながら快感に耐えるので精一杯だ。敏感な所ばかり刺激されて、私は気持ちよくなる必要なんてないのに、勝手に身体が欲に溺れていく。
「あ、……ん、ッあ、だめ、だめ……っ」
「…………すごくかわいい。大好きだよ」
セリフすら私の身体を愛撫して、私の中へ入り込む指の形を、嫌でも意識してしまう。
「…………んっ……」
散々弄られた私のそこは、期待するように疼く。声を出してしまいそうになるのを堪えたくて私のほうから顔を近付けたら、リオさんが少し目を見開いてからすぐにキスしてくれる。
「ん、んんっ……」
縋り付くように腕を回して、深いキスで塞ぐのに、それでもくぐもった声が出てしまう。絡める舌も、中で私を刺激する指先も、どっちも酷く気持ちよくて、逃げたいのに逃げられない。
「だめ、リオさ、もう、……っ」
「イッちゃいそう?」
「ごめんなさ、……っ、」
「なんで謝るの。ナナのかわいいとこ見せてよ、……ここが好き?」
「あ、あぁっ、だめ、そこだめ……っ」
「いいよ、声我慢しないで」
「リオさん、リオさん、だめ、……っ」
「……ん、いいよ、俺も、もう我慢できないから……一緒にいこ……っ」
不安定なデスクで我を失った身体が、リオさんにしがみつきながら達した。私の荒い呼吸が少し収まったのを見てから、リオさんが録音用のセリフと一緒に甘いため息を吐く。
「好き、大好きだよ……」
こんなのお芝居だと分かっていて、その声は私を捕らえて離さない。
「っ、……出る、……」
小さく震えた身体が、私のお腹の上にそれを放った。
「……っ、はぁ……大丈夫?」
私を見上げる瞳にはまだ欲望が揺らめいて、それだけでごくりと唾を飲み込む。答えられない私に甘く口付けしながら、背中の向こうのマイクスイッチに手が伸びていく。
「……ん、俺も大好き。またしようね?」
カチリと音を立てて、録音中の表示は録音完了に切り替わる。ようやく全てから解放されたのに、お腹をティッシュで拭ってくれるリオさんを前に、私は身動きすらできない。こんなことまでされたことを怒るべきなのか、それともドライに、撮影お疲れ様でしたとでも言うべきだろうか。
そうして黙ったままの私を勘違いしたリオさんが、また私の足に手を伸ばした。
「どうしたの?あ、テイク2いる?もっかい録ろうか?」
「い、いりません!!」
「あはは、声でっか」
慌ててぎゅっと身体を縮める私に、リオさんは陽気に笑いながら私の服を返してくれる。
「別人みたいだね。……さっきまであんなにあまーい声出してたのに」
収録の熱を引きずったままのその艶のある声と言葉は、一介のマネージャーに戻ったはずの私を容易く翻弄する。
「…………こんなこと、もうしませんから……!」
私の気も知らないで。
そう言いたいのを堪えて、目の前の生意気な男をきっと睨みつけたのに、返ってきたのはまた笑い声だった。