サインしたなら君のもの~年下配信者のダミーボディーマイクになっちゃいました~
track02 プロのプライド
「────で、こちらが昨日時点での、リオさんの作品レビュー一覧。こちらが競合の事例です」
あれから二週間後、私は会議室の大きなモニターで練りに練った資料を映していた。
「作品ごとにキーワードが設定できまして、人気なもので言うと“溺愛”や“ギャップ”、リオさんはちょっと違いますけど“年の差”とか“御曹司”なんていうのもありますね!」
「……あんた、こないだはもうしないって言ってたじゃん。なに、そんなに忘れられない?」
「それセクハラですよ。メールでもお伝えしましたけど、かなり反響が良かったんです。クライアントにも大変ご満足頂けました」
努めてビジネスの立場を強調しながら、つまらなさそうなリオさんを無視して資料を進める。
「次回作ですが、今回が『出会ったばかりなのに、我慢できない♡~年下のあの子といちゃラブえっち~』だったので、そこからリオさんのキャラクター設定はあまりずれないほうが良いかと思います。いくつかプレイ内容を……」
「ちょ、ちょっとストップ!」
「あぁすみません、ご説明が足早すぎましたか?ジャンル独特の言葉もあるので分かりづらいですよね」
「いや、その」
「分からないのどれですか?ここの喘ぎ真似って言うのはですね、女性の声を真似することでわざと恥ずかしがらせて────」
「いやいや、あんた変わりすぎ!」
こんなに作品が売れて、狭いジャンル内とはいえ一躍有名人になったのに、リオさんはあまり嬉しそうではない。困り事を目の前にしたように、はぁ、と大きなため息をつく。
「なんでそんなにノリノリなの」
「ノリノリって……リオさん、うちにも少ないですけどこういったジャンルで活躍している方はいます」
なにしろ在籍数だけで言えば、日本屈指のライバー事務所だ。癒されたい、笑いたい、華麗なゲームプレイが見たい、そして愛されたい。ファンの数だけライバーへ求めるものがあるわけで、そのぶん仕事だって多岐に渡る。
リオさんのボイスを公開したあとから今日まで、届いたレビューの全てに目を通した。その多くのリオさんの声の魅力を絶賛する文章に、分かる分かると何度頷いただろう。そうして会ったこともないユーザーをまるで友のように思いながら読み進めるうち、成人指定だからと言って変に意識して、身構えてしまった自分を強く恥じた。これはファンが待ち望む、立派なひとつのライバーの形だ。
「……だから?」
「私、こういったジャンルの経験がなかったので反省しました。自分でも他社事例含めいろいろな音声を聴きましたし、先輩方にも直接ご指導賜りまして」
「先輩に、あんたが!?何された!?」
「?されたって……シナリオの作り方だったり、環境音の作り方だったり……。ただ、うちにいるのは男性向けの音声を出してるほうが多いんです。先輩のアドバイスも男目線の話が多かったので全部が参考になるかは……」
「か、環境音……」
「はい!すごく参考になりました。先輩にいろいろ道具もいただきましたし、次からは私一人でできると思います。やっぱり電動は楽です、モーター音はちょっとうるさいですけど、指だと汚れるし疲れちゃいますから……」
「……で、電動」
「リオさん?どうしたんですか?こういうお仕事、やっぱりもう嫌だとか……?」
「嫌だとか、じゃないけど……」
私の言葉を繰り返してばかりになってしまったリオさんは、どこか虚ろな目で明後日の方向を見ている。疲れているのだろうか。私よりよほどあの日と違うように思えるその理由が分からなくて、何とか興味を戻して貰えるよう言葉を探す。
「あっ、もしかして環境音もご自身で作られますか?私がやったほうが楽かなと思ったんですが……必要でしたら道具もお貸しします、百均のですけど」
「え?今そんなの百均で売ってんの?」
「すごいですよね!本来はミルクを泡立てるものみたいなんですけど、これでアロエジェルに水を入れて混ぜるといい感じにとろみを調整できるんです」
「あ、アロエジェル?」
「はい!私ももう少し粘度があるほうがと思ったんですが、意外とぐちゅぐちゅした音を出すには、このくらいがいいらしくて。しっかり混ぜてから容器に入れて、マイクのそばでかき混ぜたらかなりそれっぽく聞こえました!」
「…………………………あー、なるほどね……」
せっかく興味を持って貰えたと思ったのに、リオさんは長い沈黙の後また呟く。
「あの、リオさん今日体調悪いですか?なんだかキャラクター違うような……」
「はぁ、違うのはあんたでしょ」
本日二度目のため息の後、リオさんが私のノートPCを引き寄せて操作する。リサーチと分析を重ねた資料を何ページもすっ飛ばしながら、その長い指先はつまらなさそうにキーボードに触れる。
「あーあ、俺はあんたのことでいっぱいだったのに」
「え……────」
「納期一週間で、しかも簡易的に録ったから編集も重くてさ。朝から晩まであんたの喘ぎ声聞いて……」
「わ、わ、すみません!すみませんでした!!」
「ようやく上手く繋げられた、と思ってチェックしてたらあんたのイッてる声がちょっと残ってて、またやり直して……」
「本当にお任せして申し訳ありませんでした!だからもう言わないでください!!」
会社の会議室でこれ以上ないほど身体を折り曲げて懇願する自分が情けない。あの日自分で編集したいからと、録音データを丸ごと持って帰るリオさんを、私はたいして止めなかった。本来なら、ライバーの負担を減らすためにも、マネージャーから社内の編集担当に依頼するのがマナーだ。それでもまさか自分の喘ぎ声をカットしてくださいなんて頼める訳もなくて、自分でできる技術もない私は、リオさんに甘えるという形をとってしまった。マネージャーとして正しくない行動を謝ろうと頭を下げるを私を尻目に、リオさんがモニターを見上げて呟いた。
「やめてって言っても、止まんない♡~溺愛彼氏のとろあまご奉仕~────これってなに?」
「そ、それは……次回作の案です。環境音を多く録る必要はありますけど、そこまでセリフは多くなくても成立するので、ご負担が減るかなと……」
「────“年下彼氏と付き合いはじめたはいいものの、元カレとの経験でセックスに抵抗のあるあなた。触らないという約束で家へ呼んだ彼氏は、なんだか様子がおかしくて……”」
「えっ、ちょっと、リオさん」
資料を作った時には平気だったのに、その声で紡がれる言葉は私を狼狽えさせる。際どいワードが散りばめられたあらすじを、あの日を思わせる甘い声がなぞっていく。
「“触らないから、舐めさせて。痛くないならと渋々OKしたあなたに待ち受けるのは、とびきり甘くておかしくなるような愛と快感”…………これ、あんたの願望?」
「読み上げないでください!」
「なんで?お仕事のシナリオ読んでるだけでしょ?」
「うっ……あと、願望じゃないですから!客観的な判断の結果です!」
「あはは、あんたはその位のほうが面白いよ」
「…………っ」
仮にも年上をオモチャにするなと言いたいのを堪えて、切り替えの咳払いをする。
「その……前回は私の知見がなくてご迷惑をおかけして、勢いであんな録り方をしてしまいましたけど……次回からはお一人でお願いします。このあと演技のレッスンのお時間もお取りしてますから」
当初どんなチェックがあったのかは分からないけれど、先日のリオさんはしっかりリアルな演技が出来ていた。“何でもしていい女の子”なんて、もとより必要ない。
「あれは事故です。もう忘れましょう」
マネージャーとして完全な失態だったと、今なら分かる。どうせレッスンまでには次回作は決まらない。こんな気まずい話はとっとと切り上げようと立ち上がった私を、リオさんは座ったままその声ひとつで引き留める。
「そんなに嫌だった?」
「────!」
「あんたに辛い思いさせたなら、ちゃんと謝りたい。……忘れたいくらい、嫌だった?」
「私は…………」
嫌じゃなかったから、もうやりたくないのだ。仕事だから、約束だからと覚悟を決めたはずが、仕事には許されない感情が頭をもたげていた。嘘でも嫌です、ひとりでしてくださいと言うべきなのに、その声に絡め取られて私は何も話せない。
「俺はあの日のこと…………」
「おい由美、何やってんだ?もうレッスンの時間────」
何か言いかけたリオさんが、ノックもせず入り込んできた人影に口を閉じた。
「え、リオ……?」
「駿?」
扉を開いた駿くんと、座ったままのリオさん。お互いを認識したと思った瞬間、二人の間に突っ立っていた私の腕を駿くんが掴んで、無理やりに廊下へ引き寄せた。
「────ちょ、ちょっとこっち来い!」
「えっ!?な、なに!?」
「なんでリオがいるんだよ!?」
「なんでって……駿くんの元担当で私の現担当でしょ。ちゃんと引き継ぎの挨拶したいと思ってたし、それに……」
「もしかして急遽レッスンさせたいライバーって……」
「そ、リオさんだよ。っていうかちょっと、離して……」
たかが扉一枚を挟んで、駿くんは慌てた顔を隠すこともなく、小声で私にまくし立てる。普段はひょうひょうとしている男が取り乱している訳が分からなくて、私はただその近すぎる瞳に気圧されたままだ。
「なんで俺に黙ってこんなこと……!」
「だって、普通に言ったら来ないかなって……」
「俺、リオに言ってねぇんだ、その────」
勢いで掴まれた腕が微かな痛みを訴える頃、その扉がゆっくり開いた。
「ねぇ。いつまでそこで喋ってんの?中入んなよ」
「あ……」
「どうしたの。座って、ちゃんと説明して」
掴まれていないほうの私の腕をそっと引いて、リオさんが私と駿くんを引き離す。戻ったその会議室は、先程より人が増えたのに一気に静かだ。この場に流れる微妙な空気のわけが分からなくて、私はひとまず用意してあった言葉を吐いた。
「……改めてご紹介します。あなたの元マネージャーで、演技指導のトレーナーである、木村駿です」
「へぇ。演技指導なんてやってるの?」
「…………ごめん」
「えっ!?言ってなかったんですか!?」
「……もともと、ここには演技指導者として採用されたんだが、マネージャーが足りないからって今は兼任してる」
「てっきり私、リオさんは知ってるものだと……」
気怠げにその足を投げ出して座る態度とは裏腹に、駿くんの声はひどく自信なさげだ。
「あのな由美。リオに演技指導をつけるべきじゃないって言ったのは俺だ」
「えっ……な、なんで」
「こいつはビジュアルがいいんだから、素のトークと顔で女性ファンを呼んだほうがいい。下手くそな演技なんていらねぇ」
「はぁ!?」
リオさんへのあまりの言い様に、たった数週間の付き合いでも怒りが込み上げて、思わず語気が強くなる。それを言っているのが、二年近くサポートしてきた元担当なら尚更だ。
「それは決めつけでしょう!?もっとリオさんの希望を────」
「お前のそういうところは俺も好きだ。“ライバーの夢を全力で応援するのがマネージャー”だっけ?素敵な心がけだと思ってる。でもそれで全てが解決するわけじゃない」
会議室を包み込む重苦しい空気が、褒められているはずの言葉にすらどんよりと影を落とす。何も言わないリオさんは、まるで二人のマネージャーを見定めるように、黙って頬杖をついていた。
「お前のやり方を否定する気は無いが、越えられない壁はある。百人近く演技指導してきた俺が言ってやる、こいつには無理だ」
「そんなことない!こないだのボイスは問題なく作れてた。昔のリオさんなら難しかったかもしれないけど、今ならきっと……」
「……そう、そこなんだよな……はぁー……」
説得にかかる私を遮って、駿くんが腕を組む。たっぷり時間をかけて大袈裟にため息をついて、芝居がかった仕草で頭を抱えてみせてから放った言葉は、私を凍りつかせた。
「なぁお前ら、《《あれ》》どうやって録った?普通にやったとは言わせねぇぞ」
「え…………」
「俺も聴いたが、ファンもついて良い作品だったと思う。そしてお前にあれがまともに作れるはずがない」
「そ、それは……」
「……もしかして、まさかとは思うが────」
「ち、違うの!これには訳があって、その」
「お前、……女雇った?」
「そ、そうなの!実はそうしたの!」
安易な言い訳に飛びつく私を、自分で言っておいて駿くんは驚き半分、引き半分の瞳で見る。
「マジかよ、お前やっぱやべぇな。どうすんだよ、経費落ちねぇぞ」
「ま、まぁそれは私のポケットマネーで何とかするよ、いい作品が作れるなら、それくらい……」
「いやそれはリオに出させろ、こいつ投資で一発当ててから飯に困ってねぇから」
「え!?そうなの!?」
「……駿、自分のことは秘密にしてたくせに俺のことはポンポン喋んないでよ。まぁいいけど」
久々に口を開いたリオさんを見る。先日とは違うピアスとネックレス、染めたばかりの艶のある髪。ライバー以外の仕事はしていない割に、金銭的に困っている様子がないと思っていた。
「マジでやるとは、さすが由美だな」
「え、ありがとう……」
「褒めてねぇ。ワーカーホリックも程々にしろよ」
お前の稼いだ金だろうがと続けながら、駿がモニターを見る。大きな液晶画面に際どいワードがずらりと並んでいるのを、冷めた瞳がちらりと追った。
「……仕事と割り切れるのはこの業界じゃメリットだが、あんまり自分を切り売りすんな。そんな事しなくてもお前は十分頑張ってるよ」
「ありがと。でも大丈夫だから」
ライバーの前なのに、駿くんがいつもの流れで私の頭を撫でる。まるで子どもに接するような態度は優しさの表れでも、同期にそうされるのは複雑な気持ちだった。多くの生徒を抱える彼のことだから、先生っぽい仕草が身についてしまっているのかもしれない。
「……駿、俺もいるんだけど」
「んな事分かってるわ。あのなぁ、そもそもお前がしっかり止めろよ。トレーナーやってることを隠してたのは謝るけどさ」
「あはは、ごめんごめん、だって押されちゃって。あーんなキラキラした目で絶対応援します!とか言われたらさぁ」
「ま、正直分かるよ。こいつ平気でそういうこと、素面で言うもんな」
「え?え?」
場の流れについていけない。困惑を隠さない私を二人はちらりと見て、そして心が通じあった親友みたいに同時にくすりと笑った。
「よし、由美もレッスンに来い。現実を見せてやる」
「えへ、先に謝っとくね?」
***
『あんた、のこと?おれがまもル、から』
『ずっとい、いっしょ?にい、いようね』
『大好きだヨ』
「なんなんですか、これ」
時間制限いっぱいまでレッスン室を使い、追い出されたあとに向かった喫茶店で、私はそう呟いた。
「どう?現実分かった?」
「……これは、酷すぎます」
「あはは!あんたにまで見限られるなんて、相当だね俺!」
大笑いするリオさんの目の前で、片耳に着けたイヤホンが棒読み以下の何かを垂れ流している。すらすらと読み上げることすらできず、心を一切感じない単語の羅列。レッスンの成果のはずのそれは、どんな熱心なファンが聴いても響かないだろう。
「笑ってる場合ですか!?素人の私のほうがまだマシですよこれ!」
「えー?あんた演技上手いと思うよ?」
「ちょ、ちょっと黙ってくださいもう!」
こうまで言われて、リオさんは他人事のような態度のままだ。変なことを言い出しかねない程に上機嫌なその表情は、吹っ切れたことによるものだろう。
「でもな、これがリオの全力なんだ。分かるだろ」
「……うん」
「声はいいんだけどな。もったいねぇとはずっと思ってた」
氷で薄まったアイスコーヒーに口をつけながら、駿が口を開く。リオさんは決してやる気がない訳ではなかった。むしろかなり真面目なほうだ。たった数行のセリフを数時間にわたって何度も調整されている間、不満ひとつ言わなかった。それでも現実として私の耳へ流れてくるのは、その努力を無に帰す酷い結果なのだけれど。
「俺からしても、成功したいなら今のシチュエーションボイスで知名度を上げるのは悪くない手だと思う、ただなぁ……はぁ」
今日、誰かのため息を聞くのは何度目だろう。そんなことを考える私の前で、駿くんはちらりと周囲を確かめてから声を落とす。
「女雇ってんのは正直まずい。世間的に公表しないのは当たり前だが、上にも言わねぇほうがいい。俺も黙っとくから」
「…………そうだよね、ありがとう」
「ま、あとは二人で話し合え。俺は次のレッスンあるから会社戻るわ」
残り少ないコーヒーを飲み干して立ち上がった駿くんが、リオさんに向き直る。
「マネジメントはこいつのほうがプロだ。リオが活動を増やしたいなら、いずれにしても担当は俺から由美に変更でいいと思う」
「うん、そのつもり」
「別に俺の担当外れても、何かあったら連絡くれりゃいいし。とりあえずまた飲みに行こうぜ」
「ん、こないだ駿が言ってた焼肉屋がいい」
「はいはい。また連絡するわ!」
駿くんは、リオさんにひらひらと手を振りながら去っていく。その姿が店を出ていくのを目で追いながら、私は驚きをそのまま口にした。
「……仲良いんですね」
「ん?あぁ、そうだね。マネージャーって言うより、飲み友みたいな感じだったかも、正直」
「確かに、そう見えました」
てっきり不真面目なマネージャーと、それに愛想をつかしたライバーだと思っていた。が、実状はかなり好調な関係に見えた。
「だからそんな仲良い奴が実は先生やってるなんてこと隠されててさ、しかもそれが俺が教える価値もないほど下手すぎるから……っていうのはちょっと堪えた。空気悪くしちゃってごめんね」
「そ、そんなことないですよ」
「ありがと。あんたのレッスン中のこの世の終わりみたいな顔見てたら、もうさすがに諦めついたよ」
「……先生を変えてみるとか、しますか?」
「いや、これは不治の病でしょ」
諦めず頑張りましょう、とは言えない自分がいる。
「それよりさ、これからどうする?」
「え?」
ムードメーカーの駿くんが居なくなったテーブルは、なんだか急に広く感じる。開け放たれたテラス席から夏の終わりのぬるい風が入り込んできて、リオさんの髪がかすかに揺れた。
「実はボイスの仕事は駿からじゃなく、別のプラフレの人から急にメールが来たのがはじまりでさ」
「え……!?ほんとですか!?」
「そう。普通マネージャー通すのが筋でしょ?まぁ友達に見られたいものじゃないから、駿から相談来ても嫌は嫌だけど」
マネージャー以外からの連絡は、それがたとえ上役であってもご法度だ。ライバーも裏方も、一気に増えたプラフレは一枚岩じゃない。それにしても行儀の悪い行いに、思わず驚く。
「でも、演技云々でプラフレには嫌な目に合わされてたのもあって、ムカついて……それで、そんなに稼がせたきゃマネージャー変えろ、あとなんでもしていい女の子用意しろ、って言ってやった」
「そう、だったんですね……」
「ま、まさかマネージャーとなんでもしていい女の子を兼任させるとは思わなかったけどね。あんたも知らなかったんでしょ?」
駿くんがいなくなった椅子をちらりと見る。あの日は突然で、勢いに流されるままここまで来てしまった。そのつけを精算するような気持ちになりながら、私は目の前のアイスティ―に手を伸ばす。
「はい。実はあの収録の後、駿くんにも詳しいことを聞いたんです。ただ、駿くんはとりあえずリオさんを打ち合わせに呼ぶように言われて、ボイスのことも、リオさんの条件のことも、知ったのは当日だったみたいで」
「……マジ?」
「それでさらに直前に、私を行かせろ、ってことが決まったと」
「あーあ、あんたには悪いけど、とんでもない無茶振りする会社だな、ここ」
「で、駿くんも、さすがに私にはあの条件を出さないだろう、って思ったらしくて……」
「…………はは、無茶振りは俺もってことね……」
私と駿くん、そしてリオさん。それぞれが少しずつずれた情報であの場に居て、そしてそのずれが、とんでもない事態へ結びつけてしまった。あの日のことは、完全に事故と言ってよいものだと思う。問題はその事故の結果が成功を刻んでしまった今、どうするかだった。
「……あの。駿くんも言ってましたけど、やっぱりシチュエーションボイスはかなり反響も良かったです」
「まぁ、そうなるね」
「売上もそうですけど、熱いレビューが多くて……」
「へぇ」
私は渾身の出来だった資料を思い出し、努めて客観的な意見を並べ立てる。
「チャンネル登録者数も伸びましたから。も、もちろん一番はリオさんのご希望で……」
「俺はあんたの気持ちが聞きたいんだけど」
「っ…………」
「あれはあんたの犠牲の上で出来た作品でしょ。はじめはあんなこと言ったけど、契約とか約束とか、そんなもの抜きにして考えてよ」
「犠牲って……」
長時間のレッスンで思うより早く時間は過ぎて、夕暮れはその色を落としていく。見知らぬカップルが仕事終わりの待ち合わせをして消えていくのを、所在無い私の瞳がガラス越しに見つめた。
「俺は正直、別に続けなくてもいい。そりゃ数字が取れれば嬉しいけどさ」
「あっ…………」
「あんたが声を褒めてくれた時、すごい嬉しかったんだ」
リオさんが机上の私のスマホを手に取る。再生したままだったレッスン中のテスト音声のフォルダを開いて、そのひとつひとつを跡形もなく削除した。
「だからさ、あんたが俺の声を嫌いになるくらいなら、こんな仕事したくない」
まるで重い彼女が彼氏のスマホをチェックするみたいに、リオさんの指先は私の端末を滑る。約束だから好きにさせろと言われるほうがよほど楽なのに、目の前の人は自分の成功を切り捨ててまで、私の意志を待つ。
「けど、録るなら相手は選ぶ」
その指は検索エンジンに表示したままだった、ギラギラとしたページで止まる。私がさっき調べていた、本来雇うべき女性が勤める風俗店のレビューサイトだ。そしてリオさんは、勝手にそれを履歴ごと消す。止める間もなくスワイプで消えていくそれを、私は黙って見るしかない。
「あんたがいい。だからこういうのは無し」
突き返されたスマートフォンを受け取る手が、震えている気がする。今自分がどんな顔をしているか分からない。机に残るグラスはとっくにその中身を失って、私に早く答えを出せと迫る。
「わ、私は……」
マネージャーとしての立場、社会人としての意見、女としての矜恃。そのどれもがぐちゃぐちゃに絡み合って、最後に溶け残った感情に、私は名をつけられなかった。
時計はもう夜を指して、夕日に代わる人工的な灯りが、色とりどりにあたりを照らしていく。アイスティーで潤したはずの喉が乾いて、街の喧騒が遠く聞こえる。
不自然を取り繕うすべもない沈黙がたっぷり鳴って、どちらにせよもう逃げ道などない。ようやく口を開いた。
「リオさん……この後って、お時間ありますか」
***
「ねぇ、本当に良かったの?」
「……ホテルに行くところを見られるよりは、言い訳がつきますから」
適当に入ったファミレスで食べたパスタは、味が全く分からなかった。似合わないビールで流し込んで最低限の食事を済ませれば、向かう先は限られている。ファンも増えてきたライバーを往来に晒すわけにはいかないことを考えれば、ほとんど選択肢はないに等しかった。
「どうぞ、狭いですけど……」
「お邪魔しま~す」
利便性だけを重視したワンルームは、小さなローテーブルとベッド、そして仕事でもらったグッズ等で定員オーバーだ。寝に帰るだけの場所に人を呼ぶことすら想定外だったのに、初の客人は自分の担当ライバー。しかもこれからすることを考えると、冷静でいられなくなる。
「本当にすみません、ただでさえ狭いのに、散らかってるし……」
「え?そんなことないよ」
「いやいや、もう、本当にすみません、その……あ、飲み物とか無くて!その、買ってきます、私!コンビニで、すぐ」
「どうしたの?大丈夫だよ、そんなの」
「いえ、私マネージャーなので……すみません、全然気が利かなくて……」
見慣れた部屋の光景が、カフェを出た後からずっと上の空だった心を引き戻して、今更に怠慢を自覚する。いたたまれない気持ちのまま、閉じたばかりの玄関扉へ向かって踵を返した私を、リオさんが抱き留めた。
「だめ。ここに居て」
「……っ」
「何も買ってこなくていいよ。あんたさえいればいい」
耳元で鳴るその声が、必死で組み立ててきた私の仕事という言い訳を、いとも簡単に溶かしていく。香水だろうか、あの日と同じ重く焦がれるような香りがして、それだけで身動き一つできない。
「……や、……」
「あはは、昼間はあんな過激なプレゼンしてたのに、されるのはハグも恥ずかしい?」
背中から回された腕が、ドアノブにかけた私の指をひとつずつ引っ込める。されるがままの身体は甘い声に支配されて、家に招いたのは自分なのに、まるで罠にはまったかのような錯覚に陥る。
「……俺、機材準備してるから、ナナはシャワー浴びる?」
「は……は、はい……」
「ん、いい子だね」
首筋にキスされたと気付く頃には、もうリオさんは私から身体を離していた。電源借りるねと声がして、鞄から先日も見たマイクを取り出している。
そうだ、これは仕事なんだ。
そう言い聞かせて、私も脱衣所の扉を開けた。
熱いシャワーで汗と焦燥を剥がして、どこにでもあるボディーソープの人工的な香りが私を包む。幾度鏡を見たところで、そこには等身大の私しかいない。
見た目だけで人を十分魅了できるリオさんのような人に捧げるには、明らかに不足だ。
そうと分かっていて、それでも今更引き返す権利など、私は持ち合わせていない。
「……あの、お待たせしました……」
ようやく覚悟を決めて、まるで海に潜る前のように付け焼刃の深呼吸をしながら、私は再びリオさんのいる部屋に戻る。床にいくつかの機材を広げたままのリオさんが、視線だけこちらに寄越した後、にっこり笑顔を作ってくれた。
「おかえり。かわいい服だね、バンドT?いつものスーツと全然イメージ違う」
「や、やめてください……サイドレッドで担当してる、女性ユニットのグッズですから……」
淡い桃色のTシャツは、いかにも女性らしいデザインで、ライブした日付と会場の名前がずらりと背中に並ぶ。仕事関係の人で、付き合っていないけれど、今から触れ合う────そんな歪な関係性の前でどんな服を着ればいいかなど、分かるはずもない。
かわいいパジャマなど持っていない。かといって新しいスーツに替えるのも違う気がして、私は仕事から逸脱しない、ずるい選択肢を選んだ。
「いいじゃん、カジュアルなのも似合うね」
「リ、リオさんも、シャワー使いますか……?」
「うーん、どうしよっかな。内容によるかも」
「な、内容……」
「これ見て」
さらりと褒めてくるリオさんの手馴れた微笑みがこそばゆくて、私は湯気で湿った髪を振った。リオさんがスマートフォンで何かを映しながら自分の隣をぽんぽんと叩くので、促されるままそこへ腰かける。
「溺愛彼氏のとろあまご奉仕だって。してみる?」
「っ…………」
目に入った画面には、見覚えのある私の資料が表示されていた。まるでその文字の羅列を初めて見たように訊ねてくるリオさんが恨めしい。こんな資料を作っておいて、今更赤面している自分も。
「じゃ、ベッド座って?」
何も言わない私のそれを承諾と受け取ったのか、リオさんは私の服の裾へマイクを着ける。それはまるで私から抵抗を奪う魔法のアイテムのように、私はこの場での仕事を思い出して何も言わず立ち上がった。
私は何でもしていい人形か、声を録るための装置のようなものだ。立場で言えば、この小さなマイクと何も変わらない。
「はは、ナナは分かりやすいね。そんなに緊張しなくていいのに」
「……すみません……」
「そうやって、すぐ謝るし」
高さのあるベッドに座らされた私から、床に居るままのリオさんは、見下ろす形になる。その指先がリオさん自身の服にもマイクを着けてから、音量をチェックするアプリケーションを弄っているのをぼんやり見つめた。
「……あれ、本当にしていい?“やめてって言っても、止まんない”っていうの」
「あっ……え、えっと……」
自身のマイクを調整しながら、リオさんが私に近寄る。
「じゃあ、どうしても止めて欲しい時は、純って呼んで」
「じゅん……?」
「そう。俺の本名だよ。純粋の純。そんな清純派キャラの顔じゃないだろって、全然関係ない名前でデビューしたけど」
「純、さん」
「さんは要らない」
「……純」
「そう。忘れないでね」
ライバーの本名は重大機密だ。報酬の支払いをする経理しか知らないことも多いそれを、簡単に教えてくるのに驚きながら、私はもう一度口の中でその名を呟いた。純。
「よし、これでいいかな。電気ちょっと暗くする?俺はこのままでもいいけど」
「……っけ、消します」
リオさんが設定画面を確認してから、手元のスマホを伏せる。耳にかけた男性にしては長い髪と、明かりを受けてきらりと光るピアス、その中性的なファッションと対象的な、男の人の首筋。そのどれもがなんだか見てはいけないものに感じて、私は慌てて手元のリモコンで照明を落とした。
「ふーん、残念」
「何言ってるんです、か……っ」
「もしかして、こないだより緊張してる?」
「……す、すみません、大丈夫ですから、なんでもお好きにしてください」
リオさんの手が、私の足へ触れる。緊張のまま揃えていたそれをそっと開かれて、事の始まりを意識した身体が小さく息を飲んでしまった。その小さな震えに手を引っ込めたリオさんを、ぼんやりした常夜灯だけが照らしている。
「……ねぇ、“元カレとの経験でセックスに抵抗がある”って、駿のこと?」
「え!?ち、違います!!」
「ほんと?ずいぶん仲がよさそうだったからさ」
「あいつ誰とでも距離近いんです!私はもっと大人っぽくて紳士的な人が……」
「へぇ」
誤解を生みたくなくて、私は懸命に首を振る。
「……”セックスに抵抗がある”のほうは、否定しないんだ?」
「あ……」
「ただでさえあり得ない無茶させてることは分かってるよ。そのうえトラウマがある人に、させたくないんだけど」
「あの、トラウマと言うほどではなくて!別に……」
「話して」
言いよどむ私を、二人だけの静寂が促す。
「……そんな、面白い話でもないですよ。学生時代にお付き合いした人とその、したとき……ちょっと痛かったりとかして、あまり積極的になれなくて。それで関係が終わりまして……」
どこにでもあるつまらない話を、リオさんは黙って聞いている。
「社会人になってからはあまり出会いもなくて。熱心に言い寄って来た方が、実は私の担当アイドルのプライベートを知るのが目的の……まぁ、記者さんだったこともあるんです。それから彼氏は作ってません。だからもう何年もご無沙汰っていうか、仕事のせいにして女捨ててますから、あはは」
「女捨ててる人は、あんな声出せないと思うけど」
「あの時は、その、夢中で……正直痛かったこととか、思い出す余裕もなくて」
「うん、俺には気持ちよさそうに見えた」
「……っ!デリカシーなさすぎます!」
耳を疑う発言にきっと睨みつけたら、こちらを見上げるグレーの瞳と目が合った。視界の端に映る時計は、もう深夜と呼んでいい時間を指している。
「……分かってるんです、足手まといになってることは」
「そんなこと……」
「あなたの声が好きだから、成功してほしいから……そのためなら何でもしたいのに、どうしても身体がついていかない」
「あのさ、俺だって無理させたくないからね?あんたが嫌な思いするくらいならこんな仕事受けない、たとえあんたがやれって言っても……」
「で、でも、本当にこの間は平気だったんです。だから、リオさんなら、痛くないかも……なんて」
「は、────」
「この前のこと……嫌だって、思えなくて。ボイスのレビューでも思ったんですけど、可愛いとか褒められながら触られると、喜びを感じる方が多いんです」
「……そうなんだ」
まるで世間一般的な話をしているような口振りでごまかす。
「その……濡れてなくて萎えさせちゃったらどうしようとか、思わないじゃないですか、ボイスこれなら」
私だって欲が皆無なわけじゃないと、あの日確かに思い知らされた。挿入なし、甘い言葉ありの、おいしいところだけ。触れられると、身体の奥底に隠してきた何かをそっと揺り起こされるようだった。
「本当は触ってほしいから、家ここまで呼んだ……んだと、思います……」
腰掛けたベッドのシーツを手繰って、ぎゅっと握りしめる。ふざけたシナリオは私の願望だと言われたのを、今はもう否定できない自分がいた。
「だから、やめないで……」
こうなることを心のどこかで求めていたのかもしれないと認めはじめるころ、膝立ちになったリオさんが真剣な顔でこちらを見ているのに気付く。
「あっ!?今私、変なこと言いましたよね、あの……」
「キスはしてもいい?」
「え、あ……」
戸惑う私に端正な顔が近付いて、緊張に勝る羞恥がぶわりと私を包む。ろくに言葉を発せない唇が塞がれる前に、私の一番弱い声が降ってきた。
「あんたの嫌なことはしないから、絶対」
「ん……っ」
数週間も経ったのに、その口付けはあの日のことを瞬時に呼び覚まして、触れられていない身体すら熱を持つ。深くなるそれに応えるたび、甘い息が漏れた。そっと入り込んできた舌を一度受け入れれば、それは次第に遠慮を失って私を乱していく。
「ん、っあ……あ……っ」
「……かわいい。もうキスだけずっとしてよっか」
「や、……だめ、です……そんなの」
「あーあ、分かりました、収録ね?」
リオさんがわざとらしいため息をついて、それから自身の首元のマイクに触れる。暗い部屋に起動中であることを示すライトが淡く光った。
「え、今の録ってなかったんですか……?」
「うん。だめだった?」
「だめっていうか……」
じゃあ何のためのキスだったんだろう。訊けばいいのになんだか言い出せなくて、私の言葉は途切れたままだ。リオさんが私のTシャツの裾に手を伸ばして、同じようにマイクのスイッチを入れる。先程よりは怖さを感じなくなった身体が、促される前に足を少し開いた。
「ん、……もういいの?」
「はい、そういうコンセプトの作品ですから」
「……そう、分かった」
短いキスのあと、リオさんが私のショートパンツに手をかける。蝶々結びをほどいて、マイクを避けながらそっと下ろしていく。腰を浮かせてそれを手伝おうとしたら、一緒に下着までずらされた。抗議しようにも、もう私は声を出せない。
「じゃあ……約束だから、痛いことはしない。触りもしない、舐めるだけね?」
「……っ」
開かれた内ももにキスされて、身体がびくんと反応する。思わず声が出そうになって、慌てて両手で自らの口を押えた。逃げられないように両ひざに手を置かれて、その唇は遊ぶように肌に触れながら、少しずつそこへ近づいていく。
「それと、やめてって言っても、やめないから」
私を追い詰めるように、他でもない私の考えたセリフが零れた。
***
「……っふ……」
もう何分経っただろう。気の遠くなるような時間に感じるそれは、時計を見る余裕などない私を何度も追い詰める。何も言わないリオさんが私のそこへ身体を埋めて、はしたない水音がやけに響いていた。宣言通り唇と舌だけがずっとそこを刺激して、焦らすように舐められては時折吸われて、まともな思考などできるはずもない。もう限界だと思うのに、さらにもう一つ上の限界まで追い立てられるようで、幾度も達した身体は手足の先まで蕩けて力が入らない。
「もう、むりです……っ」
「ん?もう一回イきたい?いいよ」
「そんなこと、言ってな…っあっ、だめ、だめ……っ」
「たくさんイけて偉いね、今ので何回目?」
「あっ、……わかんな、い…っ」
また限界に近付いていた身体を、リオさんは容易く絶頂へ導く。熟れた芯に舌を這わせて、唾液と愛液で濡れるそこに柔らかい刺激が幾度も与えられる。快感に慣れきった身体が私の意志と関係なく震えるのを、荒い息で懸命に整えた。
「え?忘れちゃったの?もう、だめじゃん……えっちなこと嫌なんじゃなかった?」
「あ、待って、やめて、も、だめ……っ」
「やだ、もうちょっとしよ、ね?」
「あ、っあ、だめ、イッたばっかり、やだ、やだ……っ」
「変になっちゃう?いいよ、見せてよ。元カレに見せなかったところ、俺だけに見せて」
こんなの誰ともしたことない。気持ちいいのに、強すぎる刺激に身体が逃げそうになるのを、リオさんが何度も引き寄せる。
「もう、足閉じちゃダメだって……気持ちいいくせに」
「あッ、あん、ああっ……」
「あーあ、すごくかわいい……声出ちゃう?」
「ご、めんなさ……っ」
溢れ落ちる嬌声を抑えられなくて、謝る声すら収録の邪魔だと気付く。手で塞ごうにも身体はどこにも力を入れられなくて、腕はベッドの上で自身を支えるので精一杯だ。
「リオさ、だめ、キスして……」
「……はぁ、あんたって本当に……」
あの日のことを思い出してそう頼んだ。口でするというコンセプトなんだから、キスしていたら続きが撮れない。そう思い出す頃には、リオさんが私の唇を塞いでいた。熱い舌は私を簡単に捕まえて、こんなことすら気持ちいい。
「んっ…………」
「セックスが怖い癖に、俺の事煽ってる?」
「ち、違います……っ」
「これでも俺、我慢してるんだよ。本当は今すぐあんたを抱きたい」
「…………っ」
甘い甘いセリフは、昼間の棒読みとは別人だと思うほどだ。まるで私に言われているかのように思えて、身体の奥まで痺れるような感覚がする。
「あんたを抱いて、元カレの事なんて全部忘れちゃうくらい、俺でいっぱいにしたい」
絶対にこのセリフを無駄にしたくなくて、マネージャーの私が必死に反応する身体を静める。これを聴いてときめくファンが何人いるだろう。耳元で囁くようなその声は、私が貰っていいものじゃない。
「今日は約束を守るいい子になってあげる。でも、次そうやって煽ってきたら、抱くから」
固まる私にもう一度キスして、リオさんがまた私の足に触れた。
「じゃあ、続きしようね」
「え……っ」
「ん?まだするよ、えっちなことは気持ちいいって、ちゃんと覚えてもらわなきゃ」
「や、やだ、もう……」
「もう十分?……嘘つき。さっき中途半端なところで止めたから、ちゃんとイきたいって顔してるよ」
そんな顔していないのに、リオさんが顔を近付けるだけで、触れられてもいないそこが期待に震える。キスがもたらした休憩時間で身体は勝手に準備を整えて、濡れた舌でそっと触れられればもう思考が溶けていく。
「あんっ、んっ、だめ、だめ……っ」
リオさんは何も言わず、私を翻弄し続ける。逃げようとする腰を抱き寄せられて、達することを覚えてしまった身体が続きを求めて疼いた。
「あぁっ、だめ、も、すぐ、……っ」
じゅっと芯を吸われて、もう何も考えられない。仕事とか、収録とか、元カレとか、私をこんな状況に置いた原因があるはずなのに、もう分からない。
「気持ちいい、だめ、だめ、イっちゃう、……っあ、ああっ……!」
四肢まで広がるような快感が私を包んで、気付けば声を我慢することもなく達していた。
「あ……っ、声、ごめんなさ……」
「…………キスだけで止めるから、もう一回」
「ん……っ」
謝る私の言葉を遮って、リオさんが唇を合わせてくる。これまでのどのキスよりも性急に熱い舌が私の舌を絡めとって、バランスを失う身体を強く抱きしめられる。
「はぁ、かわいい……大丈夫、我慢できる……」
口付けの合間に零すセリフは、それだけで直視できないほどの欲を孕む。薄く開けた視界に、声と同じくらい熱っぽい瞳が映って、慌てて目を逸らした。
「これ以上はしないから、もうちょっと、キスだけ……」
言い訳混じりの口付けを幾度も繰り返して、その度にリオさんが私を強く引き寄せる。こんなに余裕のない所は初めて見た。そういうシナリオにしたいのかと思って心は冷静に受け入れても、散々触れられて蕩けきった身体には激しいキスなんて、興奮材料にしかならない。
「……んっ、リオさ……」
甘い口付けに溺れた私が、タブーを飛び越えてその名を口にした時、二人きりの狭い部屋なのに、まるで誰かから私を隠すようにぐいと引き寄せられた。バランスを失った身体がこの場にいるたった一人に反射的にしがみついて、それから背中に腕を回す。
「────!」
「あ……」
その瞬間、視界がぐるんと回った。どうやら急にしがみついたのが良くなかったらしく、無理な体勢になった結果、私はベッドに押し倒された形になっていた。驚く私の頬を、リオさんはそっと撫でる。
「ナナ」
「っ……」
たかが頬なのに、リオさんに触れられればびくりとしてしまう。熱を持つ指先が私の肌を泳ぐようだ。覆いかぶさる身体がさらに距離を縮めて、太もも辺りにぐっと硬い重さを感じる。
「あっ……」
何か分からないほど純粋でもない。気付いてしまったことを隠そうにも、もう遅い。慌てて目を逸らして精一杯身を離そうとする私を、リオさんが笑った。
「ナナのえっち」
「わ、わ……っすみ、すみません!」
「……ナナのせいだよ。責任とってくれる?」
その指先は頬から首筋を巡る。お腹から下へ降りて、何も身につけないままの下半身を遊ぶように触れた。そっと羽根が撫でるような指先と、耳元で鳴る甘い声。反応できないでいる私に、リオさんがもう一度微笑んだ。
「あはは、冗談だよ。退くね」
「あっ、すみません……」
「ううん、俺が体重かけちゃった。痛いとことか無い?」
「だ、大丈夫です」
リオさんが自身のマイクに触れて、私のマイクも外してくれる。そっと支え起こしてくれる手は、もう私の素肌に触れようとはしない。
「いいの録れましたか……?」
「んー、分かんない。今日はもう帰るね」
「も、もうですか?ではタクシーをお呼びするので……」
「大丈夫、まだ電車あるから。お邪魔しました」
リオさんはてきぱきと荷物を纏めて立ち上がる。慌てて私も脱いだままの服を手繰り寄せた。
「じゃ、じゃあ駅までお送りします」
「やだ。こんな遅い時間に女の子外に出さないよ」
「女の子って……、私はあなたのマネージャーですから」
「マネージャーでも女の子は女の子でしょ」
「そんな歳でもないですって。それにこの時間に帰ってくることはしょっちゅうですし、ここはそんなに治安悪い駅じゃ……」
「俺は一人で帰りたいの、おやすみ」
「ま、待ってください!」
急にまるで子どものような意地を張るリオさんを、慌てて引き留める。ライバーが突然態度を悪くする時は、決まって危険信号だ。それが身に覚えがなければ尚更。
「リオさん、どうしました?私のほうで不手際があったのなら教えてください。まずは落ち着いて話しましょう」
「……あんたが悪いわけじゃないよ?もう帰りたいだけ」
散々アイドルユニットに使ったパターン化された声掛けは、この人には通じないらしい。
「そうは見えません、なにか収録が良くなかったなら、やり直しますから」
「……へぇ?」
玄関で靴に片足をねじ込んだリオさんが、冷たく笑って向き直った。
「やり直せる?あれを?それとも《《続き》》していいってこと?」
「あっ……」
困惑する私の手を引いて、壁にぐいと押しやる。マネージャーとライバーの適切な距離などとうに超えて、うつむいた前髪から覗く瞳が私を映した。
「俺は無理」
「リオさん、ちょっと、待って……っ」
「……これ以上あんたと居たら、変な気を起こしそうになる」
「ん……っ」
「ずっと我慢してる。あんたを怖がらせたくないから」
どこにも逃げようがない私の背をそっと撫でる。それだけでさっきまでのことを思い出した身体が、甘い吐息を零した。少しずつ近付く距離にキスされると思って身構えた私の耳元で、そっと声がする。
「今日はいい子でいるって言ったでしょ、だから帰るね。分かった?」
「……は、はい……っ」
ようやく絞り出したその言葉よりも先に、リオさんが玄関の扉を閉めた。
あれから二週間後、私は会議室の大きなモニターで練りに練った資料を映していた。
「作品ごとにキーワードが設定できまして、人気なもので言うと“溺愛”や“ギャップ”、リオさんはちょっと違いますけど“年の差”とか“御曹司”なんていうのもありますね!」
「……あんた、こないだはもうしないって言ってたじゃん。なに、そんなに忘れられない?」
「それセクハラですよ。メールでもお伝えしましたけど、かなり反響が良かったんです。クライアントにも大変ご満足頂けました」
努めてビジネスの立場を強調しながら、つまらなさそうなリオさんを無視して資料を進める。
「次回作ですが、今回が『出会ったばかりなのに、我慢できない♡~年下のあの子といちゃラブえっち~』だったので、そこからリオさんのキャラクター設定はあまりずれないほうが良いかと思います。いくつかプレイ内容を……」
「ちょ、ちょっとストップ!」
「あぁすみません、ご説明が足早すぎましたか?ジャンル独特の言葉もあるので分かりづらいですよね」
「いや、その」
「分からないのどれですか?ここの喘ぎ真似って言うのはですね、女性の声を真似することでわざと恥ずかしがらせて────」
「いやいや、あんた変わりすぎ!」
こんなに作品が売れて、狭いジャンル内とはいえ一躍有名人になったのに、リオさんはあまり嬉しそうではない。困り事を目の前にしたように、はぁ、と大きなため息をつく。
「なんでそんなにノリノリなの」
「ノリノリって……リオさん、うちにも少ないですけどこういったジャンルで活躍している方はいます」
なにしろ在籍数だけで言えば、日本屈指のライバー事務所だ。癒されたい、笑いたい、華麗なゲームプレイが見たい、そして愛されたい。ファンの数だけライバーへ求めるものがあるわけで、そのぶん仕事だって多岐に渡る。
リオさんのボイスを公開したあとから今日まで、届いたレビューの全てに目を通した。その多くのリオさんの声の魅力を絶賛する文章に、分かる分かると何度頷いただろう。そうして会ったこともないユーザーをまるで友のように思いながら読み進めるうち、成人指定だからと言って変に意識して、身構えてしまった自分を強く恥じた。これはファンが待ち望む、立派なひとつのライバーの形だ。
「……だから?」
「私、こういったジャンルの経験がなかったので反省しました。自分でも他社事例含めいろいろな音声を聴きましたし、先輩方にも直接ご指導賜りまして」
「先輩に、あんたが!?何された!?」
「?されたって……シナリオの作り方だったり、環境音の作り方だったり……。ただ、うちにいるのは男性向けの音声を出してるほうが多いんです。先輩のアドバイスも男目線の話が多かったので全部が参考になるかは……」
「か、環境音……」
「はい!すごく参考になりました。先輩にいろいろ道具もいただきましたし、次からは私一人でできると思います。やっぱり電動は楽です、モーター音はちょっとうるさいですけど、指だと汚れるし疲れちゃいますから……」
「……で、電動」
「リオさん?どうしたんですか?こういうお仕事、やっぱりもう嫌だとか……?」
「嫌だとか、じゃないけど……」
私の言葉を繰り返してばかりになってしまったリオさんは、どこか虚ろな目で明後日の方向を見ている。疲れているのだろうか。私よりよほどあの日と違うように思えるその理由が分からなくて、何とか興味を戻して貰えるよう言葉を探す。
「あっ、もしかして環境音もご自身で作られますか?私がやったほうが楽かなと思ったんですが……必要でしたら道具もお貸しします、百均のですけど」
「え?今そんなの百均で売ってんの?」
「すごいですよね!本来はミルクを泡立てるものみたいなんですけど、これでアロエジェルに水を入れて混ぜるといい感じにとろみを調整できるんです」
「あ、アロエジェル?」
「はい!私ももう少し粘度があるほうがと思ったんですが、意外とぐちゅぐちゅした音を出すには、このくらいがいいらしくて。しっかり混ぜてから容器に入れて、マイクのそばでかき混ぜたらかなりそれっぽく聞こえました!」
「…………………………あー、なるほどね……」
せっかく興味を持って貰えたと思ったのに、リオさんは長い沈黙の後また呟く。
「あの、リオさん今日体調悪いですか?なんだかキャラクター違うような……」
「はぁ、違うのはあんたでしょ」
本日二度目のため息の後、リオさんが私のノートPCを引き寄せて操作する。リサーチと分析を重ねた資料を何ページもすっ飛ばしながら、その長い指先はつまらなさそうにキーボードに触れる。
「あーあ、俺はあんたのことでいっぱいだったのに」
「え……────」
「納期一週間で、しかも簡易的に録ったから編集も重くてさ。朝から晩まであんたの喘ぎ声聞いて……」
「わ、わ、すみません!すみませんでした!!」
「ようやく上手く繋げられた、と思ってチェックしてたらあんたのイッてる声がちょっと残ってて、またやり直して……」
「本当にお任せして申し訳ありませんでした!だからもう言わないでください!!」
会社の会議室でこれ以上ないほど身体を折り曲げて懇願する自分が情けない。あの日自分で編集したいからと、録音データを丸ごと持って帰るリオさんを、私はたいして止めなかった。本来なら、ライバーの負担を減らすためにも、マネージャーから社内の編集担当に依頼するのがマナーだ。それでもまさか自分の喘ぎ声をカットしてくださいなんて頼める訳もなくて、自分でできる技術もない私は、リオさんに甘えるという形をとってしまった。マネージャーとして正しくない行動を謝ろうと頭を下げるを私を尻目に、リオさんがモニターを見上げて呟いた。
「やめてって言っても、止まんない♡~溺愛彼氏のとろあまご奉仕~────これってなに?」
「そ、それは……次回作の案です。環境音を多く録る必要はありますけど、そこまでセリフは多くなくても成立するので、ご負担が減るかなと……」
「────“年下彼氏と付き合いはじめたはいいものの、元カレとの経験でセックスに抵抗のあるあなた。触らないという約束で家へ呼んだ彼氏は、なんだか様子がおかしくて……”」
「えっ、ちょっと、リオさん」
資料を作った時には平気だったのに、その声で紡がれる言葉は私を狼狽えさせる。際どいワードが散りばめられたあらすじを、あの日を思わせる甘い声がなぞっていく。
「“触らないから、舐めさせて。痛くないならと渋々OKしたあなたに待ち受けるのは、とびきり甘くておかしくなるような愛と快感”…………これ、あんたの願望?」
「読み上げないでください!」
「なんで?お仕事のシナリオ読んでるだけでしょ?」
「うっ……あと、願望じゃないですから!客観的な判断の結果です!」
「あはは、あんたはその位のほうが面白いよ」
「…………っ」
仮にも年上をオモチャにするなと言いたいのを堪えて、切り替えの咳払いをする。
「その……前回は私の知見がなくてご迷惑をおかけして、勢いであんな録り方をしてしまいましたけど……次回からはお一人でお願いします。このあと演技のレッスンのお時間もお取りしてますから」
当初どんなチェックがあったのかは分からないけれど、先日のリオさんはしっかりリアルな演技が出来ていた。“何でもしていい女の子”なんて、もとより必要ない。
「あれは事故です。もう忘れましょう」
マネージャーとして完全な失態だったと、今なら分かる。どうせレッスンまでには次回作は決まらない。こんな気まずい話はとっとと切り上げようと立ち上がった私を、リオさんは座ったままその声ひとつで引き留める。
「そんなに嫌だった?」
「────!」
「あんたに辛い思いさせたなら、ちゃんと謝りたい。……忘れたいくらい、嫌だった?」
「私は…………」
嫌じゃなかったから、もうやりたくないのだ。仕事だから、約束だからと覚悟を決めたはずが、仕事には許されない感情が頭をもたげていた。嘘でも嫌です、ひとりでしてくださいと言うべきなのに、その声に絡め取られて私は何も話せない。
「俺はあの日のこと…………」
「おい由美、何やってんだ?もうレッスンの時間────」
何か言いかけたリオさんが、ノックもせず入り込んできた人影に口を閉じた。
「え、リオ……?」
「駿?」
扉を開いた駿くんと、座ったままのリオさん。お互いを認識したと思った瞬間、二人の間に突っ立っていた私の腕を駿くんが掴んで、無理やりに廊下へ引き寄せた。
「────ちょ、ちょっとこっち来い!」
「えっ!?な、なに!?」
「なんでリオがいるんだよ!?」
「なんでって……駿くんの元担当で私の現担当でしょ。ちゃんと引き継ぎの挨拶したいと思ってたし、それに……」
「もしかして急遽レッスンさせたいライバーって……」
「そ、リオさんだよ。っていうかちょっと、離して……」
たかが扉一枚を挟んで、駿くんは慌てた顔を隠すこともなく、小声で私にまくし立てる。普段はひょうひょうとしている男が取り乱している訳が分からなくて、私はただその近すぎる瞳に気圧されたままだ。
「なんで俺に黙ってこんなこと……!」
「だって、普通に言ったら来ないかなって……」
「俺、リオに言ってねぇんだ、その────」
勢いで掴まれた腕が微かな痛みを訴える頃、その扉がゆっくり開いた。
「ねぇ。いつまでそこで喋ってんの?中入んなよ」
「あ……」
「どうしたの。座って、ちゃんと説明して」
掴まれていないほうの私の腕をそっと引いて、リオさんが私と駿くんを引き離す。戻ったその会議室は、先程より人が増えたのに一気に静かだ。この場に流れる微妙な空気のわけが分からなくて、私はひとまず用意してあった言葉を吐いた。
「……改めてご紹介します。あなたの元マネージャーで、演技指導のトレーナーである、木村駿です」
「へぇ。演技指導なんてやってるの?」
「…………ごめん」
「えっ!?言ってなかったんですか!?」
「……もともと、ここには演技指導者として採用されたんだが、マネージャーが足りないからって今は兼任してる」
「てっきり私、リオさんは知ってるものだと……」
気怠げにその足を投げ出して座る態度とは裏腹に、駿くんの声はひどく自信なさげだ。
「あのな由美。リオに演技指導をつけるべきじゃないって言ったのは俺だ」
「えっ……な、なんで」
「こいつはビジュアルがいいんだから、素のトークと顔で女性ファンを呼んだほうがいい。下手くそな演技なんていらねぇ」
「はぁ!?」
リオさんへのあまりの言い様に、たった数週間の付き合いでも怒りが込み上げて、思わず語気が強くなる。それを言っているのが、二年近くサポートしてきた元担当なら尚更だ。
「それは決めつけでしょう!?もっとリオさんの希望を────」
「お前のそういうところは俺も好きだ。“ライバーの夢を全力で応援するのがマネージャー”だっけ?素敵な心がけだと思ってる。でもそれで全てが解決するわけじゃない」
会議室を包み込む重苦しい空気が、褒められているはずの言葉にすらどんよりと影を落とす。何も言わないリオさんは、まるで二人のマネージャーを見定めるように、黙って頬杖をついていた。
「お前のやり方を否定する気は無いが、越えられない壁はある。百人近く演技指導してきた俺が言ってやる、こいつには無理だ」
「そんなことない!こないだのボイスは問題なく作れてた。昔のリオさんなら難しかったかもしれないけど、今ならきっと……」
「……そう、そこなんだよな……はぁー……」
説得にかかる私を遮って、駿くんが腕を組む。たっぷり時間をかけて大袈裟にため息をついて、芝居がかった仕草で頭を抱えてみせてから放った言葉は、私を凍りつかせた。
「なぁお前ら、《《あれ》》どうやって録った?普通にやったとは言わせねぇぞ」
「え…………」
「俺も聴いたが、ファンもついて良い作品だったと思う。そしてお前にあれがまともに作れるはずがない」
「そ、それは……」
「……もしかして、まさかとは思うが────」
「ち、違うの!これには訳があって、その」
「お前、……女雇った?」
「そ、そうなの!実はそうしたの!」
安易な言い訳に飛びつく私を、自分で言っておいて駿くんは驚き半分、引き半分の瞳で見る。
「マジかよ、お前やっぱやべぇな。どうすんだよ、経費落ちねぇぞ」
「ま、まぁそれは私のポケットマネーで何とかするよ、いい作品が作れるなら、それくらい……」
「いやそれはリオに出させろ、こいつ投資で一発当ててから飯に困ってねぇから」
「え!?そうなの!?」
「……駿、自分のことは秘密にしてたくせに俺のことはポンポン喋んないでよ。まぁいいけど」
久々に口を開いたリオさんを見る。先日とは違うピアスとネックレス、染めたばかりの艶のある髪。ライバー以外の仕事はしていない割に、金銭的に困っている様子がないと思っていた。
「マジでやるとは、さすが由美だな」
「え、ありがとう……」
「褒めてねぇ。ワーカーホリックも程々にしろよ」
お前の稼いだ金だろうがと続けながら、駿がモニターを見る。大きな液晶画面に際どいワードがずらりと並んでいるのを、冷めた瞳がちらりと追った。
「……仕事と割り切れるのはこの業界じゃメリットだが、あんまり自分を切り売りすんな。そんな事しなくてもお前は十分頑張ってるよ」
「ありがと。でも大丈夫だから」
ライバーの前なのに、駿くんがいつもの流れで私の頭を撫でる。まるで子どもに接するような態度は優しさの表れでも、同期にそうされるのは複雑な気持ちだった。多くの生徒を抱える彼のことだから、先生っぽい仕草が身についてしまっているのかもしれない。
「……駿、俺もいるんだけど」
「んな事分かってるわ。あのなぁ、そもそもお前がしっかり止めろよ。トレーナーやってることを隠してたのは謝るけどさ」
「あはは、ごめんごめん、だって押されちゃって。あーんなキラキラした目で絶対応援します!とか言われたらさぁ」
「ま、正直分かるよ。こいつ平気でそういうこと、素面で言うもんな」
「え?え?」
場の流れについていけない。困惑を隠さない私を二人はちらりと見て、そして心が通じあった親友みたいに同時にくすりと笑った。
「よし、由美もレッスンに来い。現実を見せてやる」
「えへ、先に謝っとくね?」
***
『あんた、のこと?おれがまもル、から』
『ずっとい、いっしょ?にい、いようね』
『大好きだヨ』
「なんなんですか、これ」
時間制限いっぱいまでレッスン室を使い、追い出されたあとに向かった喫茶店で、私はそう呟いた。
「どう?現実分かった?」
「……これは、酷すぎます」
「あはは!あんたにまで見限られるなんて、相当だね俺!」
大笑いするリオさんの目の前で、片耳に着けたイヤホンが棒読み以下の何かを垂れ流している。すらすらと読み上げることすらできず、心を一切感じない単語の羅列。レッスンの成果のはずのそれは、どんな熱心なファンが聴いても響かないだろう。
「笑ってる場合ですか!?素人の私のほうがまだマシですよこれ!」
「えー?あんた演技上手いと思うよ?」
「ちょ、ちょっと黙ってくださいもう!」
こうまで言われて、リオさんは他人事のような態度のままだ。変なことを言い出しかねない程に上機嫌なその表情は、吹っ切れたことによるものだろう。
「でもな、これがリオの全力なんだ。分かるだろ」
「……うん」
「声はいいんだけどな。もったいねぇとはずっと思ってた」
氷で薄まったアイスコーヒーに口をつけながら、駿が口を開く。リオさんは決してやる気がない訳ではなかった。むしろかなり真面目なほうだ。たった数行のセリフを数時間にわたって何度も調整されている間、不満ひとつ言わなかった。それでも現実として私の耳へ流れてくるのは、その努力を無に帰す酷い結果なのだけれど。
「俺からしても、成功したいなら今のシチュエーションボイスで知名度を上げるのは悪くない手だと思う、ただなぁ……はぁ」
今日、誰かのため息を聞くのは何度目だろう。そんなことを考える私の前で、駿くんはちらりと周囲を確かめてから声を落とす。
「女雇ってんのは正直まずい。世間的に公表しないのは当たり前だが、上にも言わねぇほうがいい。俺も黙っとくから」
「…………そうだよね、ありがとう」
「ま、あとは二人で話し合え。俺は次のレッスンあるから会社戻るわ」
残り少ないコーヒーを飲み干して立ち上がった駿くんが、リオさんに向き直る。
「マネジメントはこいつのほうがプロだ。リオが活動を増やしたいなら、いずれにしても担当は俺から由美に変更でいいと思う」
「うん、そのつもり」
「別に俺の担当外れても、何かあったら連絡くれりゃいいし。とりあえずまた飲みに行こうぜ」
「ん、こないだ駿が言ってた焼肉屋がいい」
「はいはい。また連絡するわ!」
駿くんは、リオさんにひらひらと手を振りながら去っていく。その姿が店を出ていくのを目で追いながら、私は驚きをそのまま口にした。
「……仲良いんですね」
「ん?あぁ、そうだね。マネージャーって言うより、飲み友みたいな感じだったかも、正直」
「確かに、そう見えました」
てっきり不真面目なマネージャーと、それに愛想をつかしたライバーだと思っていた。が、実状はかなり好調な関係に見えた。
「だからそんな仲良い奴が実は先生やってるなんてこと隠されててさ、しかもそれが俺が教える価値もないほど下手すぎるから……っていうのはちょっと堪えた。空気悪くしちゃってごめんね」
「そ、そんなことないですよ」
「ありがと。あんたのレッスン中のこの世の終わりみたいな顔見てたら、もうさすがに諦めついたよ」
「……先生を変えてみるとか、しますか?」
「いや、これは不治の病でしょ」
諦めず頑張りましょう、とは言えない自分がいる。
「それよりさ、これからどうする?」
「え?」
ムードメーカーの駿くんが居なくなったテーブルは、なんだか急に広く感じる。開け放たれたテラス席から夏の終わりのぬるい風が入り込んできて、リオさんの髪がかすかに揺れた。
「実はボイスの仕事は駿からじゃなく、別のプラフレの人から急にメールが来たのがはじまりでさ」
「え……!?ほんとですか!?」
「そう。普通マネージャー通すのが筋でしょ?まぁ友達に見られたいものじゃないから、駿から相談来ても嫌は嫌だけど」
マネージャー以外からの連絡は、それがたとえ上役であってもご法度だ。ライバーも裏方も、一気に増えたプラフレは一枚岩じゃない。それにしても行儀の悪い行いに、思わず驚く。
「でも、演技云々でプラフレには嫌な目に合わされてたのもあって、ムカついて……それで、そんなに稼がせたきゃマネージャー変えろ、あとなんでもしていい女の子用意しろ、って言ってやった」
「そう、だったんですね……」
「ま、まさかマネージャーとなんでもしていい女の子を兼任させるとは思わなかったけどね。あんたも知らなかったんでしょ?」
駿くんがいなくなった椅子をちらりと見る。あの日は突然で、勢いに流されるままここまで来てしまった。そのつけを精算するような気持ちになりながら、私は目の前のアイスティ―に手を伸ばす。
「はい。実はあの収録の後、駿くんにも詳しいことを聞いたんです。ただ、駿くんはとりあえずリオさんを打ち合わせに呼ぶように言われて、ボイスのことも、リオさんの条件のことも、知ったのは当日だったみたいで」
「……マジ?」
「それでさらに直前に、私を行かせろ、ってことが決まったと」
「あーあ、あんたには悪いけど、とんでもない無茶振りする会社だな、ここ」
「で、駿くんも、さすがに私にはあの条件を出さないだろう、って思ったらしくて……」
「…………はは、無茶振りは俺もってことね……」
私と駿くん、そしてリオさん。それぞれが少しずつずれた情報であの場に居て、そしてそのずれが、とんでもない事態へ結びつけてしまった。あの日のことは、完全に事故と言ってよいものだと思う。問題はその事故の結果が成功を刻んでしまった今、どうするかだった。
「……あの。駿くんも言ってましたけど、やっぱりシチュエーションボイスはかなり反響も良かったです」
「まぁ、そうなるね」
「売上もそうですけど、熱いレビューが多くて……」
「へぇ」
私は渾身の出来だった資料を思い出し、努めて客観的な意見を並べ立てる。
「チャンネル登録者数も伸びましたから。も、もちろん一番はリオさんのご希望で……」
「俺はあんたの気持ちが聞きたいんだけど」
「っ…………」
「あれはあんたの犠牲の上で出来た作品でしょ。はじめはあんなこと言ったけど、契約とか約束とか、そんなもの抜きにして考えてよ」
「犠牲って……」
長時間のレッスンで思うより早く時間は過ぎて、夕暮れはその色を落としていく。見知らぬカップルが仕事終わりの待ち合わせをして消えていくのを、所在無い私の瞳がガラス越しに見つめた。
「俺は正直、別に続けなくてもいい。そりゃ数字が取れれば嬉しいけどさ」
「あっ…………」
「あんたが声を褒めてくれた時、すごい嬉しかったんだ」
リオさんが机上の私のスマホを手に取る。再生したままだったレッスン中のテスト音声のフォルダを開いて、そのひとつひとつを跡形もなく削除した。
「だからさ、あんたが俺の声を嫌いになるくらいなら、こんな仕事したくない」
まるで重い彼女が彼氏のスマホをチェックするみたいに、リオさんの指先は私の端末を滑る。約束だから好きにさせろと言われるほうがよほど楽なのに、目の前の人は自分の成功を切り捨ててまで、私の意志を待つ。
「けど、録るなら相手は選ぶ」
その指は検索エンジンに表示したままだった、ギラギラとしたページで止まる。私がさっき調べていた、本来雇うべき女性が勤める風俗店のレビューサイトだ。そしてリオさんは、勝手にそれを履歴ごと消す。止める間もなくスワイプで消えていくそれを、私は黙って見るしかない。
「あんたがいい。だからこういうのは無し」
突き返されたスマートフォンを受け取る手が、震えている気がする。今自分がどんな顔をしているか分からない。机に残るグラスはとっくにその中身を失って、私に早く答えを出せと迫る。
「わ、私は……」
マネージャーとしての立場、社会人としての意見、女としての矜恃。そのどれもがぐちゃぐちゃに絡み合って、最後に溶け残った感情に、私は名をつけられなかった。
時計はもう夜を指して、夕日に代わる人工的な灯りが、色とりどりにあたりを照らしていく。アイスティーで潤したはずの喉が乾いて、街の喧騒が遠く聞こえる。
不自然を取り繕うすべもない沈黙がたっぷり鳴って、どちらにせよもう逃げ道などない。ようやく口を開いた。
「リオさん……この後って、お時間ありますか」
***
「ねぇ、本当に良かったの?」
「……ホテルに行くところを見られるよりは、言い訳がつきますから」
適当に入ったファミレスで食べたパスタは、味が全く分からなかった。似合わないビールで流し込んで最低限の食事を済ませれば、向かう先は限られている。ファンも増えてきたライバーを往来に晒すわけにはいかないことを考えれば、ほとんど選択肢はないに等しかった。
「どうぞ、狭いですけど……」
「お邪魔しま~す」
利便性だけを重視したワンルームは、小さなローテーブルとベッド、そして仕事でもらったグッズ等で定員オーバーだ。寝に帰るだけの場所に人を呼ぶことすら想定外だったのに、初の客人は自分の担当ライバー。しかもこれからすることを考えると、冷静でいられなくなる。
「本当にすみません、ただでさえ狭いのに、散らかってるし……」
「え?そんなことないよ」
「いやいや、もう、本当にすみません、その……あ、飲み物とか無くて!その、買ってきます、私!コンビニで、すぐ」
「どうしたの?大丈夫だよ、そんなの」
「いえ、私マネージャーなので……すみません、全然気が利かなくて……」
見慣れた部屋の光景が、カフェを出た後からずっと上の空だった心を引き戻して、今更に怠慢を自覚する。いたたまれない気持ちのまま、閉じたばかりの玄関扉へ向かって踵を返した私を、リオさんが抱き留めた。
「だめ。ここに居て」
「……っ」
「何も買ってこなくていいよ。あんたさえいればいい」
耳元で鳴るその声が、必死で組み立ててきた私の仕事という言い訳を、いとも簡単に溶かしていく。香水だろうか、あの日と同じ重く焦がれるような香りがして、それだけで身動き一つできない。
「……や、……」
「あはは、昼間はあんな過激なプレゼンしてたのに、されるのはハグも恥ずかしい?」
背中から回された腕が、ドアノブにかけた私の指をひとつずつ引っ込める。されるがままの身体は甘い声に支配されて、家に招いたのは自分なのに、まるで罠にはまったかのような錯覚に陥る。
「……俺、機材準備してるから、ナナはシャワー浴びる?」
「は……は、はい……」
「ん、いい子だね」
首筋にキスされたと気付く頃には、もうリオさんは私から身体を離していた。電源借りるねと声がして、鞄から先日も見たマイクを取り出している。
そうだ、これは仕事なんだ。
そう言い聞かせて、私も脱衣所の扉を開けた。
熱いシャワーで汗と焦燥を剥がして、どこにでもあるボディーソープの人工的な香りが私を包む。幾度鏡を見たところで、そこには等身大の私しかいない。
見た目だけで人を十分魅了できるリオさんのような人に捧げるには、明らかに不足だ。
そうと分かっていて、それでも今更引き返す権利など、私は持ち合わせていない。
「……あの、お待たせしました……」
ようやく覚悟を決めて、まるで海に潜る前のように付け焼刃の深呼吸をしながら、私は再びリオさんのいる部屋に戻る。床にいくつかの機材を広げたままのリオさんが、視線だけこちらに寄越した後、にっこり笑顔を作ってくれた。
「おかえり。かわいい服だね、バンドT?いつものスーツと全然イメージ違う」
「や、やめてください……サイドレッドで担当してる、女性ユニットのグッズですから……」
淡い桃色のTシャツは、いかにも女性らしいデザインで、ライブした日付と会場の名前がずらりと背中に並ぶ。仕事関係の人で、付き合っていないけれど、今から触れ合う────そんな歪な関係性の前でどんな服を着ればいいかなど、分かるはずもない。
かわいいパジャマなど持っていない。かといって新しいスーツに替えるのも違う気がして、私は仕事から逸脱しない、ずるい選択肢を選んだ。
「いいじゃん、カジュアルなのも似合うね」
「リ、リオさんも、シャワー使いますか……?」
「うーん、どうしよっかな。内容によるかも」
「な、内容……」
「これ見て」
さらりと褒めてくるリオさんの手馴れた微笑みがこそばゆくて、私は湯気で湿った髪を振った。リオさんがスマートフォンで何かを映しながら自分の隣をぽんぽんと叩くので、促されるままそこへ腰かける。
「溺愛彼氏のとろあまご奉仕だって。してみる?」
「っ…………」
目に入った画面には、見覚えのある私の資料が表示されていた。まるでその文字の羅列を初めて見たように訊ねてくるリオさんが恨めしい。こんな資料を作っておいて、今更赤面している自分も。
「じゃ、ベッド座って?」
何も言わない私のそれを承諾と受け取ったのか、リオさんは私の服の裾へマイクを着ける。それはまるで私から抵抗を奪う魔法のアイテムのように、私はこの場での仕事を思い出して何も言わず立ち上がった。
私は何でもしていい人形か、声を録るための装置のようなものだ。立場で言えば、この小さなマイクと何も変わらない。
「はは、ナナは分かりやすいね。そんなに緊張しなくていいのに」
「……すみません……」
「そうやって、すぐ謝るし」
高さのあるベッドに座らされた私から、床に居るままのリオさんは、見下ろす形になる。その指先がリオさん自身の服にもマイクを着けてから、音量をチェックするアプリケーションを弄っているのをぼんやり見つめた。
「……あれ、本当にしていい?“やめてって言っても、止まんない”っていうの」
「あっ……え、えっと……」
自身のマイクを調整しながら、リオさんが私に近寄る。
「じゃあ、どうしても止めて欲しい時は、純って呼んで」
「じゅん……?」
「そう。俺の本名だよ。純粋の純。そんな清純派キャラの顔じゃないだろって、全然関係ない名前でデビューしたけど」
「純、さん」
「さんは要らない」
「……純」
「そう。忘れないでね」
ライバーの本名は重大機密だ。報酬の支払いをする経理しか知らないことも多いそれを、簡単に教えてくるのに驚きながら、私はもう一度口の中でその名を呟いた。純。
「よし、これでいいかな。電気ちょっと暗くする?俺はこのままでもいいけど」
「……っけ、消します」
リオさんが設定画面を確認してから、手元のスマホを伏せる。耳にかけた男性にしては長い髪と、明かりを受けてきらりと光るピアス、その中性的なファッションと対象的な、男の人の首筋。そのどれもがなんだか見てはいけないものに感じて、私は慌てて手元のリモコンで照明を落とした。
「ふーん、残念」
「何言ってるんです、か……っ」
「もしかして、こないだより緊張してる?」
「……す、すみません、大丈夫ですから、なんでもお好きにしてください」
リオさんの手が、私の足へ触れる。緊張のまま揃えていたそれをそっと開かれて、事の始まりを意識した身体が小さく息を飲んでしまった。その小さな震えに手を引っ込めたリオさんを、ぼんやりした常夜灯だけが照らしている。
「……ねぇ、“元カレとの経験でセックスに抵抗がある”って、駿のこと?」
「え!?ち、違います!!」
「ほんと?ずいぶん仲がよさそうだったからさ」
「あいつ誰とでも距離近いんです!私はもっと大人っぽくて紳士的な人が……」
「へぇ」
誤解を生みたくなくて、私は懸命に首を振る。
「……”セックスに抵抗がある”のほうは、否定しないんだ?」
「あ……」
「ただでさえあり得ない無茶させてることは分かってるよ。そのうえトラウマがある人に、させたくないんだけど」
「あの、トラウマと言うほどではなくて!別に……」
「話して」
言いよどむ私を、二人だけの静寂が促す。
「……そんな、面白い話でもないですよ。学生時代にお付き合いした人とその、したとき……ちょっと痛かったりとかして、あまり積極的になれなくて。それで関係が終わりまして……」
どこにでもあるつまらない話を、リオさんは黙って聞いている。
「社会人になってからはあまり出会いもなくて。熱心に言い寄って来た方が、実は私の担当アイドルのプライベートを知るのが目的の……まぁ、記者さんだったこともあるんです。それから彼氏は作ってません。だからもう何年もご無沙汰っていうか、仕事のせいにして女捨ててますから、あはは」
「女捨ててる人は、あんな声出せないと思うけど」
「あの時は、その、夢中で……正直痛かったこととか、思い出す余裕もなくて」
「うん、俺には気持ちよさそうに見えた」
「……っ!デリカシーなさすぎます!」
耳を疑う発言にきっと睨みつけたら、こちらを見上げるグレーの瞳と目が合った。視界の端に映る時計は、もう深夜と呼んでいい時間を指している。
「……分かってるんです、足手まといになってることは」
「そんなこと……」
「あなたの声が好きだから、成功してほしいから……そのためなら何でもしたいのに、どうしても身体がついていかない」
「あのさ、俺だって無理させたくないからね?あんたが嫌な思いするくらいならこんな仕事受けない、たとえあんたがやれって言っても……」
「で、でも、本当にこの間は平気だったんです。だから、リオさんなら、痛くないかも……なんて」
「は、────」
「この前のこと……嫌だって、思えなくて。ボイスのレビューでも思ったんですけど、可愛いとか褒められながら触られると、喜びを感じる方が多いんです」
「……そうなんだ」
まるで世間一般的な話をしているような口振りでごまかす。
「その……濡れてなくて萎えさせちゃったらどうしようとか、思わないじゃないですか、ボイスこれなら」
私だって欲が皆無なわけじゃないと、あの日確かに思い知らされた。挿入なし、甘い言葉ありの、おいしいところだけ。触れられると、身体の奥底に隠してきた何かをそっと揺り起こされるようだった。
「本当は触ってほしいから、家ここまで呼んだ……んだと、思います……」
腰掛けたベッドのシーツを手繰って、ぎゅっと握りしめる。ふざけたシナリオは私の願望だと言われたのを、今はもう否定できない自分がいた。
「だから、やめないで……」
こうなることを心のどこかで求めていたのかもしれないと認めはじめるころ、膝立ちになったリオさんが真剣な顔でこちらを見ているのに気付く。
「あっ!?今私、変なこと言いましたよね、あの……」
「キスはしてもいい?」
「え、あ……」
戸惑う私に端正な顔が近付いて、緊張に勝る羞恥がぶわりと私を包む。ろくに言葉を発せない唇が塞がれる前に、私の一番弱い声が降ってきた。
「あんたの嫌なことはしないから、絶対」
「ん……っ」
数週間も経ったのに、その口付けはあの日のことを瞬時に呼び覚まして、触れられていない身体すら熱を持つ。深くなるそれに応えるたび、甘い息が漏れた。そっと入り込んできた舌を一度受け入れれば、それは次第に遠慮を失って私を乱していく。
「ん、っあ……あ……っ」
「……かわいい。もうキスだけずっとしてよっか」
「や、……だめ、です……そんなの」
「あーあ、分かりました、収録ね?」
リオさんがわざとらしいため息をついて、それから自身の首元のマイクに触れる。暗い部屋に起動中であることを示すライトが淡く光った。
「え、今の録ってなかったんですか……?」
「うん。だめだった?」
「だめっていうか……」
じゃあ何のためのキスだったんだろう。訊けばいいのになんだか言い出せなくて、私の言葉は途切れたままだ。リオさんが私のTシャツの裾に手を伸ばして、同じようにマイクのスイッチを入れる。先程よりは怖さを感じなくなった身体が、促される前に足を少し開いた。
「ん、……もういいの?」
「はい、そういうコンセプトの作品ですから」
「……そう、分かった」
短いキスのあと、リオさんが私のショートパンツに手をかける。蝶々結びをほどいて、マイクを避けながらそっと下ろしていく。腰を浮かせてそれを手伝おうとしたら、一緒に下着までずらされた。抗議しようにも、もう私は声を出せない。
「じゃあ……約束だから、痛いことはしない。触りもしない、舐めるだけね?」
「……っ」
開かれた内ももにキスされて、身体がびくんと反応する。思わず声が出そうになって、慌てて両手で自らの口を押えた。逃げられないように両ひざに手を置かれて、その唇は遊ぶように肌に触れながら、少しずつそこへ近づいていく。
「それと、やめてって言っても、やめないから」
私を追い詰めるように、他でもない私の考えたセリフが零れた。
***
「……っふ……」
もう何分経っただろう。気の遠くなるような時間に感じるそれは、時計を見る余裕などない私を何度も追い詰める。何も言わないリオさんが私のそこへ身体を埋めて、はしたない水音がやけに響いていた。宣言通り唇と舌だけがずっとそこを刺激して、焦らすように舐められては時折吸われて、まともな思考などできるはずもない。もう限界だと思うのに、さらにもう一つ上の限界まで追い立てられるようで、幾度も達した身体は手足の先まで蕩けて力が入らない。
「もう、むりです……っ」
「ん?もう一回イきたい?いいよ」
「そんなこと、言ってな…っあっ、だめ、だめ……っ」
「たくさんイけて偉いね、今ので何回目?」
「あっ、……わかんな、い…っ」
また限界に近付いていた身体を、リオさんは容易く絶頂へ導く。熟れた芯に舌を這わせて、唾液と愛液で濡れるそこに柔らかい刺激が幾度も与えられる。快感に慣れきった身体が私の意志と関係なく震えるのを、荒い息で懸命に整えた。
「え?忘れちゃったの?もう、だめじゃん……えっちなこと嫌なんじゃなかった?」
「あ、待って、やめて、も、だめ……っ」
「やだ、もうちょっとしよ、ね?」
「あ、っあ、だめ、イッたばっかり、やだ、やだ……っ」
「変になっちゃう?いいよ、見せてよ。元カレに見せなかったところ、俺だけに見せて」
こんなの誰ともしたことない。気持ちいいのに、強すぎる刺激に身体が逃げそうになるのを、リオさんが何度も引き寄せる。
「もう、足閉じちゃダメだって……気持ちいいくせに」
「あッ、あん、ああっ……」
「あーあ、すごくかわいい……声出ちゃう?」
「ご、めんなさ……っ」
溢れ落ちる嬌声を抑えられなくて、謝る声すら収録の邪魔だと気付く。手で塞ごうにも身体はどこにも力を入れられなくて、腕はベッドの上で自身を支えるので精一杯だ。
「リオさ、だめ、キスして……」
「……はぁ、あんたって本当に……」
あの日のことを思い出してそう頼んだ。口でするというコンセプトなんだから、キスしていたら続きが撮れない。そう思い出す頃には、リオさんが私の唇を塞いでいた。熱い舌は私を簡単に捕まえて、こんなことすら気持ちいい。
「んっ…………」
「セックスが怖い癖に、俺の事煽ってる?」
「ち、違います……っ」
「これでも俺、我慢してるんだよ。本当は今すぐあんたを抱きたい」
「…………っ」
甘い甘いセリフは、昼間の棒読みとは別人だと思うほどだ。まるで私に言われているかのように思えて、身体の奥まで痺れるような感覚がする。
「あんたを抱いて、元カレの事なんて全部忘れちゃうくらい、俺でいっぱいにしたい」
絶対にこのセリフを無駄にしたくなくて、マネージャーの私が必死に反応する身体を静める。これを聴いてときめくファンが何人いるだろう。耳元で囁くようなその声は、私が貰っていいものじゃない。
「今日は約束を守るいい子になってあげる。でも、次そうやって煽ってきたら、抱くから」
固まる私にもう一度キスして、リオさんがまた私の足に触れた。
「じゃあ、続きしようね」
「え……っ」
「ん?まだするよ、えっちなことは気持ちいいって、ちゃんと覚えてもらわなきゃ」
「や、やだ、もう……」
「もう十分?……嘘つき。さっき中途半端なところで止めたから、ちゃんとイきたいって顔してるよ」
そんな顔していないのに、リオさんが顔を近付けるだけで、触れられてもいないそこが期待に震える。キスがもたらした休憩時間で身体は勝手に準備を整えて、濡れた舌でそっと触れられればもう思考が溶けていく。
「あんっ、んっ、だめ、だめ……っ」
リオさんは何も言わず、私を翻弄し続ける。逃げようとする腰を抱き寄せられて、達することを覚えてしまった身体が続きを求めて疼いた。
「あぁっ、だめ、も、すぐ、……っ」
じゅっと芯を吸われて、もう何も考えられない。仕事とか、収録とか、元カレとか、私をこんな状況に置いた原因があるはずなのに、もう分からない。
「気持ちいい、だめ、だめ、イっちゃう、……っあ、ああっ……!」
四肢まで広がるような快感が私を包んで、気付けば声を我慢することもなく達していた。
「あ……っ、声、ごめんなさ……」
「…………キスだけで止めるから、もう一回」
「ん……っ」
謝る私の言葉を遮って、リオさんが唇を合わせてくる。これまでのどのキスよりも性急に熱い舌が私の舌を絡めとって、バランスを失う身体を強く抱きしめられる。
「はぁ、かわいい……大丈夫、我慢できる……」
口付けの合間に零すセリフは、それだけで直視できないほどの欲を孕む。薄く開けた視界に、声と同じくらい熱っぽい瞳が映って、慌てて目を逸らした。
「これ以上はしないから、もうちょっと、キスだけ……」
言い訳混じりの口付けを幾度も繰り返して、その度にリオさんが私を強く引き寄せる。こんなに余裕のない所は初めて見た。そういうシナリオにしたいのかと思って心は冷静に受け入れても、散々触れられて蕩けきった身体には激しいキスなんて、興奮材料にしかならない。
「……んっ、リオさ……」
甘い口付けに溺れた私が、タブーを飛び越えてその名を口にした時、二人きりの狭い部屋なのに、まるで誰かから私を隠すようにぐいと引き寄せられた。バランスを失った身体がこの場にいるたった一人に反射的にしがみついて、それから背中に腕を回す。
「────!」
「あ……」
その瞬間、視界がぐるんと回った。どうやら急にしがみついたのが良くなかったらしく、無理な体勢になった結果、私はベッドに押し倒された形になっていた。驚く私の頬を、リオさんはそっと撫でる。
「ナナ」
「っ……」
たかが頬なのに、リオさんに触れられればびくりとしてしまう。熱を持つ指先が私の肌を泳ぐようだ。覆いかぶさる身体がさらに距離を縮めて、太もも辺りにぐっと硬い重さを感じる。
「あっ……」
何か分からないほど純粋でもない。気付いてしまったことを隠そうにも、もう遅い。慌てて目を逸らして精一杯身を離そうとする私を、リオさんが笑った。
「ナナのえっち」
「わ、わ……っすみ、すみません!」
「……ナナのせいだよ。責任とってくれる?」
その指先は頬から首筋を巡る。お腹から下へ降りて、何も身につけないままの下半身を遊ぶように触れた。そっと羽根が撫でるような指先と、耳元で鳴る甘い声。反応できないでいる私に、リオさんがもう一度微笑んだ。
「あはは、冗談だよ。退くね」
「あっ、すみません……」
「ううん、俺が体重かけちゃった。痛いとことか無い?」
「だ、大丈夫です」
リオさんが自身のマイクに触れて、私のマイクも外してくれる。そっと支え起こしてくれる手は、もう私の素肌に触れようとはしない。
「いいの録れましたか……?」
「んー、分かんない。今日はもう帰るね」
「も、もうですか?ではタクシーをお呼びするので……」
「大丈夫、まだ電車あるから。お邪魔しました」
リオさんはてきぱきと荷物を纏めて立ち上がる。慌てて私も脱いだままの服を手繰り寄せた。
「じゃ、じゃあ駅までお送りします」
「やだ。こんな遅い時間に女の子外に出さないよ」
「女の子って……、私はあなたのマネージャーですから」
「マネージャーでも女の子は女の子でしょ」
「そんな歳でもないですって。それにこの時間に帰ってくることはしょっちゅうですし、ここはそんなに治安悪い駅じゃ……」
「俺は一人で帰りたいの、おやすみ」
「ま、待ってください!」
急にまるで子どものような意地を張るリオさんを、慌てて引き留める。ライバーが突然態度を悪くする時は、決まって危険信号だ。それが身に覚えがなければ尚更。
「リオさん、どうしました?私のほうで不手際があったのなら教えてください。まずは落ち着いて話しましょう」
「……あんたが悪いわけじゃないよ?もう帰りたいだけ」
散々アイドルユニットに使ったパターン化された声掛けは、この人には通じないらしい。
「そうは見えません、なにか収録が良くなかったなら、やり直しますから」
「……へぇ?」
玄関で靴に片足をねじ込んだリオさんが、冷たく笑って向き直った。
「やり直せる?あれを?それとも《《続き》》していいってこと?」
「あっ……」
困惑する私の手を引いて、壁にぐいと押しやる。マネージャーとライバーの適切な距離などとうに超えて、うつむいた前髪から覗く瞳が私を映した。
「俺は無理」
「リオさん、ちょっと、待って……っ」
「……これ以上あんたと居たら、変な気を起こしそうになる」
「ん……っ」
「ずっと我慢してる。あんたを怖がらせたくないから」
どこにも逃げようがない私の背をそっと撫でる。それだけでさっきまでのことを思い出した身体が、甘い吐息を零した。少しずつ近付く距離にキスされると思って身構えた私の耳元で、そっと声がする。
「今日はいい子でいるって言ったでしょ、だから帰るね。分かった?」
「……は、はい……っ」
ようやく絞り出したその言葉よりも先に、リオさんが玄関の扉を閉めた。