あなたの幸せを願ってる…って、あなたが幸せにするのよ!!
「ヘレン。すまないが、離縁してほしい」

 男爵家に嫁いで三年。
 元公爵令嬢の私を待っていたのは、そんな残酷な言葉だった。

「ど、どうして……」

 呆然としてしまって、そんな大して意味のない言葉しか出てこない。それも、情けなく震えていた。
 じっと夫を見上げる。
 彼はこの国では珍しい黒髪と黒みがかった赤色の目を持つ。
 どんなときも貴族らしさを忘れることなく、たとえ私の前だとしても、きっちりと貴族の服を着こなす真面目な人。
 寡黙で表情も雄弁ではなくて、嫁いだ当初は彼の考えを読むのにだいぶ苦労したけれど、この3年でだいぶ読めるようになってきた。
 じっとこちらを射貫く赤色の視線は……とても悔しそうだった。


 私たち夫婦の関係の始まりは、貴族同士の結婚ではよくある政略結婚だった。
 私はメルマリア公爵家の五女、末っ子として生まれた。
 メルマリア公爵家は代々王家の優秀な腹心を輩出し、評価されていた。女性陣も力のある家々に嫁いでいて、血脈といったものを広げていっていた。
 とはいえ末っ子の私はとても可愛がられていたので、勉強しろ、とか、早く嫁げ、とか言われることはなかった。
 なんの問題も起こすことなく、いわゆるよくいる貴族令嬢として生きてきたと思う。
 そんなある日、私に縁談が持ち上がった。17になった年のこと。

「男爵家……ですか?」

 とある春の日のお昼ごろだった。オウム返しのようにお父様に聞いたのを覚えている。

「ああ。グルードダイン男爵家の当主、エギト・グルードダイン男爵との縁談だ」
「まぁ……」
「だが、大丈夫だ。彼は正義感も強いし、男爵らしからぬ気概も持っている。頭もキレるから、いずれ子爵や伯爵にもなれるだろうな」

 普段厳しい父がここまで誰かを褒めることはなくて、私の戸惑いと鬱屈した気持ちは、少しずつ上向いていった。
 もしかしたら私を心配させないためにそう言っていたのかもしれないけれど、その後顔合わせしたときの夫は、父の言う通りのような人だった。

「爵位としては低いけれど、絶対にあなたを幸せにします」

 その言葉で、夫を信じることにした。
 詩歌や演劇といった趣味が合ったことも講じて、顔合わせのあとには手紙を何通もやり取りして、仲を深めた。
 三通目くらいの段階で、すでに夫との結婚に不安を感じることはなくなっていて、むしろわくわくや楽しさを抱いていた。
 社交界ではすでに私たちの結婚の噂が流れていて、参加するたびに心配してくれる人がいたり、「公爵令嬢とあろう方が落ちぶれてしまうのね」と吐き捨てる令嬢がいたりしたけれど、正直あまり耳に入らなかった。
 たしかに一度男爵家のお屋敷を見に行ったことがあって、公爵邸のように豪奢で広いお屋敷ではなく、こぢんまりとした質素なもの。
 使用人も公爵邸みたいにたくさんいるわけでもない。
 でもだからこそ、距離が近くて親しげだし、変な気遣いや緊張感も感じない。息が吸いやすい場所だった。

 そして数か月後。
 私は夫のもとに嫁ぎ、ヘレン・グルードダイン男爵夫人としての人生が始まった。
 夫には妹がいて、まだ10歳。でも私のことをずっと待ってくれていたみたいで、男爵家の屋敷に着くなりとても歓迎してくれた。
 お義母様も「あなたみたいな子が来てくれて、本当に嬉しいわ」と、まるで自分の子供のようにぎゅっと抱きしめてくれた。
 公爵家ではスキンシップはそう多くなかったから、なんだかとても新鮮で、心が温かかった。


 2年が経っても子供には恵まれなかった。
 男爵家の跡継ぎをなんとしてでも産まなければ、とはじめは慌てていたものの、夫は「こういうのは授かりものだから」と言ってくれ、お義母様も「まずは新婚生活を楽しみなさいな」と言うから、そういうものかと割り切った。

 ――そんな折、夫が少しずつ不在がちになっていった。

「すまない、今日は仕事が少し忙しいんだ」
「そう……なのですね……」
「ああ。だが、終わったらすぐ帰ってくるからな」

 普段ならぎゅっとハグしてから屋敷を出るはずだけれど、今日はなかった。
 そして今日以降、一度もなかった。
 数日後には、寝静まった深い時間の夫婦の寝室で、夫は深刻そうな表情でこう言った。

「少しの間、寝室を別にしたい」
「え……でも……」
「なんだか最近……その、眠りが浅くて。いびきや歯ぎしりで、ヘレンの眠りを邪魔したくないんだ」
「…………わかり、ました」

 夫は「ありがとう」と私の頭にかすかに触れて、そのまま自身の執務室に戻っていった。
 それからは、夫婦の時間もなくなってしまった。
 お義母様に相談してみても、「言葉足らずな子だけど、あなたを無下にすることはしないから」と言うだけ。
 でも脳裏によぎるのは、彼の不貞だ。
 貴族に嫁いだ妻に子供ができないことはよくあるけれど、これが数年も続くと話は変わる。
 夫は第二夫人を探したり、今の妻と離縁して新しい妻を探したりすることは、この国の貴族では何も珍しくない。

(私は……捨てられてしまうのかしら……)

 そう思うと、独りの夜はどんどんと寂しくなってしまう。
 毎夜、彼のいないベッドで涙を流し、何度か彼の執務室の扉をノックした。でも、彼は不在なのか、姿を見せてくれることはなかった。

 ――そこから彼が私に離縁を告げるまで、そう長くはなかった。


 彼らしい、雑多なものなど何もなく整理整頓された執務室。
 執務机の前に立ち、悔しそうな視線でこちらを見下ろす赤い瞳と対峙する。
 どうして、という私の呟きに、彼は逡巡してから、ふるふるとかぶりを振った。

「……言えない。すまない」
「どうしてですか!」

 納得なんてできない。まだ「好きな人ができた」と直接言われたほうが、こっちの踏ん切りがつくものだ。
「私に子供ができないからですか!? それとも、私に女としての魅力がないから!?」
「違う、違うんだヘレン」
「じゃあ、もともと公爵家との繋がりを作るためだけの結婚だったということ!?」
「っ、そんなわけない!!」

 普段はゆっくりと静かに話す彼が大声を出したものだから、びっくりして動きを止めて黙る。
 彼は肩で荒く息をしながら眉根を寄せ、歯を食いしばっていた。
 我に返った私は、その彼の様子に違和感を持った。
 世の不貞をした男性の表情は知らないけれど、仮に彼が不貞をしていて、私のことが邪魔で離縁したいのなら、こんな“悔しそう”な表情はしないはず。

「旦那様……」

 私は黙りこくったままの彼に近づく。

「こちらに、来ないでほしい」
「いいえ」
「私は、あなたのことがもう嫌いになったんだ」

 彼は眉間にしわを寄せて、私に手のひらを向けながら後ずさる。ふいと視線を逸らしたのを見て、確信した。

「噓ですね」
「……っ」
「嘘をつくときに視線を逸らすのも、図星を指されて口を一瞬すぼめるのも、すべてわかりますよ」

 私は一気に夫との距離を詰めると、彼の体をぎゅっと抱きしめた。びくっと彼の体が震える。

「お願いです。本当のことをおっしゃってください」
 夫は、あのしっかりした父が認めるくらいの人だから、きっと本当に何か理由があるのだろう。
 でもそれを隠されたくなかった。

「…………わかった」
 長い沈黙のあと、夫は掠れた声でそう告げ、私を執務室のソファに座らせた。
 考え込んだり、書類を持ってきたり、使用人に何かしら指示を出したりと、そわそわしている夫を見て待つこと十分ほど。
 ようやく何か決心がついたのか、夫も向かいのソファに腰を下ろした。

「突然、あんなことを言ってしまって、申し訳なかった」
「本当ですわ」

 反射的に言葉が出てしまって、自分で自分にびっくりしながらふふっと笑う。
 しかし夫の顔は、真剣なままだった。

「だが、離縁してほしい、というのは変わらない」

 先ほどよりは驚かないものの、一気に全身から血の気が引いてめまいがする。なんで、とか、やっぱり、とか、様々な言葉が頭の中を占めてうまく言葉にできない。
 ぐるぐる考え込んでいると、夫は深呼吸を一つしてから、身に着けていたベストやシャツ、クラバットを脱ぎ始めた。
 程なくして鍛えられた上半身が露わになる――それと同時に、私は息を呑み、先ほどよりもいっそう強いめまいを感じていた。

「その痣……っ! 体は!? ご体調は!?」

 どんな人がどの方向から見ても彫刻と謳うであろう芸術のような肉体に、毒蛇のように巻きつく赤黒い痣があった。
 私は勢いよく彼のもとへ駆け寄り、ぺたぺたと痣を触る。
 他の部分の肌とは何も変わらず、ただ色が違うだけ。そう思いたいけれど、そうではないというのは知識として知っていた。

「っ…………あぁ、まだ何もない」

 なぜか少し照れたように返す彼の声を素通りさせながら、私は実家にいたころに学んだ知識を思い返した。
 この国には原因が特定されていない病が存在する。
 それがこの、突如として全身に痣が広がる病。
 日を追うごとに痣が広がると同時に全身の関節や諸臓器にも影響が出始め、痛みも増し、どんどん衰弱してしまう。
 経過は早く、半年もてばいいほうだと、たしか家庭教師から教わった。
 研究者たちがこぞって日々治療法などを探しているものの、滅多に見ない病であることから原因は不明、治療法もまだわからない。

 ――不治の病だ。

 考えたくない答えにたどり着いた瞬間、私の目からぼろぼろと涙がこぼれだした。
 止まらない。次から次へとあふれだして、そのうちしゃくり上げる声まで出てくるようになってしまった。

「すまないな」

 夫は一言そう言って、私の頭を優しく撫でる。
 その温もりを掴んで放したくなくて、私はぎゅっと夫の体を強く抱きしめた。
 しばらくそのままだったが、コンコンとドアをノックする音が聞こえてきて、私は夫の隣のソファに腰を下ろした。

「旦那様、ご用意が完了しました」
「ご苦労。もう少し時間がかかるから、待っていてほしい」
「かしこまりました」

 そんな事務的なやり取りののち、夫は服を着て私のほうを向いた。
 赤い視線が、優しげに、でも悔しそうに私を射貫く。そしてゆっくりと、微笑んだ。

「俺では、あなたを幸せにすることができないみたいだ」
「……っ、そ、そんなこと……!」
「このままでは、あなたを幸せにするどころか、不幸にしてしまうだろう。それは、私が嫌なんだ」

 また、目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。
 突然そんなことを言われても、全然頭が追いつかない。
 愛する夫が不治の病にかかり、死の淵に立っている。そして私を気遣って、離縁しようとしている、だなんて。

「病めるときも健やかなるときも一緒にいる……って、神に誓ったじゃないですか」

 泣きじゃくりながらなんとか出てきた言葉は、まるで子供の言い訳のようなものだった。
 数年前の結婚式が脳裏によみがえる。あのときの幸せの絶頂から、深く突き落とされたものだ。

「ああ、誓ったな」
「だったら」

 そこまで言って顔を上げると、夫は申し訳なさそうに眉尻を下げていた。

「愛する人を守るために、神への誓いを破る必要もある」

 その言葉の意味を理解するなり、ついに涙腺は決壊してしまった。
 もう言葉で反論するほどの気力はなくて、ただぽかぽかと彼の体を力なく叩くのみ。
 夫はそれを微笑ましげに、そしてすこし寂しそうに見つめるだけだった。
 叩くのをやめて彼に寄りかかると、彼はびくっと一瞬震えるも、すぐに私の体に手を回して抱き寄せてくれた。
 久しぶりの彼の温かさが、こんな状況になるとは思っていなかった。

 ――でも、この温かさを逃すなんて、したくない。

 夫は私のことを突き放そうとしているけど、私は夫のことを突き放すなんてごめんだ。
 夫婦の体裁とか、神に誓ったとかはもうどうでもいい。
 彼が不治の病にいるのなら、彼が治るまで治療の手立てを探したいし、不幸にも見つからななかったとしたら彼が最後まで幸せに過ごせるようにしてあげたい。

「旦那様……私――」
 意気込んで顔をあげた瞬間、執務室の扉がノックされた。「旦那様、お時間です」という声は侍女長のものだ。

「わかった。すぐ向かわせる」

 夫は扉の向こうに合図をしてからこちらを見下ろし、眉尻を下げた。まるで名残惜しいとでもいうように。

「馬車を手配した。荷物もすでにすべて載せてある。これで、公爵家に帰ってくれ」
「そ、そんな……!」

 あまりに突然すぎて、言葉にならない。

「嫌です! どうしてそんな!」
「俺は!」

 夫が声を荒らげる。
 びっくりして押し黙ると、彼は私の体を再び抱きしめた。しっかりと筋肉がついた腕で強く抱きしめると苦しいが、彼の震えが伝わってきて、心のほうが苦しくなる。

「あなたを愛しているからこそ、幸せになってほしいんだ……」
「わ、私は幸せです!」

 私は幸せものだ。
 こんなに夫に思ってもらえているし、子供には恵まれなかったけれど、義母や義妹はとても仲良くしてくれた。
 むしろ、家族のぬくもりを教わった私のほうが、夫に返してあげないといけないはずなのに。
 しかし夫はかぶりを振った。

「当主が不在になった貴族家の行く先が明るくないのは、君も知っているだろう」
「……」
「この国では、女当主は認められていない。女性しかいない家はすぐに爵位を剝奪されて、元の爵位にも戻れず平民となってしまう」
「あなたと最後まで一緒にいられるのなら! 平民になったとしても――」
「俺が許せないんだ」

 低い声で私の言葉に被せると、夫は私の体に回した腕に力を込めた。

「本当なら、老人になるまで君と生きて、君を見送ってから逝きたいと思っていた。君に苦しい思いは一つもさせたくないし、寂しい思いもさせたくない。ずっと笑っていてほしいし、ずっと楽しく生きてほしい」

 一息でそこまで言って、夫はふう、と深呼吸する。

「平民になった貴族は平民からとくに敬遠される。職に就くことは難しいし、社会の中に溶け込むことも難しい。そんな状況に君を向かわせるなんて……」

 俺が許せないんだ、と夫は噛みしめるように言った。

「なら、お義母様やアイリーンちゃんはどうするんですか」

 アイリーンとは、夫の妹、つまりは私の義妹だ。まだ成人までは時間がある。私がいなくなったところで、お義母様と義妹の二人になってしまったら、行く先は同じのはず。
 すると夫は「二人についても、策を講じてある」と告げた。

「母とアイリーンも、この数日中に北の辺境のほうにいる親族のもとに移る。とはいえ向こうも爵位は男爵だからあまり裕福な暮らしは臨めないだろうが、ここに居続けるよりかはマシだ」
「なら私もそっちにいったほうがいいじゃないですか。私だって男爵家の一員です!」

 ついつい語気が強くなってしまう。だって、私だけ仲間はずれみたいだから。
 でも、彼が言いたいことにはもう見当がついていた。

「君には、生家である公爵家に戻ってほしい。そのほうが、この先進む道の選択肢がたくさんある。すでに、公爵閣下と夫人には許可をいただいた」

 そう言うと思っていた。
 反論しようと思って口を開こうとしたものの、出てきたのはしゃくり声だけだった。
 夫なりにとても考えてくれたのだろう。
 たしかに男爵家と公爵家なら、どう考えても公爵家のほうが今後の行く先に選択肢はあるだろう。
 離縁した経歴は残るけれど、公爵家であれば再婚はできる。
 生家は公爵家としてとても裕福だから、実家でお父様やお母様を助けながらゆったり生きることもできる。
 男爵家でもできるか否かと言われたらできはするが、男爵家に嫁ぐでもしない限り結婚はもう望めなくなるし、ゆったり生きられるほどの余裕はないことのほうが多い。
 理屈ではわかっている。
 今離縁して公爵家に戻って別の貴族と結婚したほうが、この先の障害が少ないことは。

「……っ、でも、……嫌です……!」

 今度は私が腕に力を込める番だった。

「あなたと……離れたくない……!」
「…………」

 夫は黙ったまま、私の頭をぽんぽんと撫でていた。


「いけない。このままではずっと引き留めてしまうな」

 泣きじゃくりながら夫を抱きしめてどれくらい経ったのだろう。
 ふいに夫はそう言うと、私の体をゆっくりと離した。
 最後の抵抗として夫にしがみついていたけど、すぐにはがされてしまった。

「さぁ、外で馬車が待っている」
「……嫌です」
「君は本当に頑固だな……」

 少し呆れた風に呟いて、夫は私のドレスのしわを伸ばしていく。
 こういう、細かなところにまで気がきく彼のことがとても好きだった。
 優しく声をかけてこちらを慰めてくれることも好きだったし、いつだって真面目なところも、たまに我が儘で頑固なところも、大好きだった。
 夫は私の手を持ちエスコートをすると、執務室から出る。
 ゆっくり歩く私に気づいて「ふはっ」と笑うと、歩調を合わせてくれた。

「この絵画は、君が最初にこの家に来た時に、褒めてくれたものだったな」
「2階に下りる階段から、君とアイリーンが遊んでいるのをよく見たよ」
「そうだ、食堂で昼食を用意させているから、馬車の中で食べるといい。1階に下りたら、まずそっちに行こう」

 ただの他愛のない思い出話。
 でも、どんどん終わりが近づいていく。
 ……嫌だ、終わりたくない。

「…………ヘレン?」

 ついに私は、歩を止めた。
 必死に立ち止まる理由を探して、不思議そうにする夫をじっと睨む。

「どうして」
「ん?」
「どうして最近、私を避けていたのですか」

 せっかく最後は笑顔で楽しくいきたかったのに、なぜか喧嘩腰になってしまった。
 夫は申し訳なさそうに肩をすくめる。

「この痣が、君に伝染(うつ)らないか心配だったんだ。だから医師に問題ないと診断してもらうまで、なるべく距離を開けようと思ってな」

 そして、そうしたら不治の病だったってわけだ。と自嘲気味に笑った。

「君に伝染る心配がないのは安心したよ」
「旦那様のそういうところ、私とても好きです」
「……ありがとう」

 本当に、そういう自分よりも私を優先してくれるような真面目なところに惹かれていた。
 照れるときに、ふいと少し視線を逸らして鼻をかくところも、可愛くて好きだった。
 彼が手を引っ張って優しく促すものだから、最後の悪足搔きはすぐに終わり、ついにエントランスホールに着いてしまった。
 決して豪奢ではないけれど木製の両開きの扉を開けると、数台の大きな馬車が待機している。そこに描かれた家紋は、私の生家である公爵家のものだった。

「ヘレンさん……こうなってしまって、ごめんなさいね」
「お義姉さま……」
「お義母様、アイリーン……」

 玄関では、義母と義妹が待ってくれていた。
 義母が近づいてきて、ぎゅっとハグを交わす。

「息子の頑固さには、参っちゃうわね」
「もう本当に。お兄さまったら」
「……ふふっ」

 義母と義妹は冗談めいて言う。
 とはいえ、すべて夫から事情は聞いているはず。自分の息子・兄が不治の病に侵されると知った時、きっと私よりも絶望の淵にいたに違いない。

「アイリーン、もし王都に来ることがあったら、いつでも公爵家に遊びに来てね」
「うん! お義姉さま!」

 アイリーンともハグをする。
 明るく振る舞う義妹はまだ小さいから、もしかしたら夫の事情を詳しくは聞いていないかもしれない。
 それでも、いつか知ることになるだろうから、その時は全力でフォローしてあげたい。
 名残惜しいままに二人から離れて、夫のエスコートで今度こそ外に出る。
 馬車の扉がゆっくりと開く。
 ステップを踏み彼の手を離そうとしたけれど、強い力で掴まれて離れない。

「……旦那様?」

 見ると、彼は眉間に軽くしわを寄せて、口角を上げていた。
 まるで、泣きそうなのをこらえているような――

「いままでありがとう、ヘレン」
「……っ!」
「俺は、とても幸せものだった」

 本当にこれが最後という実感が急に湧いてきて、視界が一気に潤む。
 最後だからちゃんと夫の顔を見たいのに。最後だからちゃんとした姿を夫に見せたいのに。
 でもまったく我慢できなくて、ぽろぽろと涙が目尻からあふれでていく。

「私、も! とても、幸せでした」

 そう言うので精一杯で、あとは彼をじっと脳裏に焼き付けるように、じっと見つめることしかできなかった。
 互いの手が、互いの温もりを確かめるように触れ合う。

 ――離れたくない。

 でも、ついにその時が来てしまった。
 ゆっくりと、互いの手が重なる場所が少なくなっていく。
 寂しい。
 悔しい。
 悲しい。
 いろいろな感情が心の中を掻き混ぜる中、夫が静かに口を開いた。

「あなたのこれからの幸せを、心から願っている」

 一筋の雫が、夫の頬を伝う。
 そして、完全に手が離れた。


 その後馬車は、静かに男爵家をあとにした。
 見えなくなる最後の最後まで、夫は気丈そうにこちらに手を振っていた。
 結局、馬車の中に入ってからの私は、化粧が崩れてしまうくらい泣いてしまって、夫が最後に見る姿にはふさわしくなかったかもしれない。
 でも、彼の最後の笑顔は見られたから、よしとしよう。

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