幼馴染への三度目の失恋を回避したい ――激重な片思いを隠さなくなってきた彼に、心臓がもたなくなってきた彼女。
 ◇

 週が明け、いよいよ今週末が文化祭だ。

 じっとりと湿気を帯びた朝の空気が、肌に纏わりついてくる。
 家でも通学中も、常に両耳へイヤホンを突っ込み、文化祭で歌う曲を繰り返し流し続けていた。

(ここはこう息継ぎをするのか)
(このフレーズはもう少しこう歌ってみよう)

 ボーカルの声を集中して聴き込み、頭の中でシミュレーションを重ねていく。


 学校に着き、下駄箱へと足を踏み入れた。

 ゴム底の靴が擦れる音と、少し埃っぽい匂いが漂う中、ある姿が視界に入った。
 他クラスの下駄箱の隅でうずくまっている、小さな背中。

(あれは……)

 見覚えのある、まっすぐと長い黒髪。
 イヤホンを片方だけ外して、静かに近づき、その細い肩をトントンと叩いた。

「……由利さん?」

 声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、僕に気づいた。

 振り向いた顔を見て、思わず眉をひそめる。
 色白の彼女の肌は、血の気が引いて真っ青になっていたのだ。

「どうした? 大丈夫?」

 屈み込んで尋ねると、由利さんは力なく首を横に振った。

「……朝、電車混んでて酔っちゃって。あと、少し貧血で……」

 消え入るような声で言って、額を押さえた。

「あー……」

 それを聞いた瞬間、彼女の辛さが痛いほど理解できた。

 乗り物酔いのあの逃げ場のない吐き気と、頭から血の気が引いていく感覚。
 もし僕が自転車や徒歩ではなく、満員の電車通学だったなら、同じ目に遭っていたかもしれない。
 自分自身の体質と重なり、強烈な同情が湧き上がる。

 由利さんの横に置かれていた、重そうなスクールバッグをひょいと拾い上げた。

「立てる?」

 彼女の目の前に、スッと手を差し出す。

 由利さんは少し躊躇いながらも、震える冷たい指先で、僕の手にそっと掴まった。
 ゆっくりと立ち上がらせると、ふらつく彼女の歩幅に合わせ、保健室へと続く廊下を歩き出す。

 すれ違う何人かの生徒たち――中には顔見知りもいた――が、僕たちにチラチラと好奇の視線を向けてきたけれど、そんなものは特に気にしていなかった。

 ◇

 保健室の引き戸を開けると、消毒液のツンとした清潔な匂いと、冷房の効いたひんやりとした空気に包み込まれる。
 奥から出てきた養護教諭の先生に事情を説明し、彼女を受け渡した。

「あらあら、顔色が悪いわね。暑さのせいもあるかもしれないから、とりあえずこれ飲んで」

 先生が紙コップに注いでくれた冷たい水を、由利さんは両手で受け取り、一口、二口と飲み込んだ。

 しばらくすると、彼女は強張っていた肩の力が抜け、呼吸も少し落ち着いたように見えた。

「ちょっと休んでいきなさい。あなたも、連れてきてくれてありがとね」

 先生の言葉に、「いえ」と短く返す。

 ベッドに向かおうとする由利さんの背中に、声をかけた。

「じゃあ、お大事に。今日の昼休みの練習は無理すんなよ」

 そして、保健室を出ようとしたとき。

「あの……っ」

 背後から弱々しい声が飛んできて、振り返る。

 由利さんは、まっすぐに僕を見つめていた。
 顔色は青白いままだけれど、その黒い瞳には、はっきりとした光が宿っている。

「……ありがとう」

 小さな、けれど芯のある響きだった。

「……おう」

 それに少しだけ驚きながらも、短く手を上げて応え、静かに保健室を出た。
 扉の向こうの冷気を背に受けながら、教室へ向かった。
< 36 / 121 >

この作品をシェア

pagetop