銀色の雲の上

第35話 退学処分

―――……特権階級の子息が集められたギムナジウム、それは貴族社会の縮図そのものであった。

特別な階級の出自であるが故に、子どもたちは育ってきた環境に共通点も多く、分かり合えることも多い。

しかし、実情は、シビアな階級制度が横たわっている。

ゆくゆく特権階級同士の卒業後の人脈を強固にしておく意図も含まれるため、気の合わない奴とも計算高く付き合っておかなくてはならない。

物事をあまり気にせず、時に物事を強引に推し進めるアレクサンダーも、爵位など家系的な立場がどこに位置するか微細に反映された人間関係を、まったく無視して過ごしてきたわけではない。
己の身の振り方で、家系の存続に関わるようなことがあってはならないからだ。
散々やってきた悪戯でさえ、―――実際、監獄部屋で済んだのは奇跡であったが――許容される境目を自分なりに見極めてきたつもりだ。

アレクサンダーは元来、人が好きな性分だ。

大人たちから悪ガキと呼ばれようとも、友人たちのことは大事にしてきた。

ギムナジウムは九年制であるからして、入学から卒業するまで、同じ仲間と過ごすことになる。
アレクサンダーも、見えない上下関係を意識しつつ、級友たちとは喧嘩したり仲直りしたりして、良好に過ごしてきた。

あの出来事(・・・・・)が起きたのは、第七学年(ゼクンダ)も終わりに差し掛かっていた夏の頃だ。

アレクサンダーと同じ学年に、ハインリヒ・フォン・ベデカーという生徒がいた。

ハインリヒは帝国の高級将校の息子であった。
彼は、体つきががっしりとして運動神経が良く、性格的にも度胸のある軍人の子らしい生徒だ。

力試しで時折一緒にじゃれ合いながら、羽目を外すのが好きで要領の良いアレクサンダーと、正義感が強く真面目なハインリヒとでは、親友というほどつるむ仲でもなく、つかず離れずの関係だった。

ある日のこと、食堂で夕食を済ませたアレクサンダーは、試験勉強に取り掛かろうとしたところで、しまった、と気がついた。

数学の勉強に必要な教材を、まるまる教室に置き忘れてきた。

「げえ、めんどくせえ」

思わず声が漏れる。

いつもなら級友たちに借りれば済むが、進級前試験で誰も人に貸す余裕などない。

教室まで取りに行くか、とアレクサンダーは渋々決断した。

「点呼までには戻ってくる」

同室の寮生たちに声をかける。

ギムナジウムの校舎は寄宿舎と同じ敷地内にある。
階下まで降りて寄宿舎の管理人に声をかけ、建物の外に出た。

空を見上げると、夏の空には明るさが残っている。夕方は涼しい。

校舎の外から守衛室の窓を覗くが、肝心の守衛は席を外しているようだ。
いつ戻って来るか分からない。

「諦めて、寄宿舎に戻るかなあ」

アレクサンダーは、うーん、と考える。

試しに鍵のかけられていない窓を探してみるが、どれもぴっちりと閉じられている。

校舎の周りをウロウロと歩き回っていた、その時のことである。

「…前みたいな…劣等種がい…と……帝国の足手ま…いなんだよ」

どこからかボソボソとくぐもった人の声が聞こえてきた。

(『お前みたいな劣等種がいると、帝国の足手まといなんだよ』?)

つなぎ合わせた不穏な言葉に、不審に思いながらキョロキョロと辺りを見回すと、茂みの陰にハインリヒとオットーがいるのが目に飛び込んできた。
ハインリヒに胸ぐらを掴まれたオットーは、顔中が鼻血まみれになっている。

「ゆ、許して……、ハインリヒ」

懇願するオットーの顔面に、ハインリヒがさらに重い一撃を食らわせた。

「おい!」

目の前のあまりの光景に、アレクサンダーはすぐさま茂みを掻き分け、駆け寄った。

その間にも、ハインリヒはオットーの顔を無惨にも殴打している。

アレクサンダーは、筋肉質でがたいの良いハインリヒを、背後から全力で羽交い絞めにした。

「やめろ、死ぬぞ!」

「ああ、アレクサンダー」

ハインリヒは、その時初めてアレクサンダーに気づいたような表情(かお)で、羽交い締めにされたまま振り向いた。

ハインリヒの手からこぼれ落ちるようにして、ドサッとオットーがその場に崩れ落ちる。

ハインリヒの背後からオットーを覗き込んだアレクサンダーは、戦慄した。

眼鏡が歪み、白目をむいて痙攣している。

「すぐに大人を呼……」

言いかけたところで、顔面に思いきりハインリヒの殴打を食らった。

「っ……てぇ」

「俺はこいつを鍛えて(・・・)やっているんだ」

ハインリヒは野獣のように低くくぐもった声で答えた。

「ハインリヒ、お前、いったい何を言っているんだ……?」

オットーは小柄で運動は苦手、成績もビリの生徒だ。
しかし、水準の高いこのギムナジウムで、彼も必死についていこうとしていることを、アレクサンダーは知っている。

そんなオットーの気を失わせるまで殴りつけておいて、鍛えている(・・・・・)とは、いったいどういうことなのだ。

アレクサンダーはゾッとした。

早く教師たちを呼んでこないと、そう思っている間にも、力の強いハインリヒはアレクサンダーの制止をもがいて振りほどこうとしている。

そのうち、興奮したハインリヒが咆哮を上げ始めた。

正気の沙汰ではない。

「目を覚ませ、ハインリヒ」

アレクサンダーは気がつくと、ハインリヒの胸ぐらを思いきり掴み、顔面を無我夢中で殴りつけていた。

鈍い音がして、ハインリヒの真っ白いシャツに赤い鼻血が飛沫となって飛び散る。

ハインリヒはむくりと起き上がったかと思うと、アレクサンダーにおもむろに掴みかかってくる。
二人は決死の取っ組み合いになった。

殴り合い、組み伏せ、地面に打ちつけられ、上に下にと散々もつれ合った挙句、ついにハインリヒは気を失った。
アレクサンダーにボコボコに殴られ、顔やシャツを血まみれにして。

アレクサンダーも、ハインリヒによって全身ボロボロになっていた。

アレクサンダーは体を引きずるようにして、教師を呼びに行った。


―――……その一週間後、アレクサンダーは退学の処分を言い渡された。

「アレクサンダー・フォン・ゲルステンビュッテル君。
君は我が校が誇る優秀な生徒だった。
君の退学は、こちらとしては苦渋の処分であることを理解してもらいたい」

学校長は心苦しそうに、そう言った。

審問の際に対面したハインリヒの父は、息子の行為について、「あの子は鍛錬(・・)したに過ぎない」と冷たく笑っただけだった。

ベデカー家は高級軍人であるだけでなく、爵位を持ち合わせている。
大人が明言しなくても、それぞれの家の階級を照らし合わせた結果、ベデカー家へ配慮の軍配が上がったのだろうことが察せられた。

アレクサンダーは、興醒(きょうざ)めした。

今回の暴行は、単なる喧嘩ではない。
彼を止め、オットーを助けるためにやったことだ。

事実、アレクサンダーが偶然にも通りかからなければ、オットーはどうなっていたか分からない。

酒だの煙草だので処分を受けたほうが、よっぽどマシだと思った。

しかし、アレクサンダーはギムナジウムの決定に従うしかないのだった―――……。
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