銀色の雲の上
第6話-2 居場所
―――……アレクサンダーに素っ気なくしていれば、そのうち話しかけてこなくなるはずであったが、どういうわけか、彼はしばしばミハエルに話しかけてきた。
「うっす。おはよう、ミハエル」
「おはよう……」
毎朝アレクサンダーは、必ずミハエルの席までやってきて挨拶をする。
ミハエルは先に登校して歴史の教科書に目を通していた。
「寒いな」
「……そうだね」
ミハエルは努めて素っ気なく答える。
教室にはまだストーブに火が入れられていない。
最近、朝夕は特に冷え込んで、教室の中も寒々しい。
アレクサンダーはミハエルの素っ気ない態度に気にも停めない様子で、
「課外読書はもう全部読み終わったか?」
「まぁ……」
「早いな。俺はこれからだぜ」
「そう」
ミハエルはなおも不愛想に答える。
声の調子でこれ以上話しかけるなと匂わせている。
ミハエルの態度に、これ以上会話が続かないことをやっと悟ると、アレクサンダーは諦めて他の級友のもとへ去っていった。
アレクサンダーが編入して以来、毎日このようなことが続いている。
(どういうつもりなんだ)
ある時は「課題をやってきたか」だとか、またある時は「趣味はなんだ」とか、他にはアレクサンダーの登校中の出来事を話し始めたりだとか、他愛もないことを話しかけてくる。
会話のきっかけをつかもうとしているのがありありと分かるが、ミハエルはすべて適当に相槌を打って終わらせてしまう。
にも関わらず、次の日も、その次の日も、アレクサンダーは挫けず声をかけてくる。
根気強いというのかなんなのか、ミハエルにとっては最早、煩わしいだけである。
(詮索されるのは、嫌いだ)
アレクサンダーには申し訳ないが、彼が向こうに行ってしまうと、内心ホッとするのであった。
(それに)
ワイワイと級友たちと楽しそうに話すアレクサンダーを背中越しに感じながら、ミハエルは思う。
(やっぱり、僕が泉で出会った少年だということは、知られるべきではない)
アレクサンダーがこの教室で輝けば輝くほど、ますますその思いが強まった。
彼の性格の明るさをこちらに向けられるたびに、自身の抱える闇の深さが照らし出される思いがした。
アレクサンダーは教室の後ろで級友たちとじゃれ合い始めた。
格闘で、もみくちゃになっている。
級友たちがどんなに盛り上がったところで、ミハエルは振り向かない。
「生徒諸君、おはよう」
担任教師が朝の挨拶をしながら、元気よく教室に入ってきた。
気がつくと、始業の鐘が鳴り始めている。
生徒たちは、急いで席に着いた。
ミハエルは歴史の教科書を閉じると、授業のために姿勢を正した。
*
一日の授業が終わると、ミハエルはいつもさっさと帰宅する。
ポケットから鍵を取り出し、錠を開けた。
カーテンを閉め切ったままの部屋の中は、まだ日が暮れる前だというのに穴蔵のように暗く、シンと静かである。
ミハエルは、書机の上のマッチ箱を冷えた手で探り出すと、ランプに火をつけた。
パッと書机の周りが明るくなる。
ギムナジウムの帰り道、空の高いところに刷毛でサッとはいたような雲がたなびいていた。
秋も深まり、しんみりとした空気に覆われる季節だ。着るものを暖かく気をつけていれば気持ちの良い季節である。
それと同時に、少しずつ冬が近づいてくるのを感じる。
ミハエルは家に辿り着いて、やっと全ての緊張から解放された。
外では、自分がちゃんと男性に見えているか神経を張り詰め、教室ではゲオルグや他の生徒たちとの関係に気を揉み、街路を歩くときでさえ気を抜けない。
家に帰ることにはヘトヘトだった。
部屋の中で、やっと肩の力を抜くことができるのだ。
しかし今度は、穴蔵のようなこの空間で、閉鎖的な夜を過ごさなくてはならない。
ミハエルは鬱屈とした気分を脇に押しやりながら、外と対して気温の変わらない部屋に、暖炉の火を焚べ始めた。
数日前に暖炉の炉を開いたが、正直、一人で火の管理をするのは面倒だ。
薪を使い込んだところで咎められるわけでは無いが、何かと管理に気を遣わなければならない。
薪の大小でどのくらいの長さ部屋を暖められそうか頭の中で計算してみたり、熾火にしてみたり、火を焚き直す作業や灰の管理まで含めると、時間も神経も消耗する。
とはいえ風邪をひいてしまっては元も子もない。毎日せっせと管理するしかない。
ミハエルは炉の上に薪を組んで、枯葉に火をつけた。
小さな火がじわじわと薪に燃え移っていく。
見守っているうちに、部屋の中もじんわりと暖かくなっていく。
徐々に大きくなる炎で指先を温めながら、ミハエルは思いのほか自分の体が冷えていたことに気づく。
(明日からは手袋をつけて行くか)
寝台の足元の衣装タンスに目をやる。
(それに、外套も)
寝台の足元の壁際に置かれている衣装タンスには、手袋が一組と、秋の初めにあらかじめほつれや虫食いがないか確認しておいた外套がかけてある。
しばらくして完全に部屋が暖まると、ミハエルはようやく落ち着いた気分になった。
カーテンをめくって窓の外を覗いてみると、外はまだ明るく、雲が陽に照らされていた。
これから毎日少しずつ日が短くなっていくことだろう。
覗いた窓のその先には、温かな燈火をたたえた本宅があった。
(あの温もりに、僕も触れることができたら)
そっと窓に手を伸ばす。
氷のように冷たい窓ガラスに指先が触れて、思わず手を引っ込める。
ミハエルは瞼を閉じた。
(仕方がない)
自分で自分のことをこの場所に追いやったようなものなのだから。
ミハエルは寂寥感をごまかすように、部屋の方に向き直った。
気を取り直して勉強に取り掛かることにする。
鞄から教科書とノートを取り出して、書机の上に広げた。
問題を解き始めると、次第に余計な思考から遠のいていった。
苦しいときは、勉強に集中するに限る。
頭の中を活字や数式でいっぱいにしていれば、辛い現実など感じなくて済むのだから。
「うっす。おはよう、ミハエル」
「おはよう……」
毎朝アレクサンダーは、必ずミハエルの席までやってきて挨拶をする。
ミハエルは先に登校して歴史の教科書に目を通していた。
「寒いな」
「……そうだね」
ミハエルは努めて素っ気なく答える。
教室にはまだストーブに火が入れられていない。
最近、朝夕は特に冷え込んで、教室の中も寒々しい。
アレクサンダーはミハエルの素っ気ない態度に気にも停めない様子で、
「課外読書はもう全部読み終わったか?」
「まぁ……」
「早いな。俺はこれからだぜ」
「そう」
ミハエルはなおも不愛想に答える。
声の調子でこれ以上話しかけるなと匂わせている。
ミハエルの態度に、これ以上会話が続かないことをやっと悟ると、アレクサンダーは諦めて他の級友のもとへ去っていった。
アレクサンダーが編入して以来、毎日このようなことが続いている。
(どういうつもりなんだ)
ある時は「課題をやってきたか」だとか、またある時は「趣味はなんだ」とか、他にはアレクサンダーの登校中の出来事を話し始めたりだとか、他愛もないことを話しかけてくる。
会話のきっかけをつかもうとしているのがありありと分かるが、ミハエルはすべて適当に相槌を打って終わらせてしまう。
にも関わらず、次の日も、その次の日も、アレクサンダーは挫けず声をかけてくる。
根気強いというのかなんなのか、ミハエルにとっては最早、煩わしいだけである。
(詮索されるのは、嫌いだ)
アレクサンダーには申し訳ないが、彼が向こうに行ってしまうと、内心ホッとするのであった。
(それに)
ワイワイと級友たちと楽しそうに話すアレクサンダーを背中越しに感じながら、ミハエルは思う。
(やっぱり、僕が泉で出会った少年だということは、知られるべきではない)
アレクサンダーがこの教室で輝けば輝くほど、ますますその思いが強まった。
彼の性格の明るさをこちらに向けられるたびに、自身の抱える闇の深さが照らし出される思いがした。
アレクサンダーは教室の後ろで級友たちとじゃれ合い始めた。
格闘で、もみくちゃになっている。
級友たちがどんなに盛り上がったところで、ミハエルは振り向かない。
「生徒諸君、おはよう」
担任教師が朝の挨拶をしながら、元気よく教室に入ってきた。
気がつくと、始業の鐘が鳴り始めている。
生徒たちは、急いで席に着いた。
ミハエルは歴史の教科書を閉じると、授業のために姿勢を正した。
*
一日の授業が終わると、ミハエルはいつもさっさと帰宅する。
ポケットから鍵を取り出し、錠を開けた。
カーテンを閉め切ったままの部屋の中は、まだ日が暮れる前だというのに穴蔵のように暗く、シンと静かである。
ミハエルは、書机の上のマッチ箱を冷えた手で探り出すと、ランプに火をつけた。
パッと書机の周りが明るくなる。
ギムナジウムの帰り道、空の高いところに刷毛でサッとはいたような雲がたなびいていた。
秋も深まり、しんみりとした空気に覆われる季節だ。着るものを暖かく気をつけていれば気持ちの良い季節である。
それと同時に、少しずつ冬が近づいてくるのを感じる。
ミハエルは家に辿り着いて、やっと全ての緊張から解放された。
外では、自分がちゃんと男性に見えているか神経を張り詰め、教室ではゲオルグや他の生徒たちとの関係に気を揉み、街路を歩くときでさえ気を抜けない。
家に帰ることにはヘトヘトだった。
部屋の中で、やっと肩の力を抜くことができるのだ。
しかし今度は、穴蔵のようなこの空間で、閉鎖的な夜を過ごさなくてはならない。
ミハエルは鬱屈とした気分を脇に押しやりながら、外と対して気温の変わらない部屋に、暖炉の火を焚べ始めた。
数日前に暖炉の炉を開いたが、正直、一人で火の管理をするのは面倒だ。
薪を使い込んだところで咎められるわけでは無いが、何かと管理に気を遣わなければならない。
薪の大小でどのくらいの長さ部屋を暖められそうか頭の中で計算してみたり、熾火にしてみたり、火を焚き直す作業や灰の管理まで含めると、時間も神経も消耗する。
とはいえ風邪をひいてしまっては元も子もない。毎日せっせと管理するしかない。
ミハエルは炉の上に薪を組んで、枯葉に火をつけた。
小さな火がじわじわと薪に燃え移っていく。
見守っているうちに、部屋の中もじんわりと暖かくなっていく。
徐々に大きくなる炎で指先を温めながら、ミハエルは思いのほか自分の体が冷えていたことに気づく。
(明日からは手袋をつけて行くか)
寝台の足元の衣装タンスに目をやる。
(それに、外套も)
寝台の足元の壁際に置かれている衣装タンスには、手袋が一組と、秋の初めにあらかじめほつれや虫食いがないか確認しておいた外套がかけてある。
しばらくして完全に部屋が暖まると、ミハエルはようやく落ち着いた気分になった。
カーテンをめくって窓の外を覗いてみると、外はまだ明るく、雲が陽に照らされていた。
これから毎日少しずつ日が短くなっていくことだろう。
覗いた窓のその先には、温かな燈火をたたえた本宅があった。
(あの温もりに、僕も触れることができたら)
そっと窓に手を伸ばす。
氷のように冷たい窓ガラスに指先が触れて、思わず手を引っ込める。
ミハエルは瞼を閉じた。
(仕方がない)
自分で自分のことをこの場所に追いやったようなものなのだから。
ミハエルは寂寥感をごまかすように、部屋の方に向き直った。
気を取り直して勉強に取り掛かることにする。
鞄から教科書とノートを取り出して、書机の上に広げた。
問題を解き始めると、次第に余計な思考から遠のいていった。
苦しいときは、勉強に集中するに限る。
頭の中を活字や数式でいっぱいにしていれば、辛い現実など感じなくて済むのだから。