月を見上げる代わりに
「成瀬、今夜ちょっと月見に行かないか?」
思い切って誘った彼女は、デスクに広げた資料から顔を上げ、真ん丸な瞳を見開いて俺を見つめた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、何かを懸命に理解しようとしている。その様子は、意外な言葉を聞いた子どものように無垢だった。
(……やっぱり、誘い方がおかしかったか?)
内心で反省する。
自慢じゃないが、俺はこれまで女性に困ったことなど一度もなかった。俺の周りにはいつも人だかりができていたし、仕事の誘いもプライベートの誘いも、常に女性側からのアプローチだった。
「月見……ですか? えーっと、何かのお仕事ですか?」
それなのに……!
彼女の問いは、俺の思い上がった鼻を見事に叩き折った。
(……仕事? 月見を?)
「いや、違う。仕事じゃない」
少しだけ頬を引きつらせながらも否定する。
「えっ、じゃあ……なんですか? 突然のお誘いにびっくりして」
コテンと可愛らしく首を傾げる。その姿を見て愛らしいと思うくらいには、俺は彼女を気に入っている。
彼女―成瀬明花莉―は職場のマスコット的存在で、その天真爛漫な明るさは、老若男女問わず皆を惹きつけてきた。
ぼんやりした見た目に反して、仕事は驚くほど慎重で正確。おかげで、営業事務としての評価はいつも高い。
そんな彼女にも、ひとつだけ弱点がある。
常に空腹という強大な敵と戦っている「食いしん坊」なところだ。
彼女の引き出しにはいつもお菓子が詰まっており、彼女自身が食べるだけでなく、小腹を空かせた同僚たちが“給食係”と呼んで貰いに来ることも日常の光景になっている。
皆に囲まれ楽しそうに笑ってる彼女の姿は、いつの間にか、俺の視線の先にいるのが当たり前になっていた。
***
俺―久我悠月―は、どうやら見た目がいいらしい。
身長もそこそこ、営業成績も悪くない。だからか、女性にやたらとモテる。……断じて自慢ではなく、単なる事実だ。
けれど、好きでもない相手からのアプローチなんて、正直ありがた迷惑だ。そのせいで、いつの間にか女性に興味を失っていた。
そんな俺の考えは、成瀬とペアを組むようになって、初めて崩れた。
彼女は、俺のことを一切「恋愛対象」として見ていない。そのことに気づいた当初は戸惑い、演技かと勘繰ったほどだ。
だが、すぐに分かった。成瀬が本気で夢中になれるのは――『食』だけなのだということを。
それに気づいてからというもの、俺の方が彼女に興味を持つようになっていた。
彼女は、自分を「恋愛対象」としてではなく、単なる「同僚」「久我さん」として扱う。
時々、休憩中に彼女が引き出しから取り出すお菓子を「それ、一個もらえる?」とねだったりすると、満面の笑みで「どうぞ、久我さん!」と差し出す。
その時に見せる笑顔、美味しそうにご飯を頬張る無垢な顔、休憩中も仕事中も変わらない太陽のような明るさ――それら全部が、いつしか愛しくなっていた。
(本当に、太陽みたいな子だな)
俺の心の中で、彼女への好意は静かに育っていった。
「成瀬、この資料の誤字、また気づかなかったの? 営業の俺より慎重派なんだから、しっかりしてくれよ」
「えーっと……あ! すみません! お腹が空いて何食べようか考えてたから、書類のチェックが甘くなってたみたいです」
テヘッと笑う彼女を見ながら、社会人としてそれはどうなんだと思う反面、お腹が空いた時だけするケアレスミスも彼女の魅力の一つだと感じている自分に驚いた。
そして、その感情は「好き」という確固たるものに変わっていった。
***
俺はこれまで、自分から誰かを好きになったことがない。
……いや、正確に言えば、誰かを「好きになる」感覚すら分からなかった。もちろん、付き合ってもない相手をデートに誘うなんて、人生初だ。
(どうしたら、成瀬を誘える……?)
頭を悩ませる日々が続いた。彼女の気を引くために、少しだけからかってみたり、いつもより丁寧に仕事を教えたりもしたが、彼女の反応は——
「わー、久我さんがめずらしく冗談を!」
「ありがとうございます! 助かります!」
という、あくまで「可愛い後輩」としての反応のみ。
……いや、そうじゃなくて。もう少し違う反応を期待してたんだけどな。
そんな時、ふとカレンダーが目に入った。今夜は中秋の名月らしい。その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが閃いた。
(……これだ)
日本の伝統的な行事である「月見」を口実にすれば、恋愛経験が皆無に等しい(と本人が言っていた)彼女でも、警戒心なく誘いに乗ってくれるのではないか。
そう考えて、今日の終業間際に、冒頭のセリフを絞り出したのだった。
「……だから、仕事じゃない。今日は中秋の名月だろう? 月見でもどうかなと思って」
俺は、もう一度丁寧に説明した。普段は「声が落ち着いてて聞きやすい」と言われるのに、成瀬相手だと早口になる。情けないけど、仕方ない。
「ああ……なるほど、月見!」
成瀬の顔が、ぱっと明るくなった。彼女の表情は、一瞬の困惑から、期待に満ちた喜びに変わった。
「もちろんです! いいですよ!」
その「いいですよ」という、あまりにもあっさりとした返事に、俺は心の中でガッツポーズをした。これまでモテてきた経験とは全く違う、純粋な喜びが湧き上がってくる。
「ありがとう、成瀬。じゃあ…」
喜びを噛み締めながら、月が綺麗に見える場所の提案をしようとした瞬間、成瀬がキラキラと目を輝かせながら、身を乗り出してきた。
思い切って誘った彼女は、デスクに広げた資料から顔を上げ、真ん丸な瞳を見開いて俺を見つめた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、何かを懸命に理解しようとしている。その様子は、意外な言葉を聞いた子どものように無垢だった。
(……やっぱり、誘い方がおかしかったか?)
内心で反省する。
自慢じゃないが、俺はこれまで女性に困ったことなど一度もなかった。俺の周りにはいつも人だかりができていたし、仕事の誘いもプライベートの誘いも、常に女性側からのアプローチだった。
「月見……ですか? えーっと、何かのお仕事ですか?」
それなのに……!
彼女の問いは、俺の思い上がった鼻を見事に叩き折った。
(……仕事? 月見を?)
「いや、違う。仕事じゃない」
少しだけ頬を引きつらせながらも否定する。
「えっ、じゃあ……なんですか? 突然のお誘いにびっくりして」
コテンと可愛らしく首を傾げる。その姿を見て愛らしいと思うくらいには、俺は彼女を気に入っている。
彼女―成瀬明花莉―は職場のマスコット的存在で、その天真爛漫な明るさは、老若男女問わず皆を惹きつけてきた。
ぼんやりした見た目に反して、仕事は驚くほど慎重で正確。おかげで、営業事務としての評価はいつも高い。
そんな彼女にも、ひとつだけ弱点がある。
常に空腹という強大な敵と戦っている「食いしん坊」なところだ。
彼女の引き出しにはいつもお菓子が詰まっており、彼女自身が食べるだけでなく、小腹を空かせた同僚たちが“給食係”と呼んで貰いに来ることも日常の光景になっている。
皆に囲まれ楽しそうに笑ってる彼女の姿は、いつの間にか、俺の視線の先にいるのが当たり前になっていた。
***
俺―久我悠月―は、どうやら見た目がいいらしい。
身長もそこそこ、営業成績も悪くない。だからか、女性にやたらとモテる。……断じて自慢ではなく、単なる事実だ。
けれど、好きでもない相手からのアプローチなんて、正直ありがた迷惑だ。そのせいで、いつの間にか女性に興味を失っていた。
そんな俺の考えは、成瀬とペアを組むようになって、初めて崩れた。
彼女は、俺のことを一切「恋愛対象」として見ていない。そのことに気づいた当初は戸惑い、演技かと勘繰ったほどだ。
だが、すぐに分かった。成瀬が本気で夢中になれるのは――『食』だけなのだということを。
それに気づいてからというもの、俺の方が彼女に興味を持つようになっていた。
彼女は、自分を「恋愛対象」としてではなく、単なる「同僚」「久我さん」として扱う。
時々、休憩中に彼女が引き出しから取り出すお菓子を「それ、一個もらえる?」とねだったりすると、満面の笑みで「どうぞ、久我さん!」と差し出す。
その時に見せる笑顔、美味しそうにご飯を頬張る無垢な顔、休憩中も仕事中も変わらない太陽のような明るさ――それら全部が、いつしか愛しくなっていた。
(本当に、太陽みたいな子だな)
俺の心の中で、彼女への好意は静かに育っていった。
「成瀬、この資料の誤字、また気づかなかったの? 営業の俺より慎重派なんだから、しっかりしてくれよ」
「えーっと……あ! すみません! お腹が空いて何食べようか考えてたから、書類のチェックが甘くなってたみたいです」
テヘッと笑う彼女を見ながら、社会人としてそれはどうなんだと思う反面、お腹が空いた時だけするケアレスミスも彼女の魅力の一つだと感じている自分に驚いた。
そして、その感情は「好き」という確固たるものに変わっていった。
***
俺はこれまで、自分から誰かを好きになったことがない。
……いや、正確に言えば、誰かを「好きになる」感覚すら分からなかった。もちろん、付き合ってもない相手をデートに誘うなんて、人生初だ。
(どうしたら、成瀬を誘える……?)
頭を悩ませる日々が続いた。彼女の気を引くために、少しだけからかってみたり、いつもより丁寧に仕事を教えたりもしたが、彼女の反応は——
「わー、久我さんがめずらしく冗談を!」
「ありがとうございます! 助かります!」
という、あくまで「可愛い後輩」としての反応のみ。
……いや、そうじゃなくて。もう少し違う反応を期待してたんだけどな。
そんな時、ふとカレンダーが目に入った。今夜は中秋の名月らしい。その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが閃いた。
(……これだ)
日本の伝統的な行事である「月見」を口実にすれば、恋愛経験が皆無に等しい(と本人が言っていた)彼女でも、警戒心なく誘いに乗ってくれるのではないか。
そう考えて、今日の終業間際に、冒頭のセリフを絞り出したのだった。
「……だから、仕事じゃない。今日は中秋の名月だろう? 月見でもどうかなと思って」
俺は、もう一度丁寧に説明した。普段は「声が落ち着いてて聞きやすい」と言われるのに、成瀬相手だと早口になる。情けないけど、仕方ない。
「ああ……なるほど、月見!」
成瀬の顔が、ぱっと明るくなった。彼女の表情は、一瞬の困惑から、期待に満ちた喜びに変わった。
「もちろんです! いいですよ!」
その「いいですよ」という、あまりにもあっさりとした返事に、俺は心の中でガッツポーズをした。これまでモテてきた経験とは全く違う、純粋な喜びが湧き上がってくる。
「ありがとう、成瀬。じゃあ…」
喜びを噛み締めながら、月が綺麗に見える場所の提案をしようとした瞬間、成瀬がキラキラと目を輝かせながら、身を乗り出してきた。
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