【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
医療特集で久遠怜央を取材した日も、こんな匂いのする病院だった。

あの日の私は、正直かなり斜に構えていた。
編集部が欲しがっていたのは、若くて顔がよくて御曹司で名医、という、いかにも雑誌映えする記事だったからだ。

――またキラキラした持ち上げ記事か。

そう思いながら大学病院のロビーで待っていた私は、時間ぴったりに現れた本人を見て、最初の三秒で「感じ悪い」と思った。

長身、無駄のない白衣、すれ違うスタッフが次々頭を下げるのに、愛想笑い一つしない。
整いすぎた顔立ちのせいで余計に近寄りがたくて、こちらが名刺を差し出すより先に、彼はカルテから目を上げないまま言った。

「取材は三十分です。写真撮影はオペ後に五分だけ。患者の導線を塞ぐなら中止します」

挨拶より先にそれ。
私は心の中で眉をひそめた。

冷たい。
というか、感じが悪い。

けれどオペを見学して、私はすぐにそんな感想だけでは済まされなくなった。

見学窓の向こうで、彼は別人みたいだった。
いや、たぶんあれが本来の久遠怜央なのだろう。

十時間を超えた心臓手術の終盤、モニターの波形は不穏に揺れていた。
私なら立って見ているだけで足がすくむような状況で、彼だけが異様に静かだった。

「吸引」

「視野、もう少し」

「その角度だと弁輪を傷つける。持ち替えて」

「大丈夫だ。深呼吸して、次」

怒鳴らない。
でも甘くもしない。
ひとつひとつの言葉が、細いメスみたいに正確だった。

若い医師の手が震えた瞬間には、その手首を乱暴に払うのではなく、自分の指を重ねて角度だけを直した。
看護師さんが器具を渡すタイミングをわずかに外したときも、責める代わりに次の動きで吸収した。
容赦はないのに、無駄な感情もない。

生きるか死ぬかの場で、この人だけが一ミリもぶれない。

心停止しかけた患者さんの波形が戻ったとき、見学室にいた私まで息を呑んだ。
なのに彼は、奇跡を目の前で起こした人間みたいな顔をしなかった。
当たり前のように次の処置へ進んでいった。

あの手を見た瞬間、私は認めざるをえなかった。

この人は本物だ、と。

手術後の取材で、私はつい余計なことを口走った。

「すごいですね。神の手、ってこういう……」

彼は術帽を外しながら、こちらをまっすぐ見た。

「神はいません」

「……」

「いるのは、眠くても手を止められない医者だけです」

言い方。
本当に言い方。

私は喉まで出かかった反論を飲み込んで、代わりに無難な質問へ逃げた。

「患者さんやご家族を前にするときも、いつもそんなに冷静なんですか?」

「冷静でなければ説明できない」

「でも、不安な方にはもう少し柔らかい言い方のほうが……」

「事実を曖昧にするほうが不誠実です」

そこで会話はきっぱり終わった。
切れ味がよすぎて、こっちのメンタルが出血しそうだった。

そのときの私は、本気で思ったのだ。

医者としては本物。
でも人としては冷たくて感じが悪い。

そう、きっぱり思った。

けれど、その日の帰り際。
私は偶然、彼が患者さんの家族に術後説明をしている場面を見てしまった。

小さな面談室の中で、怜央は白板に心臓の図を描きながら、ひとつひとつ言葉を選んでいた。

「手術は予定どおり終わりました。ただ、ここから先の二十四時間が大事です」

「すぐに安心だとは言えません。感染、出血、不整脈、どれも起こり得ます」

「でも、今できることは全部やりました」

派手な慰めは一つもなかった。
大丈夫です、きっと助かります、そんな安い言葉は口にしない。
なのに、不思議と冷たくは見えなかった。

取り乱すご家族が同じことを何度聞いても、彼は面倒くさそうな顔をしなかった。
専門用語を言い換え、図を描き直し、最後には年配の女性が自分の言葉で状況を説明できるまで付き合っていた。

患者説明は、驚くほど誠実だった。

あの瞬間、私はこの人を尊敬した。
性格は冷たい。感じも悪い。恋人には絶対したくない。
でも医者としての誠実さだけは、本物だと思った。
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