【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
その記憶が、消毒液の匂いと一緒に、今の私の胸へ戻ってくる。
あの氷みたいな外科医が、今は患者として手術室の向こうにいる。

そのとき、遠くから、靴音が幾重にも重なって近づいてきた。

コツ、コツ、コツ——

迷いのない足音。
そして、目の前に現れたのは、明らかにこの場所に似合わない人たちだった。
黒いコート。上品な香水。整った髪。張り詰めた気配。
数人の男性が先導し、その中心に、背筋の伸びた年配の男女が歩いてくる。

「……怜央は?」

掠れた声。でも、命令のように強い。
看護師が慌てて駆け寄り、説明を始めた。

私は息を止める。

……久遠会長夫妻

ニュースで見たことのある人がいる。
写真でしか知らないはずの顔が、目の前で本物になっている。

そのとき、久遠会長夫妻のすぐ後ろを歩いていたひとりの男性が、私を見つけた。
スーツ姿で、眼鏡。冷静そうな目。

「あなたが……」

その男性が、私の前まで来て深く頭を下げた。

「怜央様を、助けてくださった方ですね。本当に、ありがとうございます」

私は立ち上がろうとして、ふらついた。

「い、いえ、私は……」

「——あなたがいなければ、息子は」

女性——会長夫人である怜央のお母様が、私を見つめる。

「……ありがとうございます。本当に……」

その目が潤んでいて、私はどうしていいかわからなくなった。
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