【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
編集長に、事情は最初に全部話した。
久遠怜央が私の夫であることも、仕事では旧姓を使いたいことも。

それでも編集長は笑って言ったのだ。

「身内だから書けないなら記者失格。身内だから甘く書くならもっと失格。桐生さん、書ける?」

だから私は頷いた。
書けるかどうかじゃない。書きたい、と思ったから。

取材先の久遠総合病院は、相変わらず白くて、忙しくて、時間の流れ方が少し違う。

案内された見学室のガラスの向こうで、怜央はもう術野の前に立っていた。
張りつめた空気、規則正しい電子音。
いつも、ここだけは別世界だ。

「吸引」

短い声が飛ぶ。

「そこじゃない。もう少し浅く」

「大丈夫、戻せる。次」

たったそれだけで、オペ室の流れが整う。
若い助手の手首が強張れば、怜央は怒鳴る代わりに、自分の指を重ねて角度だけを直す。
看護師さんが器具を渡すタイミングを半拍外しても、責めるのではなく次の一手で吸収する。

昔の私は、この静けさを冷たさだと思っていた。
医者としては尊敬できるが、性格は冷たい。
でも、今は違うとわかる。
これは迷いで人を死なせないための温度だ。
感情を削ぎ落としているのは、誰かを切り捨てるためじゃない。
目の前の命を、確実に生かすためだ。

手術は四時間を少し越えて終わった。
見学室を出た私が次に見たのは、術後説明の場で、家族へ向き合う怜央の横顔だった。

「無事に終わりました。ただし、今夜を越えるまでは油断できません」

大丈夫です、と簡単に言わない。
危険も、必要な管理も、隠さない。
そのうえで、家族が自分の足で前へ立てるように言葉を選んでいく。

「怖がるのは自然です。でも、怖いままでも今できることはあります。一緒に順番に確認していきましょう」

その声音は、オペ室の中より少しだけやわらかい。
でも、余計な馴れ合いは一つもない。
誠実だ。
徹底して、誠実だ。

そのあとすぐに行われた若手医師向けの振り返りカンファレンスも、見事だった。

ホワイトボードに術野の模式図を描きながら、怜央は今日の判断を一つずつ分解していく。

「うまくいった、で終わるな。どこで迷いを切ったのか、なぜここで待ったのか、それを言葉にできないと次は再現できない」

若い医師が緊張した顔で頷く。

最初の取材のとき、「奇跡ではありません」と言い切った人は、やっぱり今も同じ場所に立っていた。
ただ今は、その言葉の奥にある責任の重さまで、前より少しわかる。
< 107 / 113 >

この作品をシェア

pagetop