【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
「……なんで泣く」

怜央は困ったように眉を寄せて、でも、手を伸ばしてくるのは迷わない。
その指先が、梨音の頬の涙をそっと拭った。温度が、冷えた皮膚の上に落ちる。

「嬉しいだけ。ほんとに」

私が笑って言うと、怜央はふっと目を細めた。

「嬉しいなら、いい」

その一言が、たまらなく優しい。

嬉しいならいいって……そんなの、妻にしか言わない言い方じゃない?
嬉しい。たしかに嬉しい。こんなふうに大切にされるのが、怖いくらい嬉しい。
でも、嬉しい分だけ、胸の奥で別の感情が顔を出す。

嘘つき。私は嘘つきだ。

次の瞬間、怜央は私の首元に視線を落とした。
怜央は自分のマフラーを外す。上質なウールの黒。指先の動きが丁寧で、医師の手だと思う。

「ちょ、怜央さん、それは――」

「動くな」

短い命令。なのに怖くない。むしろ、守られている感じがするのが悔しい。

怜央は私の背後へ回り、マフラーをそっと首に回した。布が肌に触れる瞬間、ひやりとして、すぐに温かさが広がる。結び目を作る指が、喉元の少し下で止まり、微調整するように引く。
その距離が近い。
息が、耳の近くに落ちて、私の心臓が勝手に跳ねる。

……近い。近すぎる。

「……また倒れられたら困る」

怜央はそう言って、正面に戻った。口元に、微笑みがある。甘いのに、当たり前みたいな顔。

「どうして?」

梨音が聞き返すと、怜央は一拍、間を置いてから言った。

「俺の妻だから」

梨音は笑おうとして、うまく笑えなかった。代わりに、涙がぽろっと落ちた。

やめて。そんなふうに、当たり前に妻として扱わないで……。

首元に巻かれた温もりが、幸福の証みたいで。
そして同時に、嘘の重さみたいで。

私は――契約書。押したハンコ。振り込まれた金額。借金の返済予定。

期間限定の妻。

わかってるのに……。

怜央が、ふっと息を吐いた。

「……庭、冷えるな。戻ろう。君の手、冷たい」

そう言って、当たり前みたいに私の手を取った。

掌が重なる。温度が移る。
私は、手を離せなかった。
幸せで、苦しくて、どうしようもなくて。

暗い庭の石畳を、二人分の足音がまた並ぶ。その間に挟まれた私の胸の内だけが、ひとりで取り残されていく。

あなたの記憶が戻ったら、全部が終わる。
戻らなくても、契約期間が終わったら、終わる。
どっちに転んでも、私はあなたの隣にいられない。

なのに、今はあなたの手が温かくて、私の心は弱くて……。
――このまま、終わりを見ないふりをしてしまいそうになる。

ねえ、終わるとき、あなたは私を許してくれるのかな?
私は助けたかった。守りたかった。
――でも、お金も必要だった。

その全部を知ったとき、あなたの瞳は、私をどう映す?

怜央は何も知らない顔で、私の手を握り続ける。
その優しさが、私の罪悪感を、いちばん静かに育てていった。
< 57 / 113 >

この作品をシェア

pagetop