【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
《怜央視点》

退院してからの数日、俺は徹底して御堂を伝書鳩にした。

朝の食堂には、意図的に時間をずらして入った。
同じ卓につけば、たぶん平静ではいられない。
代わりに、彼女が使ったあとの席に残された食器で様子を知る。
スープは半分。パンは一口だけ。紅茶もほとんど減っていない。

「ひどい顔をしていますね」

後ろから来た御堂が、俺の視線の先を見て言った。

「顔じゃない。彼女の食事量だ」

「十分に顔の方が、ひどいです」

その日の昼には、料理長へメニューの変更を指示した。軽くても食べやすいもの、温かいもの、彼女が手をつけやすい量。
自分で本人に言いに行けないから、指示だけが増える。
滑稽だと思う。

仕事の中身を自分で選んだのも、結局は未練なのだろう。
編集プロダクションだけではなく、医療系媒体を混ぜたのは、彼女の書く文章を思い出したからだ。
奇跡と煽らず、努力を安く消費しない。
現場の怖さと、そこにいる人間の息遣いをきちんと残せる。
あの記事を読んだとき、珍しく「もう一度取材を受けてもいい」と思った。

だから、書く場所に戻してやりたい。
俺の隣ではなく、彼女自身の足で立てる場所へ。
そのほうがいいと信じたいのに、封筒を渡す役目まで御堂へ押しつけている時点で、まるで説得力がなかった。

「私は秘書であって伝書鳩ではないのですが」

御堂が真顔で抗議してきた。

「知ってる」

「知っていて使うんですね」

「お前が有能だからな」

「まったく嬉しくありません」

そう言いながらも、こいつはきっちり伝える。

一度だけ、夜更けの廊下で梨音が小さく咳をした音を聞いたことがある。
反射で足がそちらへ向きかけて、止めた。
代わりに御堂へ連絡して、暖房を一度上げさせ、生姜湯を部屋へ運ばせた。

あんなことをしておいて、まだ世話を焼くのかと自分でも呆れる。
白衣を脱いでまで医者でいるつもりはない。
だが彼女に関してだけは、どうしても線引きが甘くなる。
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