【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
《怜央視点》

数日後、俺は予定より早く白衣へ戻っていた。

手術室の空気は、いつだって余計なものを削いでくれる。
感情も迷いも、術野の外へ置いていける。

「メス」

器械出し看護師が半拍遅れずに渡す。
今日の症例は急性大動脈解離。少し判断を誤れば、心臓へ戻る血まで落ちる。若い助手の額には、開始前から薄く汗が浮いていた。

「落ち着いて。見えているものだけを追え」

低く言うと、助手は小さく頷く。

「ここから先は早い。吸引、弱く。視野を汚さないで」

声は冷たいほうがいい。
そのほうが、全員の手がぶれない。

迷いはない。
迷えば人が死ぬ。

「吸引。慌てるな」

自分でも驚くほど声は静かだった。
出血点を押さえ、追加の一針を入れ、流れを立て直す。
一秒遅れれば崩れる場でも、手だけは裏切らない。

「大丈夫。戻った。次、フェルト」

器械がすぐに渡る。
麻酔科医が圧の回復を告げる。
室内の空気が、ようやくもう一度呼吸を始めた。

チームの流れが噛み合った瞬間、世界は驚くほど静かになる。
手術は孤独な作業に見えて、実際は違う。誰か一人の技量ではなく、全員の精度の総和で患者は生きる。
ただ、その総和を乱さないために、先頭に立つ人間だけは、感情を切らなければならない。

俺が冷たいと言われるのは、たぶんそのせいだ。
それでいいと思ってきた。

けれど今は、その冷たさが術野の外にまで必要になっている。
必要だから使っているだけなのに、白衣の下では別の感情がうるさい。

心拍が安定したところで、ようやく一つ息を吐く。

「終了。ICUへ」

術後説明を終えて廊下へ出ると、遠くの壁際に、見覚えのある細い影があった。

梨音だった。

手には茶封筒。たぶん御堂に頼まれた書類だろう。
俺を見て、ほんの一瞬だけ足が止まる。

心臓が、手術中とは別の意味で嫌な音を立てた。

行くな、と理性が言う。
行け、ともっと厄介なものが言う。

結局、俺は立ち止まらなかった。
彼女のそばへ行けば、また声がやわらぐ。そうなれば、ここまで切った意味がなくなる。

視線だけで彼女の顔色を拾う。
寝不足は少しましだが、まだ痩せている。ちゃんと食べているのか、夜に無理をしていないか、そんなことばかりが先に浮かぶ自分に、呆れる。

そのまま通り過ぎた背中に、視線が刺さるのがわかった。
振り返らない。
振り返ったら、たぶん終わる。

執務室へ戻ると、机の隅に古い雑誌が置かれていた。
彼女が昔書いた医療特集だ。
何度読んでも、余計な脚色が少ない。現場への敬意がある。だから残した。

あの記事を書いた人間が、いま自分のせいでこんな顔をしている。
それだけで、白衣の内側がひどく重かった。
< 88 / 113 >

この作品をシェア

pagetop