【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
小書斎の机の上には、始まりの日と同じように書類と朱肉が整えられていた。
違うのは、あの日の私が怯えと困惑で座ったこと。
今日の私は、何を失うのか知ったうえで椅子に座ることだった。

「契約満了確認書です」

御堂がいつもの平坦な声で言う。
眼鏡の奥の目は相変わらず読みにくいのに、今日はいつもより少しだけ瞬きが多かった。

私は書類を最初から最後まで読んだ。
癖みたいなものだ。始まるときも、終わるときも、文章はきちんと読まないと気が済まない。

契約の終了。
守秘義務の継続。
報酬の支払い完了。
借入整理の終了確認。
紹介先企業への入社日程。

すべて整っている。
整いすぎていて、逃げ場がない。

「問題ありません」

そう言ってハンコを押した。
始まりの日の小さな音と同じはずなのに、今日は妙に乾いて聞こえた。

夫人が、そっと息を吐く。

「梨音さん……本当に、出ていくの?」

私は夫人を見た。
最初はただ申し訳なさそうに頭を下げていた人が、今は本当に心配そうな顔をしてくれている。
そのことが、ひどくありがたくて、ひどく痛い。

「はい」

自分の声が、思っていたよりちゃんとしていて少し驚いた。

「来週から仕事も始まります。会社の近くに部屋も借りました。借金も、父のぶんまで全部整理していただいて……もう、十分すぎるくらい助けてもらいました」

「助けたなんて」

夫人の目が潤む。
会長がその隣で、低く言った。

「君がいなければ、怜央はここまで立て直せなかった。礼を言うのは、こちらのほうだ」

その人らしい、まっすぐで不器用な言葉だった。
私は深く頭を下げる。

「……ありがとうございます」

御堂が、机の端に封筒を置いた。

「新居の契約書控えと、就職先の詳細です。何か不備があれば連絡を」

いつも通りの真顔で言われて、少しだけ笑ってしまった。
その瞬間、夫人まで目元を押さえながら笑う。

「御堂、あなたほんとうに不器用ね」

「昨夜、別れの場面が多い恋愛小説を三冊読みましたが、役に立ちませんでした」

「そこ、まだ勉強するんですね……」

こんなときなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
抜けたせいで、逆に泣きそうになる。

夫人が立ち上がって、私の手を取った。
もう指輪のない薬指を、見ないふりをするみたいに、やさしく包む。

「いつでも戻って来ていいのよ」

喉の奥が熱くなる。
でも私は、首を横に振った。

「……戻りません」

夫人が目を見開く。
会長も、何も言わずに私を見た。

私は、胸の奥でぐしゃぐしゃになっているものを、ひとつずつ言葉に変えた。

「ここに残る理由なら、たぶんいくらでも作れます。恩もあります。情もあります。たぶん、未練も」

そこで一度、息を吸う。

「でも、それを理由に居座るのは違うと思うんです」

誰も口を挟まない。
静かな部屋の中で、自分の声だけがやけにまっすぐ響く。

「……好きだからこそ、離れます」

言ってしまった。
でも、言った瞬間、妙にすっきりした。

「好きだから、これ以上あの人の優しさにも、あの人の責任感にも甘えたくないんです。契約を言い訳に、あの人の人生に居残りたくない」

夫人がとうとう泣いた。
会長は視線を伏せた。

私は黒いケースを、机の上へ置いた。

「これ、お返しします」

御堂の視線が、ケースに落ちる。
そのほんの一瞬だけ、睫毛が揺れた。

「……承知しました」

私は立ったまま、どうにか笑おうとした。
たぶん失敗していたと思う。

「最初にこれをいただいた日、重いなって思ったんです。金属の重さじゃなくて、役目の重さが」

「そうですか」

「でも、外すほうがもっと重いとは思いませんでした」

返事はなかった。
ただ、御堂の手がほんの少しだけ強く握られたのが見えた。

「最初は契約でした。でも、ここで過ごした時間まで契約だと思ったことは、一度もありません」

夫人が、ゆっくりと顔を上げる。

「せめて、最後に怜央に会って」

夫人は声が震えそうになるのを、どうにか堪えているようだった。

「あいつは、こんな大切な時に何をやっている!」

会長は苛立ったように低い声で言った。

「いいんです。会ったら、泣いてしまいそうだから……。仕事、無理をしないでくださいと伝えてください」

「あなたこそ」

それは、あまりにも御堂らしい台詞だった。
最後までそうなんだ、と思って、泣きそうになる。

「……お世話になりました。ありがとうございました」

深く頭を下げる。

「梨音さん」

夫人に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。

「新しい生活が、穏やかなものであるよう願っています」

私はどうにか笑った。

「ありがとうございます」

もう言うことはない。
本当は山ほどあるのに、言ってしまったら終われない。

小書斎の扉を閉める直前、机の上の黒いケースが視界の端に映った。
小さな箱なのに、あの部屋のどんな書類より重たく見えた。
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