【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
部屋へ戻ると、スーツケースはもう閉じるだけだった。
最後に一度だけ、ぐるりと見回す。

見慣れないまま終わると思っていた部屋が、いつの間にか、私にとって居心地がいい場所になっていた。

私はスーツケースの持ち手を引いた。

廊下へ出る。
階段を下りる。
広いホールを抜ける。

ひとつ歩くたびに、思い出が足首へ絡みつくみたいだった。
屋敷は広い。
広すぎるのに、今日に限っては狭い。
思い出が多すぎて、どこを通っても逃げ場がなかった。

玄関ホールには、使用人さんたちが並んでいた。

執事長、料理長、メイド頭、その後ろに若い使用人さんたちまでいる。
みんな、きれいに背筋を伸ばしているのに、目元だけが少しずつ赤い。

「……こんなの、反則です」

私が言うと、料理長が困ったように笑った。

「最後くらい、お見送りをさせてください」

ああ、だめだ。
ここで泣いたら終わる。

私はスーツケースを置いて、深く頭を下げた。

「短い間でしたけど、本当にお世話になりました」

「こちらこそでございます」

執事長が静かに返す。
いつも通りの完璧な声音なのに、少しだけ掠れていた。

若いメイドさんが、堪えきれないみたいに言う。

「奥様が来てから、屋敷が明るくなりました」

その呼び方に、胸の奥がぎゅっと縮む。

「最後まで奥様って呼んでくださって、ありがとうございました」

私がそう言うと、何人かがとうとう泣きそうな顔になった。
料理長は、小さな包みを差し出してくる。

「簡単なものですが、お昼に。食べないと叱られますから」

思わず笑ってしまう。
最後まで、そういうところだ。

「はい。ちゃんと食べます」

そこへ、少し遅れて会長夫妻も来てくれた。
夫人は私を抱きしめて、「元気で」と繰り返す。
会長は長々とは言わず、ただ「困ったら連絡しなさい」とだけ告げた。
その短い言葉の中にあるものが分かるから、また泣きそうになる。

最後に、御堂が玄関の脇から一歩進み出た。

「車を回しています」

「……ありがとうございます。でも、ここからは一人で行きます」

自分でも驚くほど、はっきり言えた。

「駅までくらい、自分で歩きたいんです」

少しだけ間があって、御堂は頷いた。

「承知しました」

それから、珍しく少しだけ言い淀んで、続ける。

「別れ際の正解は、やはり最後まで分かりませんでした」

「はい」

「ですが、あなたは十分に立派でした」

その一言で、危うく涙が落ちそうになる。
この人がこんなふうに言うのは、たぶん本当に珍しい。

「……ありがとうございました、御堂さん」

「こちらこそ。なお、生活に困った場合の相談窓口として、私のことは覚えておいてください」

「御堂さんらしい。ほんと、優しいのに、不器用ですね」

「恋愛経験がないので」

「そこはもう知ってます」

ほんの少しだけ、みんなが笑った。
笑えたことが、余計につらい。

私はもう一度だけ頭を下げた。
それからスーツケースを引いて、玄関の扉へ向かう。

外の光が明るい。
眩しすぎるくらいだ。
ここへ来た日みたいな雨なら、もう少し気持ちを誤魔化せたかもしれないのに。

扉の取っ手に手をかけて、外へ開いた。

最後に怜央と会えなかったことが、少し心残りでもあり、少し安心もした。
もう、ここは私の帰る場所じゃない。
そう言い聞かせて、一歩を踏み出そうとした、そのとき。

「梨音」

彼と出会ってから一番の大きな声に、私は扉を開ける手を止めた。
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