初恋はまだ終わらない、隣の席で
第1話 再会は、締切の朝に

 四月の朝、生活情報誌「まちあかり」編集部の窓を少しだけ開けると、夜のあいだに机へ溜まっていた紙とインクのにおいが、やわらかく外へ逃げていった。麻美は指先で窓枠のほこりを払ってから、壁の締切表へ目を向けた。赤い丸、青い付箋、修正の矢印。まだ始業十分前だというのに、頭の中では今日の順番がもう並んでいる。

 連休前特集、商店街の新装開店、町立図書館の読み聞かせ欄。その横に、昨夜編集長が書き足したばかりの新しい欄がある。

 ノンフィクションの恋物語。

 黒い油性ペンの文字は、ほかの企画名より少しだけ太かった。勢いで書いた字だ。つまり、思いつきに見えて、たぶん本気だ。

 麻美は机に鞄を置き、印刷した企画書を整えた。端のそろわない紙束を見ると、妙に落ち着かない。三回軽くそろえ、ホチキスの位置を確認し、配布順に並べる。そこまでしてから、ようやく息を吐いた。

 九時を回るころ、瑞葉がやってきた。淡いグレーのカーディガンに、乱れのない前髪。出勤して一番に電卓を叩くような顔なのに、今日は麻美の机の企画書を見た瞬間、片眉だけ上げた。

「ほんとにやるの。恋愛特集」
「やるみたい。巻き返しのために必要です、って昨日三回言われた」
「三回言う時の編集長、本気だね」
「うん。逃げ道ふさぐ時の回数だった」

 瑞葉は苦笑し、麻美の机の端に置いてあった紙コップを持ち上げた。空だったのを確かめてから、捨てに行く。こういうところが瑞葉だ。口は少しきついのに、見えている範囲の乱れを放っておけない。

「で、麻美が担当」
「断れる空気じゃなかった」
「断らない顔してたよ」
「……してた?」
「してた。たぶん自分でも気づかないやつ」

 返す言葉がなくて、麻美は企画書の角を指で押さえた。向いていると思ったことはない。恋愛の聞き書きなんて、もっと人あたりのいい人がやればいい。けれど、胸の奥に、断りたくない気持ちがないわけでもなかった。今のまま、街の行事と店紹介を整えて終わる人ではいたくない。もっと、ちゃんと任されたい。

 十時。全員が会議室に集まるころには、春の光が窓際のテーブルを白く照らしていた。編集長が咳払いをひとつし、企画の狙いを話し始める。読者の年齢層、部数の落ち込み、商店街の回遊率、地元密着の強さ。数字の話が一通り済んだあとで、編集長は企画名を指先で叩いた。

「遠くの特別な恋じゃなくて、隣で起きてる恋を書く。夫婦でも、再婚でも、長く一緒にいる人でもいい。ちゃんと暮らしてる恋を拾いたい」

 拾いたい、という言い方が少しだけよかった。作りたい、でも、売りたい、でもない。拾う。落ちているものに気づくみたいな言い方だったから。

「麻美、進行頼む」
「はい」

 返事をし、麻美は配布資料を順に渡した。印刷所の締切、取材候補、仮の掲載順。手もとはいつも通りに動くのに、喉だけが落ち着かない。今日の打ち合わせには、外部カメラマンも来ると聞いていた。

 会議室の扉が二度、控えめに叩かれた。

「失礼します」

 その声が耳に入った瞬間、紙の端をつまんでいた指先が止まった。

 顔を上げた麻美の視界に、背の高い男が入ってくる。黒いシャツの上に薄手のジャケット。肩から下げたカメラバッグ。以前より骨ばった輪郭。それでも、目元の感じだけでわかった。

 明だった。

 十年前、隣の家からいなくなったまま、何の言葉も残さなかった人。

 明もまた、麻美を見た瞬間に足を止めた。ほんのわずかだ。けれど確かに、呼吸の拍がずれた顔をした。次の瞬間には、それをきれいに消したけれど。

「本日から撮影を担当します、相良明です。よろしくお願いします」

 何も知らない人のように頭を下げる声が、静かすぎて、かえって胸に刺さった。

 編集長が立ち上がって明を迎え、席を示す。麻美は自分の名前を呼ばれる前に、無理に喉を開いた。

「進行と取材原稿を担当します、篠崎麻美です。……よろしくお願いします」

 よろしくお願いします。

 そんな言葉で済む相手ではないはずなのに、そこから先がまるで出てこない。会議室の空気は何も変わらないまま流れていく。編集長は企画の方向を話し、明は必要なところだけ短く質問を返す。撮影日程、掲載サイズ、取材先での許諾確認。きちんとしている。何一つ乱れていない。

 乱れているのは、麻美のほうだけだった。

 資料を渡そうと立ち上がったとき、一番上の紙が指から滑った。会議室の床へ白い一枚が落ちる。拾おうとした瞬間、反対側から伸びた手が先にそれをつまみ上げた。

「どうぞ」

 明はそれだけ言って、資料を差し出した。指先は触れない。昔、塀越しにスイカを受け取ったときは、もっと雑に、もっと近かった気がするのに。

「……ありがとう」
「うん」

 うん。

 たったそれだけの返事に、昔の響きがかすかに混じっていた。けれど、その続きを確かめる前に、編集長が次の話題へ進めてしまう。

 打ち合わせが終わったあと、麻美は会議室に少しだけ残った。ホワイトボードの消し忘れを拭くふりをして、呼吸を整えたかった。だが、背後で椅子を引く音がして、また肩がこわばる。

「進行表、もらっていい?」
「え」
「紙。さっきの、控え用に」

 振り向くと、明が会議室の出口のそばに立っていた。距離を詰めすぎない位置だった。そういう取り方まで昔より上手くなっているのが、妙に腹立たしい。

「あ、うん。これ」
「ありがとう」

 また、それだけだ。ありがとうと、よろしくと、どうぞ。ちゃんとした大人の言葉ばかりが並んで、その隙間にあるはずの十年が、どこにも見えない。

 明が去ったあと、麻美はホワイトボード用の布を握ったまま、しばらく動けなかった。

 昼休み、瑞葉は何も聞かずにコンビニのサンドイッチを机へ置いた。代わりに、ペットボトルのキャップだけ開けてからよこした。

「顔、わかりやすすぎ」
「そんなに?」
「会議室で三回くらい瞬き忘れてた」
「数えたの」
「心配だったから」

 麻美はサンドイッチの袋を開ける気になれず、机の端に寄せた。視線の先では、編集長が明に街の地図を広げている。明は昔から、何かを決める前に全体を見る人だった。細かいことを話しながらも、まず町全体の道と流れを頭へ入れていく。その横顔を見た瞬間、高校一年の春、駅前で自転車を押していた背中が脳裏によみがえった。

 忘れていなかったことに、麻美は自分で少し嫌になる。

 夕方、初回取材候補の確認を終えた帰り際、明は一人で編集部を出た。麻美は窓からその背中を見つけた。まっすぐ駅前の歩道橋へ向かっていく。

 気づけば、手の中のペンを置いて、同じ方向の窓へにじり寄っていた。

 歩道橋の上で、明はすぐにカメラを構えなかった。欄干に手を置き、町を見下ろしている。駅前のロータリー、古い商店街の屋根、遠くの低い山並み、午後の光に細く反る線路。人の顔ではなく、最初に町全体を見る。その癖は、昔と同じだった。

 それからようやく、明はカメラを持ち上げた。

 春の風でシャツの裾が少しだけ揺れ、一枚目のシャッター音が、窓越しのここまで届いた気がした。

 麻美は、知らないふりをしていた時間が、たった一日で音を立てて崩れたことを認めるしかなかった。
【終】

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