初恋はまだ終わらない、隣の席で
第2話 硬い写真の男
初回のロケハンは、編集部から歩いて十五分のところにある古い和菓子屋から始まった。店先に薄桃色ののぼりが立ち、ガラスケースの中に柏餅と草団子が並んでいる。開店直後の店内はまだ客足が少なく、白い蛍光灯の光が床へ静かに落ちていた。
麻美が店主夫妻へ挨拶をし、掲載予定の説明をしているあいだ、明はすぐにはカメラを向けなかった。まず入口の引き戸がどちらへ開くかを見て、次に、レジ前に立った人の影がどこへ伸びるかを確かめる。棚の高さ、ガラスの反射、店の奥から聞こえる蒸し器の音。視線が細かく動いているのに、身体はほとんど動かない。
その仕事ぶりを、麻美は横目で見ていた。
うまい、と思う。認めたくないわけではない。ただ、見ていると胸が落ち着かないのだ。昔から明は、必要なものを先に見つけるのが早かった。体育祭の前に雨が降りそうな空を、誰より先に言い当てたり、バーベキューの火が弱くなる前に炭を足したり、麻美が転ぶより前に手すりの欠けた場所に気づいたり。
今の明も同じように、店の空気のどこが写真になるかを、黙って見つけていく。
「ご主人、蒸籠を持つ手、ちょっとそのままでいいですか」
低い声でそう頼み、明は一歩だけ位置を変えた。シャッター音は控えめなのに、妙に耳へ残る。正面から顔を狙わず、蒸気の向こうに見える手元を撮る。妻が草餅へきな粉をまぶす指先も、ケース越しにそっと拾う。
取材自体は順調だった。二人で始めた店を五十年続けていること。喧嘩は多いが、毎朝お茶の濃さだけは相手の好みに合わせていること。そんな話をメモしながら、麻美は思った。これは恋愛の派手な話ではない。たぶん、編集長が欲しかったのは、こういう毎日の積み重ねだ。
店を出たあと、明は店の外観を数枚撮った。庇の影、少し剥がれた看板の文字、朝日に透けるのれん。無駄がない。けれど、なぜか息苦しいほど整って見える。
午後、編集部へ戻って撮った写真を確認すると、編集長が小さく唸った。
「うまいなあ」
「ありがとうございます」
「いや、ほんとうまい。構図も光もきれいだ」
褒めているのに、そこで言葉が切れた。明はモニターから目を離さない。麻美もなぜか背筋を固くした。
「ただな」
「はい」
「きれいだけど、ちょっと硬いな」
会議室が一瞬だけ静まり返った。
麻美はとっさに編集長の顔を見た。明は否定もしなければ、苦笑いもしない。ただ短く「そうですか」と返しただけだった。
画面には、蒸気の立つ蒸籠、整った店内、光の回る角度まで計算されたような一枚が並んでいる。確かにきれいだ。説明もしやすい。誌面に載せれば、誰が見ても上手いと思うだろう。
けれど、たしかに少しだけ、温度が遠い。
麻美はそれを認めたくなくて、口を開いた。
「情報はちゃんと入ってると思います」
「入ってるよ。だから難しいんだよな。足りないわけじゃない。もう一歩、息づかいがほしいっていうか」
編集長は画面の前で腕を組み、うまく言葉を探しているようだった。明は表情を変えないまま、次の写真へ送る。そこにも、同じような美しさと距離があった。
打ち合わせが終わって席へ戻るとき、麻美は明の横を通り過ぎる瞬間、つい小さく言った。
「私は、嫌いじゃない」
「何が」
「写真」
「……そう」
明はそれだけ返した。慰めだと受け取られたのかもしれない。あるいは、そんなつもりではないと見抜かれたのかもしれない。どちらにしても、うまく続けられない。
夕方、晃聡の喫茶店「文明」へ寄ることになった。初回特集の取材先候補でもあり、ロケハンのついでに企画の説明をしておきたいと編集長が言ったからだ。
商店街の角を曲がると、茶色い木枠の窓が見えてくる。喫茶店「文明」は、看板の金文字が少しかすれているのに、なぜか店構えだけはしゃんとしていた。扉を開けると、コーヒー豆の深い香りと、少し甘いカラメルのにおいが混ざって鼻へ入る。
「お、いらっしゃい。今日は団体か」
カウンターの向こうから声をかけてきた晃聡は、白いシャツの袖を肘までまくっていた。目尻にいつも笑いじわが寄っている人だ。麻美を見るなり「おつかれ」と軽く顎を上げ、次に明へ視線を移したとたん、口元の笑みが濃くなった。
「うわ。まじか」
「久しぶり」
「久しぶり、で済ませる顔じゃねえだろ。おまえ、ほんとに帰ってきてたんだな」
晃聡はカウンターから半分身を乗り出した。その視線が明と麻美のあいだを行き来し、それだけで事情を全部察した顔になる。
「なに、おまえら、まだぎこちないのか」
「別に」
「ぎこちなくない」
「その同時否定、いちばんぎこちないやつ」
晃聡が声を上げて笑った。明は肩をすくめ、麻美はメニュー表を手に取るふりをして視線をそらす。店内のレコード棚、窓辺の観葉植物、壁際に寄せてある古いピアノ。見慣れたものばかりのはずなのに、今日は妙に落ち着かない。
企画の説明を一通りすると、晃聡は「面白そうじゃん」とあっさり頷いた。
「恋の聞き書きねえ。うちでよけりゃ話せることもあるかもな。祖母ちゃんの代から客の人生見てっから」
「ありがとう。正式に取材お願いする時はまた日程詰めさせて」
「おう。あ、でもまずコーヒー飲んでけ。説明料」
そう言って出されたブレンドは、苦味のあとに少しだけ甘さが残った。麻美はカップを持ち上げながら、店内の光を見回した。夕方の斜めの陽射しが窓から入り、カウンターの木目を長く照らしている。
明は店の奥へは入らず、入口側の席から室内を見ていた。麻美が気づくと、彼は迷いなくカメラを構えた。窓からの光で照らされるカップの縁、晃聡が布巾を絞る手、カウンター越しに伸びる湯気。人の顔を真正面から撮る前に、そこにあるものの働き方を撮る。
「顔じゃなくて手ぇ撮れよ」
晃聡が言ったのは、まさにその時だった。
「俺、この店では手の方が働いてっから」
冗談めかした言い方なのに、妙に本当だった。明は一瞬だけ目を上げ、それからまたファインダーをのぞき込んだ。次のシャッター音は、さっきまでより少しだけ近い気がした。
帰り道、麻美はそのことを思い返しながら歩いた。編集長の言った「硬い」が、どこにあるのか少しわかる。明の写真は、きれいで、正確で、間違っていない。けれど、人が笑う前の迷いとか、言いよどむ呼吸とか、そういうものの一歩手前で止まっている。
それはたぶん、写真だけの話ではない。
夜、自宅の自室で古い引き出しを開けた時、高校時代の写真が何枚か出てきた。文化祭の準備、部活帰りの駅前、夏の終わりの花火。人の後ろ姿ばかりで、明が正面を向いて写っているものは少ない。
その中の一枚に、校門の外で自転車を押す明の横顔があった。誰かに撮られたものだろう。少し離れた位置からの写真なのに、不思議と目が吸い寄せられる。
昔から、遠かったのだ。
なのに、忘れたつもりでいただけで、見つけた途端に胸が騒ぐくらいには、ちゃんと残っていた。
麻美は写真を裏返して引き出しへ戻した。消灯前の部屋は静かだったのに、心の中だけ、会議室で聞いたひと言が何度も残る。
きれいだけど、硬い。
その評価に、自分でも説明できない苛立ちを覚えるのは、たぶん明の写真にだけ向けた感情ではないと、麻美は薄々わかっていた。
【終】
初回のロケハンは、編集部から歩いて十五分のところにある古い和菓子屋から始まった。店先に薄桃色ののぼりが立ち、ガラスケースの中に柏餅と草団子が並んでいる。開店直後の店内はまだ客足が少なく、白い蛍光灯の光が床へ静かに落ちていた。
麻美が店主夫妻へ挨拶をし、掲載予定の説明をしているあいだ、明はすぐにはカメラを向けなかった。まず入口の引き戸がどちらへ開くかを見て、次に、レジ前に立った人の影がどこへ伸びるかを確かめる。棚の高さ、ガラスの反射、店の奥から聞こえる蒸し器の音。視線が細かく動いているのに、身体はほとんど動かない。
その仕事ぶりを、麻美は横目で見ていた。
うまい、と思う。認めたくないわけではない。ただ、見ていると胸が落ち着かないのだ。昔から明は、必要なものを先に見つけるのが早かった。体育祭の前に雨が降りそうな空を、誰より先に言い当てたり、バーベキューの火が弱くなる前に炭を足したり、麻美が転ぶより前に手すりの欠けた場所に気づいたり。
今の明も同じように、店の空気のどこが写真になるかを、黙って見つけていく。
「ご主人、蒸籠を持つ手、ちょっとそのままでいいですか」
低い声でそう頼み、明は一歩だけ位置を変えた。シャッター音は控えめなのに、妙に耳へ残る。正面から顔を狙わず、蒸気の向こうに見える手元を撮る。妻が草餅へきな粉をまぶす指先も、ケース越しにそっと拾う。
取材自体は順調だった。二人で始めた店を五十年続けていること。喧嘩は多いが、毎朝お茶の濃さだけは相手の好みに合わせていること。そんな話をメモしながら、麻美は思った。これは恋愛の派手な話ではない。たぶん、編集長が欲しかったのは、こういう毎日の積み重ねだ。
店を出たあと、明は店の外観を数枚撮った。庇の影、少し剥がれた看板の文字、朝日に透けるのれん。無駄がない。けれど、なぜか息苦しいほど整って見える。
午後、編集部へ戻って撮った写真を確認すると、編集長が小さく唸った。
「うまいなあ」
「ありがとうございます」
「いや、ほんとうまい。構図も光もきれいだ」
褒めているのに、そこで言葉が切れた。明はモニターから目を離さない。麻美もなぜか背筋を固くした。
「ただな」
「はい」
「きれいだけど、ちょっと硬いな」
会議室が一瞬だけ静まり返った。
麻美はとっさに編集長の顔を見た。明は否定もしなければ、苦笑いもしない。ただ短く「そうですか」と返しただけだった。
画面には、蒸気の立つ蒸籠、整った店内、光の回る角度まで計算されたような一枚が並んでいる。確かにきれいだ。説明もしやすい。誌面に載せれば、誰が見ても上手いと思うだろう。
けれど、たしかに少しだけ、温度が遠い。
麻美はそれを認めたくなくて、口を開いた。
「情報はちゃんと入ってると思います」
「入ってるよ。だから難しいんだよな。足りないわけじゃない。もう一歩、息づかいがほしいっていうか」
編集長は画面の前で腕を組み、うまく言葉を探しているようだった。明は表情を変えないまま、次の写真へ送る。そこにも、同じような美しさと距離があった。
打ち合わせが終わって席へ戻るとき、麻美は明の横を通り過ぎる瞬間、つい小さく言った。
「私は、嫌いじゃない」
「何が」
「写真」
「……そう」
明はそれだけ返した。慰めだと受け取られたのかもしれない。あるいは、そんなつもりではないと見抜かれたのかもしれない。どちらにしても、うまく続けられない。
夕方、晃聡の喫茶店「文明」へ寄ることになった。初回特集の取材先候補でもあり、ロケハンのついでに企画の説明をしておきたいと編集長が言ったからだ。
商店街の角を曲がると、茶色い木枠の窓が見えてくる。喫茶店「文明」は、看板の金文字が少しかすれているのに、なぜか店構えだけはしゃんとしていた。扉を開けると、コーヒー豆の深い香りと、少し甘いカラメルのにおいが混ざって鼻へ入る。
「お、いらっしゃい。今日は団体か」
カウンターの向こうから声をかけてきた晃聡は、白いシャツの袖を肘までまくっていた。目尻にいつも笑いじわが寄っている人だ。麻美を見るなり「おつかれ」と軽く顎を上げ、次に明へ視線を移したとたん、口元の笑みが濃くなった。
「うわ。まじか」
「久しぶり」
「久しぶり、で済ませる顔じゃねえだろ。おまえ、ほんとに帰ってきてたんだな」
晃聡はカウンターから半分身を乗り出した。その視線が明と麻美のあいだを行き来し、それだけで事情を全部察した顔になる。
「なに、おまえら、まだぎこちないのか」
「別に」
「ぎこちなくない」
「その同時否定、いちばんぎこちないやつ」
晃聡が声を上げて笑った。明は肩をすくめ、麻美はメニュー表を手に取るふりをして視線をそらす。店内のレコード棚、窓辺の観葉植物、壁際に寄せてある古いピアノ。見慣れたものばかりのはずなのに、今日は妙に落ち着かない。
企画の説明を一通りすると、晃聡は「面白そうじゃん」とあっさり頷いた。
「恋の聞き書きねえ。うちでよけりゃ話せることもあるかもな。祖母ちゃんの代から客の人生見てっから」
「ありがとう。正式に取材お願いする時はまた日程詰めさせて」
「おう。あ、でもまずコーヒー飲んでけ。説明料」
そう言って出されたブレンドは、苦味のあとに少しだけ甘さが残った。麻美はカップを持ち上げながら、店内の光を見回した。夕方の斜めの陽射しが窓から入り、カウンターの木目を長く照らしている。
明は店の奥へは入らず、入口側の席から室内を見ていた。麻美が気づくと、彼は迷いなくカメラを構えた。窓からの光で照らされるカップの縁、晃聡が布巾を絞る手、カウンター越しに伸びる湯気。人の顔を真正面から撮る前に、そこにあるものの働き方を撮る。
「顔じゃなくて手ぇ撮れよ」
晃聡が言ったのは、まさにその時だった。
「俺、この店では手の方が働いてっから」
冗談めかした言い方なのに、妙に本当だった。明は一瞬だけ目を上げ、それからまたファインダーをのぞき込んだ。次のシャッター音は、さっきまでより少しだけ近い気がした。
帰り道、麻美はそのことを思い返しながら歩いた。編集長の言った「硬い」が、どこにあるのか少しわかる。明の写真は、きれいで、正確で、間違っていない。けれど、人が笑う前の迷いとか、言いよどむ呼吸とか、そういうものの一歩手前で止まっている。
それはたぶん、写真だけの話ではない。
夜、自宅の自室で古い引き出しを開けた時、高校時代の写真が何枚か出てきた。文化祭の準備、部活帰りの駅前、夏の終わりの花火。人の後ろ姿ばかりで、明が正面を向いて写っているものは少ない。
その中の一枚に、校門の外で自転車を押す明の横顔があった。誰かに撮られたものだろう。少し離れた位置からの写真なのに、不思議と目が吸い寄せられる。
昔から、遠かったのだ。
なのに、忘れたつもりでいただけで、見つけた途端に胸が騒ぐくらいには、ちゃんと残っていた。
麻美は写真を裏返して引き出しへ戻した。消灯前の部屋は静かだったのに、心の中だけ、会議室で聞いたひと言が何度も残る。
きれいだけど、硬い。
その評価に、自分でも説明できない苛立ちを覚えるのは、たぶん明の写真にだけ向けた感情ではないと、麻美は薄々わかっていた。
【終】