あなたをストーカーにしてごめんなさい

最初で最後のドライブデート


​エンジンの振動が止まると、急に波の音と、遠くで響くジェットエンジンの音が耳に入ってきた。
フロントガラスの向こう、まだ少し青白い空をバックに、巨大な機体がゆっくりと高度を上げていく。
​「見て、カンチ。また飛んだ」

​私はセブンイレブンの袋から、まだ温かいおにぎりを取り出した。夜通し「いらっしゃいませ」と笑い続けてこわばった頬が、潮風で少しだけ解けていく。

​隣に座る男——カンチは、肩まであるボサボサの髪を雑にかき上げると、ビールの代わりに買った炭酸水のペットボトルを「プシュッ」と景気よく開けた。
​「ほんと、お前は飽きねえなあ」

​カンチは、マヨネーズがはみ出しそうな安っぽいパンを頬張りながら、愉快そうに喉を鳴らして笑った。
​「俺、友達に言ってやろうかな。『俺の彼女は、飛行機が見えて飯食ってればごきげんなんだぜ』って(笑)」

​「彼女じゃないし。……まだ指名客でしょ」
​私はわざと冷たく返して、鮭のおにぎりを口に放り込む。本当は、そう言われて胸の奥がチリッと熱くなったのを隠したかった。

​「いいじゃんか。富永勝(と書いてスーパースターと読むらしい)の横に座れるのは、世界中でお前だけなんだから。光栄に思えよな」
​そう言って笑う彼の横顔は、夜の店で見るよりもずっと年相応で、少しだけくたびれていて、そして——私の知るどの男よりも自由に見えた。

​家には、パチンコに負けて寝こけている旦那と、借金の督促状と、泣き疲れて眠る子供がいる。
でも、この駐車場に流れる時間だけは、誰にも、何にも、奪われたくない私だけのものだった。

​「ねえ、カンチ」
「んー?」
「……次、大きいのが飛んできたら、一口ちょうだい。そのパン」
​カンチは「強欲な女だなあ」と笑いながら、半分に割ったパンを私の口元に差し出した。その屈託のない笑顔を見つめながら、私は心の中で、あの夜のことを反芻していた。

​——3週間前に遡って。
​それは、単なる「同伴」の約束だった。
「飯食ってから一緒に店行こうぜ」

カンチのその誘いに、私はいつもの仕事の延長だと思って応じた。夕食を終え、当然店に向かうものだと思って助手席に座る。けれど、車はネオンの光る繁華街とは真逆の方向へ走り出した。

​「……ちょっと、どこ行くの?」
​困惑する私を横目に、カンチはハンドルを切りながら、まるでおもちゃを見つけた子供のような顔で言った。

​「誘拐(笑)」
​冗談に決まっている。そう思いながらも、加速する景色に心臓の鼓動が早まる。「仕事に行っている」ことになっている私には、店が閉まる時間までに戻ればいいという計算があった。だから、カンチの車を降りなかった。

降りる勇気がなかったのか、降りたくなかったのか、今となってはもう分からない。
​連れて行かれたのは、彼の家だった。
「悪い、お酒飲んじゃった。酔い醒まさねーと、もう送れねえわ」

ソファに座り込み、ビールを煽るカンチを見て、私は時計を見るのをやめた。

「……ねえ、勝ちゃん」
「なんだよ、改まって」
「その、ボサボサの頭。……神田川みたい」
「は? なんだよその古い歌」

「『貴方は私のからだを抱いて、冷たいねって言ったのよ』って……」
​私が小さく口ずさむと、彼は「似合わねえなあ」と呆れたように笑った。

でも、そのボサボサの髪が、あまりにもその歌の情景のように頼りなく、愛おしく見えてしまったのだ。
​「勝ちゃん、って呼ぶの、もうやめるね」
「急にどうした」
「……カンチ。今日から、カンチって呼ぶ」

「なんだよそれ。ドラマの見すぎだろ」
​茶化しながらも、彼は否定しなかった。

​その夜、私は「お母さん」であることをやめた。

旦那の借金、パチンコの音、夜の街の喧騒、子供の泣き声。私を縛り付けていたすべての鎖を、この散らかった部屋のドアの外に置いてきてしまった。

​「どうして、こんなことになっちゃったのか……」
​自分でも制御不能な感情が渦巻いていた。私は今、お母さんである前に、一人の「オンナ」になってしまっている。

​結局、その日を境に私は家に帰ることをやめた。
スマホの電源を切り、現実を遮断した。
カンチと、ビールと、猫と、それから彼との情愛。
それだけが世界のすべてになった、あまりにも長くて短い、3週間の失踪劇が始まったのだ
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