アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
prologue
最後の一音が、夜の空気に溶けて、消えた。
しん、と静まり返った空間は冴え冴えとしており、どこか寒気さえ感じられる。
それだけ、場の空気が凛としていた――その、一瞬の後、火山が噴火をはじめたかのように轟音の拍手が、爆ぜる。
それは惜しみない称賛を示していた。
総立ちの観客。涙を流す聴衆。この場にいるすべての人間が圧倒されている。
『完璧な演奏だった』と誰もが口にするであろう。だが、多賀宮奏は無表情のまま静かに一礼する。
視線を上げれば、無数の笑顔と熱が周囲にまとわりつく。自分に向けられたものだと理解はしていても、どこか遠い、他人事のように感じられるのが常であった。
――足りない。
分厚いガラス越しに眺めているような、不思議な隔たりが奏を苛む。
胸の奥に残るはずの何かが、決定的に欠けている。
正確な音、技術、そして解釈。研ぎ澄まされ、何年もかけて鍛えてきた指が、今夜も寸分の乱れなく動き、コンサートを成功に導いた。
それなのに、なぜか今夜も満たされることがない。
舞台袖へ向かう足が、不意に止まる。理由はわからない。だが、その場で彼は違和感を抱いてしまった。