アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
 ――俺の、音……?

 気がついたときには、暗い客席へ踏み出していた。
 すでに人影はまばらだ。係員の声や遠ざかる靴音だけが遠くで続いている。
 それなのに、奏の耳にはまだ自分の音が残っているような気がしたのだ。残響――迷子になっている音が、自分を呼んでいる。
 その先に、ひとり……席に座ったまま、動かない影があった。
 視線を向けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。上品な黒のナイトドレスは華やかな場で目立つこともなかったが、顔を上げた際に小粒の真珠があしらわれた髪飾りがしゃらりと揺れ、奏の視線を捕らえる。ひとりで観に来た婦人にしては、ずいぶん若い気がする。
 奏と彼女の目が合う。
 光の加減もあるのだろう、彼女は琥珀のようなやわらかな色の瞳を宿していた。
 その奥に光るものを見て、奏は息を呑む。それは、見慣れた賞賛でも、興奮でもない――まだ見ぬ音を、追っている目だった。
 ……まるで、音がまだそこに在ると信じているかのような。
 凝視していた彼に気づいたのか、ためらいがちに女性が口を開く。

「……あの?」
「コンサートは、終わったが」
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